マイリビングダイアりぃ

趣味?興味?大好きな人(もの)達について、毎日は無理ですが、更新していきたいと思っています。見に来てくださいね。

関ヶ原の島津義弘(泉 秀樹の歴史を歩くより)

2023-10-11 | カルチャー 見聞
今回は全く知らなかった「関ケ原の戦い」での「島津義弘」という高齢武将の人となりを番組でしました。
ご存じの方は多いかと思いますが、お付き合いくださいませ。
  「秀吉」が「薩摩」へ侵攻してくる前に数々の激戦での戦略にたけていて、「島津一族」を守り抜いた「島津義弘」という高齢武将が「関ヶ原」で「敵前突破」をしたというのは歴史番組関連で知っていましたが、どんなふうに・・というのを詳しく知ることができましたのでUPしますね
  この時期は「家康側」につくという感じだったのですね(凋落でしょうか・・秀吉に対してはよく思っていなかったのでしょうかね)
  ここでまた「家康」にも不信感を持ったのでしょう。
  仕方なく西軍「三成」に付いたんですね
  
  ここでは三成にそれはダメだといってるのですね
  三成も間違いを正しに来ているのだけどそんなことしている場合じゃないのに・・いよいよ関ヶ原・・
  
  
  「義弘さん」も動いてないのですね。この方も動かなかったのは有名です。
でも「家康」の挑発に驚き・・
  
  この話も「義久さん」武士としての威厳ですね
  三成は老武将(泉さん曰く80歳ぐらいじゃないかと・・)の言葉で帰陣・・いよいよ義弘さんの決断の時です(どうする・・ですね)
  
  
  この場面(どうする家康では出てくるのかな? 井伊直政との戦いは描かれるかも・・)
  「忠勝さん」とも激戦してます
  甥の「豊久さん」が少数で翻って突入したのですね
  というのは嘘で・・
 ここで4「影武者」登場だったのです。
  
  この話は「四天王武将」で知りましたが・
  「家康」が天下を取ったということですね
  まだ走り続けてます。
  
  ここでも「生き延びるための知恵」です。
  
  
  
 「高齢武将」が前哨戦で約束をたがわされたり、東軍の「抜け駆け攻め」、三成の戦略に同意できなかったりで、「この戦に出るのは・・」と考えたのでしょうか、その上無謀ともいえる「敵前突破」をして多くの犠牲を出したのにもかかわらず称えられる武将になっているのは・・
この番組前半で九州での「頭脳戦略」で「島津家」や、「養子先」に対する忠誠心等「心根のい人」という人物像を知ったのを思い出し合点がいきました。この方の大河ドラマ見てみたいですね~~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出奔した石川数正「英雄たちの選択」より

2023-09-13 | カルチャー 見聞
大河ドラマ「どうする家康」で、「石川数正」の本意は?という感じで家康はじめ「徳川家臣達」の「考察」(VIVANTのネットでの考察という言葉をお借りしましたが・・)で、皆で心情が解って、泣きながら罵っている・・という視聴者もきっとウルウルしたであろう場面もありましたが、今回「英雄たちの・・」で、数政さんの「なぜ出奔?」がドラマでもある程度わかりましたが、昭和三十年代までは「裏切者扱い」されていて、肖像画、数正自身の書状等はなくても、今では「忠臣」としてファンが多いという「数正」の実は…という部分を知ることできました。
番組からピックアップしましたので、ご存じの方もお付き合い下さいませ。
  
 完成まで待てずに亡くなったという松本城、いかにも国宝って感じですよね。
「狭間」や「石落とし」(姫路城でも見ましたが、此方は姫路城より壮大な城と言われてるようです)に工夫を凝らしています。
「屏風図」等には描かれているようです
  ドラマでも感じましたが、「秀吉」が反秀吉派も味方につけてきてるので「家康」には戦ってほしくないと思うのは当然でしょうね。(殿が好きなのですから・・)
  
  
 「岡崎城」も工夫しながら造っています。
  「秀吉」は家康に対して「真田」も味方につけて権力を見せつけます。(数正は肌感覚で、底知れぬ恐ろしさ巧みさを知る唯一の人です)
  秀吉は数正の心を取り込むというより徳川家中に軋みを掻き立てようとしていると考察されてました。
  どうする「数正」ですね。
  
