・・・秋の到来を踏まえて、生垣の剪定をした。 強く刈りこむのは一年に一回くらいで、形を整える剪定を一年に、もう一回はする。 今回は伸びた新芽を刈り込む程度にした。
生垣は合計30メートル近くあり、且つ家の裏側はコンクリート擁壁2.5mの上になり、剪定は、梯子の上の作業なので、大変である。 主に電動の剪定機で作業をするのではあるが、年齢を経ると共に重作業になってきた。 これが続けて、やれるように体を鍛えなくてはと改めて今回は感じた。
・・・秋の到来を踏まえて、生垣の剪定をした。 強く刈りこむのは一年に一回くらいで、形を整える剪定を一年に、もう一回はする。 今回は伸びた新芽を刈り込む程度にした。
生垣は合計30メートル近くあり、且つ家の裏側はコンクリート擁壁2.5mの上になり、剪定は、梯子の上の作業なので、大変である。 主に電動の剪定機で作業をするのではあるが、年齢を経ると共に重作業になってきた。 これが続けて、やれるように体を鍛えなくてはと改めて今回は感じた。
・・・早朝に外に出ると、今までのように半袖・半ズボンのランニングスタイルでは、肌寒く感じる季節になりました。
ここ一週間くらい、晴れが続いています。
畑も秋植え、冬収穫の葉物野菜が植えつけられています。
早速、芽が出たところを狙って鳥がつついています。
花は今の季節、彼岸花が満開です。
これから日を増すごとに朝夕、寒く感じる日が多くなります。
・・・古代史の好きな私は図書館の歴史書の棚を月に一度くらいの割で覗きに行く。 時折、本棚に面白い本を見つけることがある。
今回は、郷土の本のコーナを見ていて、書名が「風土記」と云う言葉に目が留まった。 出雲や常陸など有名な風土記が多い中、地元に「風土記」があったのかと、手に取って、本棚の前で、本の内容をざっと見てみると、私が住いする、東海市在住の歴史愛好家の自家出版の本であった。
私が知る限り、東海市の古代史に関する本もほとんど無いので、早速興味深く、読ましていただいた。 著者は以前このブログで書かしてもらった、製塩遺跡の松崎遺跡ほかの東海市の遺跡発掘に数か所、参加しておられた方らしく、地元の古代史に関する、かなり詳しい知識をこの本から多く得ることが出来、私のこれからの勉強の参考になった。
・・・古代史の中で、現在の天皇家の直系の天皇と云われる継体天皇のゆかりの場所に、私は以前から、興味があり、訪ねたい希望がありました。
継体天皇の古墳である今城塚古墳は数年前に訪れこのブログで紹介しました。 継体天皇は琵琶湖のほとりの高島郡三尾と云うところで生まれたと日本書紀には書かれている。 そして、彼の父方の系統が息長氏で、母方の系統が三尾氏とも云われている。
上の地図は継体天皇にゆかりのある場所が書かれている地図です。
また、関連する、息長古墳群は関ヶ原の京都寄りに在り、古代では不破の関近くの交通の要所を納めていた豪族の墓です。
本拠地の米原市周辺に三世紀前半から、継体天皇が即位した六世紀前半の頃までの古墳が、数多くあり、今回、車で訪ねてきました。
訪れて、感想は、息長氏が支配したとされるあたりは、見渡す限りの田が続く、豊かな土地であることと、交通の要所で、古代重要な場所であったと云う事を感じました。
・・・昼はまだ、ジョグが出来る気温ではないが、朝なら、九時ごろまではジョグできる気温です。
「早い田では稲刈りが始まっています」
「柿も収穫期になりました」
「ザクロの実も赤くなりました」
毎年、同じ場所で、同じ時期に、柿やザクロの木に、同じように色づいた実を見ると、一年の経過の速さを感じ、不思議に思います。
・・・本やテレビなどで、時々、心に残る言葉と出会うことがある。 朝刊のコラムの文章に「グッとくる大先輩の言葉」と云うタイトルがあった。 その中に、99歳の京都のおばあちゃんが遺した言葉と云う紹介があって、
・止まってもええんや、また歩きとぉなるがな
・心がざわざわすることは無視しぃ
・心がぽっとあったこぉなる方を選びよし
・覚悟を決めよし
私の出身地に近い言葉なので、余計に、スッと心に入ってきました。 言葉の解説が無くても、自分の人生経験から、どこかに書き留めて置きたいなぁーと感じる言葉です。
私にも、もう亡くなった母の言葉でいつも心に浮かぶ言葉があります。
・どうせやったら、楽しく生きなー、損やでー。
人生の節目節目で、私の助けとなった言葉です。
・・・黒色の肩掛けカバンを完成したので、以前に縫った黄土色の鞄の不具合点を黒色カバンの経験を活かし、改善した。
「以前に作った黄土色の肩掛けカバン」
「改造した後の肩掛けカバン」
改善点はいくつかあるが、その一つは、鞄のマチ方向の幅を3㎝から5㎝に増やし、カバンの縦方向の寸法を3㎝長くしました。
一度部品にばらして、マチは新しく作り、長手方向は後ろ身に革をたしました。
改善点の二つ目は鞄の中を整理できるように携帯電話とデジカメを納めるケースをマジックテープで取り付けるようにしました。
