徒然雑感 by おとぼけの父上

R中学のソフトテニスコーチ、エスパルスの応援、その他何でも、日々の雑感を記録していきます。

エスパルス黎明期のお話 懐かしいけど、まとまらない!相変わらずのダラダラです。

2020-10-27 12:29:21 | サッカー(エスパルス編)

何か食べている時、ガリって固いものを噛むときありますよね。魚や肉の骨だったり、揚げ物の何かの塊だったり、干からびた米粒だったり。でも、そう思って確かめたら歯が割れていて、その一部だったことが何度もあるので、それがトラウマとなっています。歯が欠けたらまたは医者さんです。もうそう言うことで行きたくありません。

 

今回のブログネタは、再びプリンの天使様から頂きました。

『清水エスパルス』が誕生した時の地元の興奮と言うか盛り上がり具合、おとぼけの父上さまの当時のお気持ちなどまた、それにまつわるエピソード

ということで、本日も始めます!

まず、Jリーグ発足当時のお話は長くなるので、

こちらに上手く纏められているので、ご参照ください。

OGPイメージ

Jリーグ発足の歴史は?Jリーグ発足時の「オリジナル10」とは何のこと?

Jリーグは、オリジナル10と呼ばれる10個のチームによって発足しました。その10チームの中で、現在残っているのは9つのチームです。オリジナル...

HALF TIME Magazine

 

上記記事にあるように、

「そして、残り2つの枠を、清水市民クラブ、ヤマハ、ヤンマー、日立製作所、フジタ、住友金属の6つのクラブで争うことになったのです。」

立候補したメンバーでの中では、

まずライバルの実績や、バックにある企業を考えれば、

エスパルスはかなり不利と思われていました。

まず、Jリーグは1993年に立ち上がりましたが、

直前の1992年の順位です。

順位 クラブ 勝点 勝利 引分 敗戦 得点 失点 得失差
1位 読売クラブ 51 15 6 1 43 13 +30
2位 日産自動車 43 12 7 3 25 14 +11
3位 ヤマハ発動機 36 11 3 8 30 31 −1
4位 東芝 30 7 9 6 26 24 +2
5位 松下電器 29 7 8 7 25 27 −2
6位 マツダ 27 7 6 9 30 23 +7
7位 JR古河 27 8 3 11 30 38 −8
8位 全日空クラブ 25 6 7 9 20 23 −3
9位 日立製作所 25 6 7 9 22 30 −8
10位 本田技研工業 23 5 8 9 18 25 −7
11位 三菱自動車 21 5 6 11 25 40 −15
12位 トヨタ自動車 20 4 8 10 24 30 −6

読売クラブは今のベルディ。

日産自動車はマリノス。

ヤマハ発動機がジュビロ。

東芝がコンサドーレ。

松下電器がガンバ。

マツダがサンフレッチェ。

JR古川がジェフユナイテッド。

全日空が今は消滅したフリューゲルス。

日立製作所がレイソル。

本田技研工業がまだJFLのHondaFC。

三菱自動車はレッズ。

トヨタ自動車はグランパスです。

後のチームは2部に落ちていて、

2部の順位も、

1位のフジタ(ベルマーレ)。

2位の住友金属(アントラーズ)。

3位ヤンマー(セレッソ)でした。

実績を考えれば、エスパルスが不利なことは一目瞭然でした。

特に、同じ静岡県から2チームが選ばれる可能性は限りなく低く、

サッカー王国静岡を自負していた静岡県民は、

残2チームのうちの1チームは、

絶対、エスパルスかジュビロと思っていました。

(もちろん当時はエスパルスの名前は決まっていないので、

清水市民クラブとして応援していましたが)

 

最初は、ジュビロが優勢だったはずです。

確めた訳でも知っていた訳でもありませんが。

日本リーグ3位の実績と、当時の監督は杉山隆一さん。

釜本杉山の黄金コンビはメキシコオリンピック3位の立役者。

でも、ジュビロも問題を抱えていました。

1990年のプロリーグ参加へのヒアリング調査の際には名乗りを挙げ、最終選考まで残ったが、スタジアムの問題だけは解決できず、浜北市に新スタジアムを建設する案や遠州灘海浜公園球技場を改修する案は自治体の合意を得られず断念。また、磐田市から遠く離れた静岡市の草薙球技場を使用する案も認められず、また清水FC(現エスパルス)との統合案も検討されたが、結局は初年度のJリーグ参加は見送られることになった。スタジアムはヤマハ磐田サッカー場を改築してJリーグ規格にすることで対応することになった。