   
  ということでしょうね。
  「織田信雄」が家康宛てにだした書状が今年4月に発見されたそうです(酒井忠次の子孫から)
信雄が家康に數正を派遣して交渉するように勧めたようです。
  
 「松重豊さん」が松本城~市内をロケされてまして(大河もそうですが、この番組も10年前からナレーションされてます)感慨深そうでした。
 松本城にも「馬だし」を何か所も造っていますね。
  磯田さん、最後に「今の平和な世の中にいられるのはこの時の(数正)の選択のお陰かもしれない」とおっしゃってましたね。
家康が嫌だった「秀吉にひれ伏す」ということを選んだことも徳川二百数十年争いなく済んだということにつながっているのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「和歌山演劇鑑賞会」へ・・・

2023-08-26 | カルチャー 見聞
いつになったら酷暑日から解放される日が来るのでしょうか・・・うんざりですよね。
皆様体調は大丈夫ですか?
昨日、夜の部の「演劇鑑賞会例会」に出かけて「文学座」の「五十四の瞳」を鑑賞してきました。
  

瀬戸内海に浮かぶ「家島諸島」の「西島」の「朝鮮学校」を舞台に、、ぶつかり合いながらも「教師、卒業生とその家族」が「戦争、貧しさ、差別」も「民族の壁」も超えて懸命に生きる姿、1948年~68年までにわたって、日本の戦後を小さな島に凝縮させて、はじける笑いと涙と、希望の物語が描き出されていました。
ちょっと「よしもと新喜劇」を思い浮かべる場面もあったりして、「在日」の戦後史、阪神教育闘争、朝鮮戦争の義勇軍への参加運動等も出てきますが、戦後を生きる人々のお互いを思いやる姿、涙の別れもせつないのですが、「明日を見つめる人たち」の思いが伝わって、先が見えないウイルスと戦い続けている私達にも希望を届けて頂いたような感動の舞台でした。
久々に幕が下りるまで、のめり込んで観た舞台でした。
余談ですが・・
開演までの時間を利用して、5時半ごろに中途半端な小腹ごしらえをしまして・・・
 超久々の友人とのデザートタイムです。
お蕎麦屋さんで和のデザート「抹茶パフェ (わらび餅、アイスクリーム、最中、生クリーム、小豆餡)」を頂きました。
冷房きいてるので「ホットコーヒー」をセットにしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「都を豊かにする名水巡り」(あなたの知らない京都旅より)

2023-08-07 | カルチャー 見聞
録りながら観ている「・・・京都旅」で、まったく知らなかった「京都の名水」の事、懐かしい場所も登場してました。
ご存じの方もおられると思いますが・・番組で中村雅俊さんが巡られた「名水」の場所を順にご紹介します。
  「伊藤若冲」がこちらで誕生されたという「京の台所 錦市場」と、「名水」の関連から・・(錦市場は二度ほど行ったことがありますが・・)
  この「鳥居の笠木」がのめりこんでいるのも右側の喫茶店の二階で目の前で見たことがあります。
  こちらの「手水屋」の水が京都の名水の一つ「錦の水」だというのは知りませんでした。
 この水が「錦市場」を生んだのですね。
  琵琶湖の水と同じくらいの地下水があるというのも驚きでした。
そして懐かしの・ 高台寺です。行ったのはもう十数年前です
高台寺近くのこちらの「菊乃井」は、当時、「OG会の幹事」だったので、予約利用させて頂いたところです。(初めてのお料理は、見入ってしまって、なかなか箸をつけれないありさまで、一口食すと、これはどんな風に料理されてる?とか・・皆んなで感嘆したのも覚えています)
  五月のG7サミットで、NHKの料理番組でおなじみの「村田さん」が、料理をお出しになったそうで、その時滅多に入れないところに呼び出されて7人全員と、握手されたそうです。(きっとお料理が素晴らしかったのでしょうね
 今回番組のために名水をイメージされたこのお座敷は、きっと上客が使用されるのでしょうけれど、私達の利用させていただいたところもお庭が見れて素敵なお座敷でした。
  サミットにも持参されたという名水は「ねねさんの御用水」(寧々さんしか使えない水だった)「菊水の井」だそうで・・
 ご主人からさかのぼって22代前の方が、大阪城から高台寺に上がる時に「北政所」について上がり、「御用水の井戸」を守っていた茶坊主さんだったそうです。
  佐々木蔵之介さんの御実家「佐々木酒造」こちらはどんな名水でお酒を造られてるのでしょう・・ 
雅俊さんは蔵之介さんと会ったことがないそうで、このCMで歌を歌ったようです。
  今では「洛中」ではこちらが唯一の酒蔵だそうです。
  「銀名水」だそうです。雅俊さん試飲されてご満悦でした。
「佐々木酒造」の地はなんとあの「聚楽第」の跡地だそうです。
 この界隈は名水がある場所らしくて「表千家」「裏千家」なども邸宅内の名水を利用しているということです。
  当時の「すごろく」は「名所」より「名水マス」が多かったようです。
  