・・・おやつ用にバナナケーキを焼きました。 忘れたころにしか、ケーキは焼かないので、焼くたびに、同じ、改善点を思い出すような状態で、あまり上達はありません。
今回は、バナナのパウンドケーキを焼きましたが、バナナの他に、生のパイナップルを半個入れた結果、混ぜ物が多すぎて、パサパサ感が多いケーキになってしまいました。
味は良かったので、自分が食べるおやつ用には良いかと思っています。
・・・藤堂高虎は15歳の時に浅井家に仕えてから、生涯七人の主君に仕え、大坂の陣も生き残り、32万石の大大名になった武将です。
「津城内の藤堂高虎像」
彼は築城の名手として知られ、彼が手がけた城は宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城、その他に修築をした城は、聚楽第、伏見城、江戸城、篠山城、丹波亀山城、大阪城、二条城などがある。
「再建された丑寅櫓」
丑寅櫓は城内最大の五間四方の層塔型三重三層手す。他城では天守に相当する格式を備えている。
津城は1580年に織田信包により築かれた平城で、1608年に入府した藤堂高虎により整備された。
今でも石垣に当時の威容が感じられる。 通常は藤堂高虎の築城の完成形と評価できるらしい。
・・・三重県松阪市は松阪牛で有名ですが、町はずれに松阪城址があります。
松阪城は蒲生氏郷が1588年に築城し、徳川時代は紀州徳川家の藩領となり、明治になるまで、紀州領の松阪、田丸、白子など18万石を統括する城代が置かれてきました。
「松阪城の御番屋敷の生垣」
今は城跡は松阪公園となり、その横に御番屋敷と云われる城に努めた武士長屋が残り、人が実際に住んでいて、長屋の一部は一般見学に開放されています。
・・・この古墳は五世紀の初めの築造で旧伊勢国最大の大きさです。
全長111mの前方後円墳で、全国的な大きさから云うと大したことはないのですが、造りだしから発掘された埴輪が多彩で、全国的に有名になりました。
「展示されていた本物の装飾舟形埴輪」
有名なのは全長が140㎝、高さ92㎝の舟形埴輪で、とくに、装飾を極めた舟形埴輪としては全国で唯一のものです。
その他にも、発掘された、多彩な埴輪が松阪市埋蔵文化センターはにわ館で見学できます。 1700年前の埴輪の実物は素晴らしいもので一見に値します。 展示されている埴輪は今まで私が、見た埴輪の中で、一番素晴らしいものでした。
・・・台風が過ぎ去った日から、よく晴れた空が続いている。
朝は六時ごろ、空が赤く染める朝日が綺麗です。
田んぼが続く道からの朝焼け。
果物畑の中の道から見る日の出。
丘の上から、朝もやの景色越しの、東の空の朝焼け。
西の空に、靄の上に浮かぶ鈴鹿の山々。
・・・黒色の大き目のショルダー鞄を作ることに、取り掛かった。 以前に作った同形状のショルダー鞄より厚みが二倍でサイズは一回り大きくした。 完成品を紹介します。
「完成品の外観」
「カバンの裏側」
「カブセをあけた内側」
「横のバンドで傘を取り付けた」
「カメラと携帯とペンを納める内ケース」
カメラと携帯は何時も持ち歩くので、意外とかさばって、カメラに疵が付いたりするので、カメラと携帯を納める、マジックテープで取り外し出来る内ケースを作った。
これで、私が満足できるカバンに仕上がった。
・・・昨日の台風は我が家のある愛知県を、午前中に通過したので、テレビの台風報道を熱心に見ていた。
そこで気付いたのであるが、台風がどんな状態なのかを伝えるためにテレビの記者が、雨に濡れながら、台風がすごいかと云う事を伝えているが、画面でその台風の風や雨の強さは、それほど伝わらないと云う事です。
しかし、今朝は、ワイド番組で見る現場レポーターの卓越したそれを伝える手法に感心した。
普通の台風レポーターの場合はカッパを着て、普通に立って、雨に濡れながら原稿を読んで伝えていることが多い。
卓越したスキルを持った現場レポーターは、まず、風に対して顔と体を風の方向に、向けて且ち、手は近くの手すりをつかみ、話し始めた。
雨に向かった顔は当然しっかりと濡れるし、手すりをつかむことにより、見ている人は風の強さを感じる。
その手法は、今までの台風報道では見れなかったレポートであった。 ほかに、昨日は何人も台風現場レポーターを見たが彼ほど、画面から、見て分かる、工夫しているレポーターは見なかった。
我々も、過って、自分の考えを、如何に、沢山の人によく分かってもらうかに、苦労したことを、思い出させる仕事ぶりでした。
・・・戦国時代、三重県の北部一帯は信長に侵略された土地です。
神戸城は、1550年頃、神戸氏によって築かれた。
七代で信長に侵略され、和睦の条件として、信長の三男信孝を養子に迎えた。 信孝は天守を築いたが、本能寺の変以降に、その後に天下を取った、秀吉によって自刃させられた。
その後、城は領主を迎えて存続したが、明治になって解体され、天守台と石垣が残され、今は公園になっている。