そして、エスパルスには、いくつかの強みがありました。

静岡がサッカー王国と呼ばれるようになった立役者の一人が、堀田哲爾さん。

1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾よって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた。

のちに、問題も発覚しましたが、彼のサッカーにおけるカリスマ性は、

静岡県民の誇りではありました。

そして、エスパルスに直接の関係はありませんが、

綾部美知枝さん。

飯田ファイターズというサッカー少年団の生みの親です。

彼女が育てたサッカー選手は、

風間八宏、大木武、長谷川健太、大榎克己、堀池巧・・・・

挙げればキリはありません。

そんな全国に知られた指導者がいた静岡県。

本当にサッカー王国でした。

 

話を戻します。

 

最終的に、エスパルスが選ばれた理由は、

1991年に行われた静岡総体のサッカーのために、

日本平運動公園球技場が完成していたこと。

開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、

プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられていました。

そして、

Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。

当時の、静岡県民の多くは、もちろん清水FCを推してくれましたが、

正直、まだ実績に乏しく、

協力なライバルは沢山という現実。

正直、半信半疑というか選ばれるのは難しいかな?

って思っていました。

正直私は無理だろうなって思っていました。

当然選考過程のもろもろの情報は、

今でこそ、あちこちに少しずつ書かれていますが、

当時はまだまだインターネットもポピュラーではなかったし、

実際に発表されるまでは、我々は本当に蚊帳の外でした。

だからこそ、

オリジナル10に入ったことが発表された時の喜びは、

本当にうれしかったものです。

私は真偽はともかく、堀田さんの政治力半端ない!

って思ってました。

当時私はヤマハ発動機(ジュビロ)の事、嫌いではなかったですし、

杉山さんは私のあこがれの人だったので、淋しくは思いました。

親父の伝手で、杉山さんのサイン色紙を小学校の頃もらいました。

今はどこにあるか不明ですが。

参考記事です。

OGPイメージ

順風満帆ではなかったプロサッカーの船出=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回 - スポーツナビ

 いま振り返ると必然的な流れだったように思える「日本サッカーリーグ(1965〜92)」から「Jリーグ(1992〜)」への…

スポーツナビ

 

 多くの人を驚かせたのは、そのなかに住友金属(現在の鹿島アントラーズ)と清水FC(現在の清水エスパルス)が入っていたことだった。JSL1部からの移行が大多数のなか、住友金属は2部、そして清水FCは実質的にまだチームがない状態だったからだ。

 

「鹿島のことはよく知られていますが、茨城県が屋根付きの専用スタジアムを建設することを確約してくれたことが決定的な要因になりました」

 

 静岡県ではヤマハがJSL1部の強豪で、参加意思を表明していた。そこに清水でチームをつくりたいという強力な運動が起こった。当時から清水は日本一のサッカーどころで、高校サッカーで数々の優勝校を出し、JSLの選手だけでなく日本代表選手も多数輩出していた。プロサッカーチームを大きく育てる「ホームタウン」があるとしたら、清水以上の候補地はなかった。検討委員会ではヤマハと清水がひとつになって新しいクラブをつくったらどうかと働きかけたが、ともに「単独で参加」を希望した。

 決め手になったのは、ここでもスタジアムだった。ヤマハは自前の小さなスタジアムを持っていたが、参加条件には合わなかった。清水には、91年の高校総体のためにつくられた日本平運動公園球技場があった。

「ところが、ゴール裏は芝生席で、施設も何もかも不十分だった。決まったあとで、プロサッカーリーグ設立準備室から森健兒さん(当時:競技委員長/後のJリーグ専務理事)が行って『これではだめだ!』と強く言ったら、すぐに改修の動きが始まったのです」

以上です!

コメント (3)
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