こちらの「亀屋良長」さんは創業(1803年)以来「醒ヶ井(左女牛井)」の水脈を使われてるそうです。
「錦天満宮」では蛇口をひねったらすぐに出てくるという名水、「亀屋良長」では店頭の竹筒から流れているという名水を近隣の方などが自由に頂けるということでした。(自然の恵みに感謝ですね)
この和菓子も1803年からあるということですね
この「佐女牛井」の井戸は「源氏」の「堀川の館」にあったとのことでした。古い~~~
  
サントリーさんも西山の天然水を使ってらっしゃるんですね。
驚きのカルチャーでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「家康 伊賀越え」逸話等(あなたの知らない京都旅より)

2023-08-01 | カルチャー 見聞
先日放送された「どうする家康 伊賀越え」回はネットが沸いたようですね。
録ってあった「・・・・京都旅」の中から「伊賀越え」の回を昨日見てましたら、ちょっと面白い解釈や、知らなかったことをカルチャーできましたので、ご存じの方も多いと思いますがご紹介しますね。
  「明智に狙われる」というのも大河でもありましたが・・
 大河ではちょっとわかりにくかった地理がここでやっとわかりました。ほぼ直線200㌔ですね。
「なぜ、陸路を選んだのか・・」というのは数々の歴史関連番組で解説(海路は紀州の僧兵、四国の長曾我部等反信長勢力がいる)されてますが、 陸路も南側に明智の友人「筒井」がいますし、奈良と京都の境をひたすら、ほぼ直線の隙間を逃避したんですね。
そして「穴山」(大河で描かれてた「瀬名」と交流していた人って武田を裏切っていたんですね)が首を落とされたということでしたが、直木賞作家の「今村翔吾氏」は・・
  
家康と息子だったら二手に分かれるだろうけど・・武田を裏切った「穴山」だから・・と前から考えてたのでは?ということでした。(あの窮地が、いい機会と思ったならあるかもですね)
  このお城で「休息2時間」されたようです。
 「城主」も「運命の二択」をしないといけなかったのですね。
  この短刀も拝領した家に代々あって、戦時中どこかに隠したとか‥という話も出てきました。
  あの「煎茶の製法」を発明、広めた「永谷宗円」の5代前の方が警護をなされたんですね~~。
ちょっとカルチャーでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒーロー「聖徳太子」(歴史探偵より)

2023-07-28 | カルチャー 見聞
録り溜めてあったTV番組で、「そうだったんだ・・」とになったお札の顔でおなじみの「聖徳太子」の事、ピックアップでご紹介します。(ご存じの方もいらっしゃると思いますが・・)
わが故郷「奈良県」の、当時の都「飛鳥」から20㌔も離れた「斑鳩」になぜ「法隆寺」を建てたのか?を知ることができまして・・
「大和川」を利用して、都まで遡上して入っていける重要航路(外交ルート)を作るという構想からだったのです。
海(玄関口には四天王寺)と都(斑鳩)をつなぐ中継地点として「法隆寺」を建立「斑鳩を開発」して外国にアピールしたということでした。
  教科書で習った約100年ぶりの「遣隋使」を派遣されたが、その時は皇帝から「話にならない」と追い返されたそうで・・
蘇我馬子と共に「文明改革」をはじめ・「隋」にならった「仏教」による国づくりのために、あの有名な「憲法十七条」を作るんですね。
  1億5000万字(85巻分)の「インド、中国、日本の仏教文献データベース(SAT)」で意味を詳しく調べることができるそうです。
  仏教の思想で、自分自身を戒めるということでしょうか・・
  
