年を取ってくると、自分の人生がこれから先短いなあと感じた時、また病気になって死を感じた時に、これから先の人生をどう生きるか等をぼんやりではあるが真剣に考えはじめる時がある。
私がそんなことを考える時は、自分の周りであまり年が違わない人が死んだと聞いた時などである。
今日の新聞のコラムには、「人の生きた証を考える」と言う表題で三人の人が自分の思うところを書いている。
一人は、本の出版社の人、他に、写真家、著述業の若い人が、各々の視点で人の「生きた証を考える」というテーマで書いている。
こんな新聞の論調でなくても、私たち一般人も、人は自分の人生が残り少ないと感じたときには、どう生きるかを考えざるを得ないと思う。
私の場合は何回か考えた結果、今は、何をやってもどうせ生きた証が残ることは普通人にはないと結論した。
人類50何億人のうちの一人として生きて、そして死んだという他、何もないのが普通であると思う。
ならば生きた証っていうのは何かというと、私見ではあるが、自分と縁のあった人の心に、生きた証っていうのは残って行くと思う。
したがって、そんな証は縁のある人がなくなった時に完全に消えていくと思う。
生きた証は、周りの人の心に、何かの傷跡を残して行くこと、それは、物であったり、写真、文章であったり、人の心の中のその人の記憶であったりする。
それも、そう大した期間、残るもんではない。
したがって、どう頑張ってみても、日本の国で、すべてに真ん中くらいの生活をしているぐらいの人間であれば、たいした傷跡は、社会に残していけないものであろうと思う。
たとえ、そうでなく重要と思う事件によって、社会に記憶を残したとしても、長い歴史の中の一コマで、千年もすれば消えていく。
そんなことを考えると、私の場合は、ささやかながら家族の心のどこかに傷跡があればいいかなと思っている。
特に孫に期待して、彼の頭のどこかに傷跡を残してやろうと思っている。
傷跡とはもちろん生きた私の一瞬の結果による彼の頭にある記憶のことです。
迷惑なことですが、家系というのは、そんなことがあるから、続いていくのだと思う。