・・・先日、ここで紹介した邪馬台国九州説というのは、「ヒミコという女王の国、邪馬台国は北九州にあって、魏の国に朝貢していた。 そして、偶然、同じころ、邪馬台国とは関係なく、三世紀から四世紀初めにかけて奈良の巻向に、その時代にあっては、全国最大規模の大きな国があった、そして、後に大和朝廷になっていった」という考え方です。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は北九州にあった小国、邪馬台国の女王の事で、奈良の纏向は魏の国には詳しく知られていなかった、という話も、ひょっとしてあるのかのもと思ってしまいます。
今日一日、自宅にあった纏向遺跡の資料を改めて見直していて、改めてやっぱり邪馬台国は奈良の、纏向にあったのだと思いました。
纏向遺跡を人という字の形に縦断した運河(上図の赤線)が作られていた。
古墳の工事は、この運河によって資材が運ばれたことが、平面図で想像できる。
上の写真は発掘時のものです、実際に発掘で確認された大溝運河の交差点から、箸墓古墳に向かっている(推定)のが分かる。
大溝は板で岸を補強した護岸工事がされていた。
纏向遺跡の最近の考古学の新しい知見で、100メートル近い前方後円墳が、邪馬台国が存在した三世紀中ごろに五基以上も作られています。
また、物資や資材の運搬等に使われた大規模な運河が三世紀初めころ造られている、など、これらの土木工事は、日本の奈良で発生したクニが単独の土木技術で作られるものではないと思った、きっと中国や朝鮮半島から来た技術者の影響が考えられる。
と言う事は、纏向遺跡と中国の魏や、朝鮮半島の国と無交渉ではなかったと思う。
やはり、邪馬台国はどう考えても、奈良纏向遺跡だったと考えざるを得ない。
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