時の皇帝に認められて文明開化を成し遂げるのです。
そして法隆寺(世界最古の木造建築)」がなぜ長持ちしているのか・・・
 中を見ることができないので「福井」の「模型法隆寺」があるところへ・・
  
  「心柱」は一番上だけでくっついています。各階層が孤立してるんですね。(蛇が踊ってるような動き・・ということでした)
  何度も地震が起きても大丈夫だった(耐震構造)仕組み凄いですよね。 
  こちらの「金堂」が逆にもろかったようで後から「補強材」で持たされたようです。
「金堂」内部も赤色表示されてる部分が 「補強梁」だそうです。
 この「菩薩様」は「太子様」として崇められるようにつくられて庶民の「太子信仰」となっていきます。
「光明皇后」と、お母様も「太子信仰」されました。
大阪の「四天王寺」では・・
  今もこの「絵」を観ながらの「絵説き会」が行われているそうです。(太子信仰が続いています)
 
 伝説は今も・・という感じです。
 昨年のリサーチで1位となった「ヒーロー」が「聖徳太子」だったんですって
 過去7度も「お札の顔」になられてるんですね。戦後「聖徳太子」のお札だけは「廃札」にならずにすんだそうです。
ボーナスなどでちょっと裕福になった時等、1万円札を持ってることを「聖徳太子何枚持ってる~」とか皆んな言ってたことを思い出しますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あなたの知らない京都旅」よりP2

2023-06-18 | カルチャー 見聞
前回の続き「・・・京都旅」の奈良薬師寺編です。
京都旅の「塔」関連で、「中村雅俊さん」が我が故郷の奈良「薬師寺」を訪ねられて、「塔」の「相輪」についてカルチャーされてまして・・
  
若い頃何度か行ったことがありますが、故郷を離れて早40年も経ってしまってますから・・薬師寺さんも創建当時の朱赤色になって綺麗です。
  「西塔」と、「東塔」も当時の古刹の風情が一変しています。
  
  「東塔」の「相輪」には今年四月の「解体修理完成 落慶法要」時の旗もなびいていました。
「仏舎利」を安置するところでもあったという「相輪」の事はこの番組で初めて知りましたが・・
  この「水煙」と言われるものは見上げてたら1枚に見えてましたが、4枚で「東西南北」方向になっているようです。1メートル90センチほどあるそうで、雅俊さんとほぼ同じくらいですね。重さ1枚100㌔だそうです。
  
銅製の細工は音楽を奏でる姿の「飛天像」が透かし彫りされています。(平等院にもありましたね)
 インドでは「ストゥーパ」と言われる形の塚(墓)で、日本では「伏鉢」という盛り土型のお墓を表しているそうです。
そして「東塔」の解体修理の時に思わぬ発見があったようで・・
「心柱」の上のこの場所に「仏舎利」が収められていたということでした。
最後に映った「薬師寺の夕景」は私が昔見たのと同じ光景で、古の光景ともきっと同じだったろうと、感慨深かったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご存じでしたか?(「あなたの知らない京都旅」より・・)

2023-06-15 | カルチャー 見聞
コロナ禍になってから3年半ほど「旅」から遠のいていて、もっぱら(鉄道絶景の旅、美しい日本に出会う旅、等々)のTV番組を録っては編集しながら観る・・を繰り返して「旅」をしている気分に慕っています。
最近は4月から始まった「あなたの知らない京都旅」という番組に出あって、これも録りながらみているのですが・・
日帰りバスツアー(桜の季節、紅葉の季節には毎年)や、息子が学生時代、下宿へで行った時には夕食待ち合わせまでの時間を利用してで、行ったことがない、穴場的なところや、寺社へ走ったり、翌日の用事を終えてからは御所の辺りの寺社散策、そんな折に見つけて気に入った寺社などは、(紅葉の穴場的なところだったので)行ったり、友人とは(18切符)で和歌山から宇治「平等院」「醍醐寺」「インクライン(南禅寺)」~「平安神宮」「京都駅」まで歩いたこともありました。
そんな何度も何度も行った京都でもこの番組の通り「知らない京都」がいっぱいで・・・
今回は「塔」を中心に「中村雅俊さん」が見聞を広げられてまして・・ご覧になった方もいらっしゃると思いますが・・ご紹介しますね。
京都の映像では必ず出てきますよね。ドラマでもよく出てきます。「八坂の塔」京都の木造の塔では2番目だそうです「46メートル」、聖徳太子が建てたといわれているそうです。
  「東寺五重塔」木造では日本で一番高い5 5メートルです。
  
「心柱」を「大日如来」として崇め「空海」が建てたそうです。
ここからは驚きの塔です・・
  
「京都市平安京創生館」(下宿の近くにあったので入ったことがありましたが・・)にある展示で紹介されていまして、八角形で特殊な形ですよね。法勝寺というお寺に建てられたそうです。
当時の権力(財力)の象徴として、「白河天皇」が今までにない(技術)の建造物で誇示したのだとか・・(落雷で焼失したそうです)
  これ凄いですよね。
御所の近くの「相国寺」に立っていたという109メートル「七重の塔」
此方も権力の誇示ですが、なんでも「御所」のすぐ傍に・・というのは「おきて破り」だったそうですが、当時の権力者「足利義満」はなんのその・・だったようですね。
そして「秀吉」でおなじみの「醍醐寺」の五重の塔・・・(醍醐の桜は確かに綺麗でしたが、この塔の前に立った時はしばしの間佇んでいたのを思い出しました)
  951年創建だそうです。千年以上たち続けている美しい塔なんですね。
  上に行くほど屋根が小さくなっていて・・
「逓減率」が抜群にいい率になっているそうで、魅了されるんでしょうね。(誰が考えたんだろう?知りたい~って雅俊さんいってました)
 木組みの細工も綺麗ですね。
  
中はどうなってるのか・・供養行事の時の映像が流れたのかな?、「醍醐天皇」の供養として建立されたようです。(御霊を弔うための行事が毎月29日に行われてるようです)
この相輪についてのお話を詳しく知るというので・・
「京都旅・・」なのに奈良へ行かれてまして・・次回は「奈良 薬師寺編」です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご存じでしたか?「蘭奢待」

2023-06-01 | カルチャー 見聞
放送された当時、ちゃんと見ていなかった大河ドラマ「麒麟がくる」のCSでの再放送を録りながら観ているのですが、昨日の放送回で、ちょっとカルチャーできたことがあって・・・
ご存じの方も多いと思いますが、ご紹介します。
「信長」が御上に所望したいと言った「正倉院」にある「御物(国宝を超えるもの)」、「蘭奢待」という「香木」なんですが・・

(今回、蘭奢待という字には東大寺という字が含まれているというのも知りました目録では「黄熟香」だそうですが、東大寺の字を隠した「雅称」だとのこと)
この時(信長が切り取った時)は、足利義政が切り取ってから110年後だったそうです。(天下第一の名香だそうですが、どんな匂いなんでしょう
 リンクのところには「分類(用途)薬物」って表記されてましたけど・・
「徳川家康」も切り取ったという説があったようですが、1602年に、「東大寺奉行の本田正純」が正倉院の調査をして、「切り取ると不幸がある」という言い伝えによって家康は切り取らなかったということも解ったそうで・・(信長の不幸はこれが原因????)
今回、「信長と蘭奢待」という歴史上の有名な史実を全く知らなかったもので、「Wiki・・・」でも「蘭奢待」に関わる史実をたくさん{/pen/知ることができました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これ押したらどうなる・・・驚きの「1億装置の起動ボタン」

2023-05-14 | カルチャー 見聞
昨日、録画ドラマが「End」になって、そのままリアルタイムの番組が始まったままにして、のチエックをしながら聴いていたらNHKの「レギュラー番組への道 これ押したらどうなる?」という番組で、色んな「スイッチボタン」を取材されていて(「ぜったいけすな」という張り紙がされてるビルのスイッチ)というのもあって、押したらビルが消える・・というものでした。
それをどうにか消してみたいという取材で、長い間オーナーが何度も変わってても誰も押したことがないという、そのビルの持ち主の了解を得て消してみることができたのです。
結局、ビルのエレベーターホールの天井の照明が各階で消えて、「ビル」は消えないという結果でした。
「バーのママさんが夜の街に放つ魅惑の・・」というのは、昔から大好きで、心酔されてる「高知城」をライトアップしたいという思いで「行政」に進言しても「こちらではできない、勝手にしてください」とのことで、ママがやられたそうです(当時はまだメジャーじゃなかったのかな?)
そのバーにある「スイッチ」を押したら「ライトアップの高知城」が見れるのです。
でも落ちがあって、当時のお客さんも喜ばれていたそうですが、時代が進むにつれて高層ビルがあちこち建ってしまって見れなくなったということでした。
今後は「ビルに影を投影したい」と、映させてくれるビルを募集中だとか・・
いよいよ「一億円のスイッチ」です・・
何が1億なんだろう・・と興味を持ったのでチラチラ見だしたら・・六角(だったとおもいます)形の家を老人が案内していたのでしばらく見ていたら中もリビング、ダイニング・・と中もぐるりと部屋になっていて・・「ボタン」のところへ案内して「右側のボタン」を押されたらいきなり「家」が時計回りに廻りだしたのです。
「左にあるボタン」を押したら反時計回りに回るという仕掛けでした。その家にかかった金額が「1億円」だったという訳だったのです。
見入ってしまってて、カメラで「撮りたい」と思った時は、何時もの録画と違って「戻って撮れない」リアルタイムなのでどんどん進んでいくので、何とか撮れたのが・・これです
        
此方の家を建てるのが夢だったというご老人(90歳近かったんじゃないかな?)昔からいろんな仕事をして地道に一生懸命働いて財を成したといってらっしゃいました。
家を廻したら、一か所だけになるから雪かきしないで済むとか、景色が変わって家の中にいても散歩してるみたいだし・・とか言ってらっしゃいました。
家を廻す動力は地下ですが、さすがだと思ったのは、あらゆる家に必要な配管などがあって、メンテナンスも分かりやすくなってたこと。
お元気でなんでもこなされてるこの老人に拍手を送りたくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BSP「皇后のドレスの謎」よりP2

2023-03-24 | カルチャー 見聞
前回の続き「皇后のドレスの謎」より、誰に製作を頼まれたのか‥の解明編です。
  総理に国のために・・と洋服を着ないといけなくなった皇后の「葛藤」から近代化に向かっての皇后なりの決意と、尽力された様子が解りました。
「国の為なら何でも致す」と言われたこの写真は「西洋列強国」に配られたそうです。
ここで「皇后のドレス」を・・
  
この時代から皇室のドレスコードは今も引き継がれているのですね。
    
それでは「再現の大礼服」に戻ります・・
  
 ウエストの部分の「クジラのひげ」を使った部分の縫製がしっかりしていなかったためよれが生じていたようです。イギリスで縫製されたのがちゃんとしてるので、これは日本で製作されたものだとわかったようでした。
  
   
  
  刺繍の仕方が「能衣装」のような「厚み」があるので「職人さん」に取材されたら「能衣装より緻密で、豪華なものですね」と当時の製作者はすごい人でしょう・・とおっしゃってました「クジラのひげ」や、「刺繍技術」が有名な「リヨン」への取材等で解明に近づいて、さらに皇后さまの行動から・・
  「皇后さま」が「富岡製糸場」へ行かれていたのが解ったようです。
日本の為に製糸産業の発展を願ってらっしゃったんですね。
  明治に入って「西陣」では職人が失業してしまう社会情勢になっていて、「リヨン」に留学された「近藤さん」という方が浮上しました。そして・・
 帰国後「渋沢栄一」の「京都織物」で働かれていたことも分かり、皇后さまが「京都 西陣」にも詳しかったということからも、「近藤さん」が製作されたというのが解りました。
いよいよ運び込まれて「再現」披露です。
 解明と「再現」された「大礼服」明治の頃のこと(特に皇室の事)はあまりメデイアでは見れなかったので、今回の見聞は貴重なものになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BSP「皇后のドレスの謎」より

2023-03-21 | カルチャー 見聞
先日、「ロイヤルミステリー」130年ぶりに5年かけて「皇后の大礼服」の「謎」と、「再製」プロジェクトの番組「皇后のドレスの謎」という番組、明治の西洋化が著しかった「鹿鳴館」が華やかだった頃に「皇后」に「洋服」で、賓客に挨拶を・・と、総理「伊藤博文」に言われて困惑しながらも「大礼服」を「いつ頃、誰に」制作依頼されたのか・・という未解明だった「謎解き」を見終えましたので、見られた方も多いかと思いますが、ピックアップでご紹介します。
  
   「能衣装」のような盛り上がった「バラの刺繍」と、光をちりばめたような「金属」を使った「金の刺繍」の豪華な「式裾」です。
 「ボディ」と、腰から足元辺りまでのドレープの部分は発見されたそうですが、「式裾」3メートルほどといわれている残りの2メートルくらいは見つからなかったようです。(皇后は小柄で140cmぐらいだったそうです)
  CG再現です。
  
式裾の刺繍部分の裏側に「和紙」が使われているのが解りました。
  
 
  丁度「天竜」という船を造られた時に使われた経理台帳だったので、こののちに作られたというのが解ったようです。
  
 丁度「バッスルスタイル」と言われるドレスがはやった頃だったと推測されてました。
すごくハイウエストですよね。こんなスタイルも流行ったのですね。
  このスタイルの頃は、暖炉の火が燃え移ったりで大変だったそうです。
 このスタイルの時は笑いました。紅茶を運んだりした(?)そうです。
ここからは貴重な取材・・
  
 フランスの皇后「ジョゼフィーヌ」が権力の象徴とされる「赤紫」の「大礼服」を着たそうです。 
 この時も着ていますね。
権力を誇示したという有名な「皇帝ナポレオン一世と、皇妃ジョセフィーヌ戴冠」の絵です。
今回はここまでにしますね。次回も
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「紫禁城 秘密の花園(かえん)」第2章より

2023-03-12 | カルチャー 見聞
昨年BSで(8K)の映像で放送された「紫禁城 皇帝の知られざる花園」が今年2月の初めにBSPで再放送されていたるのを知った時、予約録画をしてあったのですが、その放送後に昨年マイブログでUPしたピックアップの記事の閲覧数が過去最高の数字になっていたので、そういえば録画したまま残ってるかも・・と、今は録画はできてもダビング編集できなくなった古い方のDVDデッキに録画がまだ残っていて、そういえば続きをUPしないといけなかったんだと、その時思いだした次第です。
で、ブルーレイで録ってあった方を見直しながら、第2章の「乾隆帝」の思い入れの「秘密の花園(かえん)」をピックアップしましたのご覧になった方もも多いと思いますが、お付き合いくださいませ。
「乾隆花園」へ・・
 1000キロも離れた湖から運ばせたという「太湖
 「乾隆帝の遊び場」「溪(この字とは違うけいです)賞亭」の入り口のところにある、溝を掘って水を流して遊ぶ(漢詩を詠む)ところだそうです。
「乾隆帝」は生涯10万首詠んだそうです。
花園内の「符望閣」へ・・
 「望みが符号する御殿」とは・・
北面から順に・・
  「玉座」があります
  「玉」を好んで使っています。命を養う力があると信じた「キノコ」や、「桃」の造形を愛したそうです。
「南面」大臣たちが謁見した場所だとか・・(皇帝の執務の場所)
  こちらにも勿論「玉座」がおかれていたそうです。 玉の細工をはめ込んでるものと、「琺瑯」をはめ込んだしつらえ。
天井の模様が珍しいものだと、「浅田次郎氏」がおっしゃってました。
  南面から東面までは迷路(迷楼と言われています)のようになってるようです。 
「東面」こちらにもちゃんと「玉座」です。
「西面」にも玉座です。「黄色は皇帝の色」だとか、庶民は使ってはいけない色なんだそうです。
 一階の中心にある小部屋にも「玉座」です
  「六号」は中国の古い思想で、「東西南北」と「天と地」で「宇宙」をあらわすそうです。で・・「天」は?・・・・
  3階のテラスから入ったところに「天」を示す六つ目の「玉座」、真上から「龍」が「玉座」を見張っています。
「望みがぴたりと符合する御殿(符望閣)」、「乾隆帝」が望んだものは「世界の東西南北、天と地が符合する宇宙だった」ということでした  世界最大の「玉の彫刻 高さ2.4メートル、幅1メートル」
4000年前に行った川(黄河)の氾濫を防ぐ大工事に挑んだ男たちの物語が刻まれています。
「伝説の大事業」を指揮した人物は後に中国最初の王朝とされる「夏」を作った人だそうです。
「乾隆帝」は最高品質の産地を支配下に置くため戦をして勝利したそうで、3年かかって重さ5トンの「玉」を4000キロの道のりで運んだそうです。
「玉」コレクション・・
  縁起のいいものや、漢字などをあしらわせています。
 龍が彫られてる「印鑑」も玉です。
「梅」は古来からの「縁起物」、「玉」を「権威」とする「皇帝」に名を連ねた文武両道(勤勉で死ぬまで勉強された皇帝)の「漢民族の文化」を大事にし、「最強の王朝」を築いた「乾隆帝(浅田次郎氏がリーダーとして憧れている人物だという)」の素晴らしさを見聞しました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史を語る道具たち」P3

2023-03-07 | カルチャー 見聞
今回は和歌山ならではの「道具」等の展示品をご紹介します。
「かご(人を運ぶ乗り物  と書いてありました)」こんなに小さなものだったのですね。時代敵にはいつごろまでつかわれてたのでしょうね。綺麗に保存されてます(城下町ならでは・・なんでしょうか?)
  先の節句でも行われたのでしょうか・・神社の歴史ある「雛人形」等が展示されてました。「淡島神社の雛流し」の神事の展示もありました。
「伊太木曽神社の大杉」樹齢は定かではないが千年とされているそうです。
県内の有名な寺社、郷土の「人形」や「お面」等の展示もありました。
 まったく知りませんが、当時は現在の自動車のように名前が付けられていたそうで・「ナポリ号」という自転車です。(1956年に、堺の乙田製作所が製作した「原動機付き自転車」だそうです)
明治後期ごろから普及した自転車は、「秀吉、ナポレオン、カルピス、キューピー、ホーームラン、スイス、ケニヤ、ワシントン、天王寺、新橋、富士、エベレス、ロッキー」号等という名前を付けていたそうです。
「バックミラー」をハンドル右に、「電池式のフォーン」を左に、前部に「ライト」、空冷式の小型エンジンをフレーム下に、エンジン用のベルトドライブもあるそうで(自転車用のチェーンは勿論ありますが)、燃料タンクは後方に・・という原付バイクの先駆型ですね。
これは我が故郷にもありました。懐かしいですね。
こんなに小さな机に座ってたんですね。体格が違いますものね。
 初代の銀行の看板等、和歌山の歴史を語ってくれた展示の数々を堪能しました。(他県出身でも暮らしの道具は見た覚えがあったので懐かしむことができました)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史を語る道具たち」(市立博物館にて)P2

2023-03-05 | カルチャー 見聞
前回の続き「歴史を語る道具たち」のP2です。
農家で育った私も記憶があるようなものがたくさんありました。
 もみ殻と玄米にする道具ですね「唐箕」だったと思います。「箕」もよく上手にゴミと豆類などをゆすり返しながら分別してたのも今思うと、あの頃の農家の方々の仕事ってしんどかっただろうな~~って、感心しきりでした。
母が着物仕立てで使ってた長いさし「くじら尺」っていうんですね。L字型の木製は「洋服尺」で、カネのが「曲尺(かねじゃく)」だそうです。 
「枡類」ですね。よく父が「一斗枡」で、「納屋」にある精米前のお米を量っていたのを思い出しました。
 すごく立派な(大きなお屋敷のものでしょうか)竈がありました。(祖母が火を起こしてご飯を炊いていた光景が浮かんで懐かしかったです)昔の冷蔵庫のようですね「木製」なんですね
  「お餅つき」の時に登場してました「蒸し器(せいろ)」も懐かしかったです。
母がよく収穫した「胡麻」を、きっと大変だったろうな~~って思うような・・「叩く(枝と胡麻を分ける)」仕事(すごく埃がたつから、タオルで鼻辺りをマスク代わりにしてたような・・)をやっていた様子も浮かびました。
メニューを考えて、食卓に出すために「胡麻を炒って、すりこ木」で擦っていたのも懐かしく思い出しました。
こんなに小さな机だったんですね。
 すごくりっぱな「凧」です。
こんなのは我が農家にはなかったですね。昔のドラマなどで観ますけど・・(結構高級品でしょうね)
続きはまた次回に・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スライドショー

ポチっとしていただければ幸いです。


人気ブログランキング