楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、第三帝国に政治的に利用されて最も曲解され痛めつけられた作品ではないだろうか。現在においても抽象(具象)によって非ナチ化を目指す演出か、さもなくばレトロと評される陳腐な演出が一般的である。ロマンチックな衣装と意匠を三流芸術家ヒトラー同様に喜ぶ向きもあり、マイスターの歌の規律をユダヤの戒律に当てはめたりする明らかに反ユダヤ主義的な演出も存在するが、そのような風潮がある限りこの楽劇の真価が舞台で示される事は無いだろう。
この1868年の夏至に初演されたこの楽劇は、祭り「ヨハニ」を時間軸とする構成だけでなく、ルターの精神を下敷きとして作曲当時のフォイヤーバッハやショーペンハウワーの哲学に準じている。劇中にも歌われるように親方ハンス・ザックスのハンスの名前こそが北欧のヨハニスそのものであり、この人物が人生の夏から冬へとかかる転換点にいることを忘れてはならない。聖書の「あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」は、財を成した職人ポーグナーの娘エファに求婚する若い騎士ヴァルターへとこの娘を宛がうハンス・ザックスの心境である。実在の靴職人にして詩人作曲家のハンス・ザックスが若い妻を娶っている事からすると、ここに楽匠リヒャルト・ヴァーグナーの真意が理解出来る。
幕初めで教会のコラールに次いでヴァルターのエファへの求愛も、この夏至の日々の「不思議」を知らないとあざとく映るに違いない。二場において、職人の歌合戦の仕来たりやバールの音楽形式が音楽でもって説明される舞台運びも見事である。しかし現代においてはドイツ語を歌える歌手が居ないので意味が皆目分からない。試しに指揮者フルトヴェングラーが君臨した第三帝国戦時下のバイロイト祝祭劇場での実況録音を聞いてみるが良い。現代においては、このようにテキストが聞き取れる事は無いので、自意識の強い歌詞も聞かずに済むのである。ヴェルディのファルスタッフの手本のような諧謔溢れる運びも素晴らしく、その明朗さで稀に見る音楽となっている。これら三代表作を知ると、ヴァーグナーほど年を経て心技ともに成長していった作曲家も少ないような気がする。
二幕における徒弟や夕刻の景は、強く真夏のヨハニの雰囲気に立脚している。ヴァルターの青春の歌を思いつつのザックスのモノローグやエファとのディアローグの後ろに潜む楽匠の存在も見落とせない。そこに出てくる夜番の警告も22時に登場して、その後ザックスの仕事場でのベックメッサーと諍いで23時に至って、何が起こるか分からない長い夜を終える。
三幕一場のヨハニの明るい日差しが差し込むザックスの仕事場で、徒弟ダヴィットに「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネ立ち給い、世のすべての人に洗礼を行う。」と歌わせる。ペグニッツ川のハンスとして、ルターの言葉と聖ヨハネとザックスの存在を重ね合わせる。それに続く、ザックスとヴァルターとのディアローグで、優勝の歌の「朝焼けと夕焼け」が韻を踏んで歌われる。三場の横恋慕の書記ベックメッサーとのディアローグは、この楽劇のクライマックスである四場のエロティックなエファの靴の修繕の場から洗礼の五重奏へと引き継がれる。その後の有名な徒弟の踊りや歌合戦は、恰もオペラブッファの終景のようである。
フィナーレではザックスによって、「気をつけなさい!いろいろの災いが私達を脅かしています。ドイツの民と帝國は瓦解して、民を理解しない為政者に身を委ね、まやかしやガラクタを植え付けられる。誰も本質を知らずに、ドイツマイスター魂の中に生きる事はありえないのです。」と警告が歌われる。
残念ながら、この予言は的中して、現在この楽劇を上演する事は不可能となっている。歌手はうにゃうにゃと歌詞らしきものを口走り、そしてアリアの有名な旋律のみに集中して叫ぶ。指揮者は深刻ぶって杓子定規なテンポを打ち、楽譜の頁を捲るだけである。一層のこと、イタリア語でアリアオペラ風にまたは英語でミュージカル風に歌えば如何だろうか?
ドイツ連邦共和国の五人に一人が外国を源とする移民国家となっている。プロシアによるドイツ統一の政治状況に於けるこの楽匠の張り裂けんばかりの叫びに耳を傾けてみるのも悪くない。河の向こう岸を臨むように、昼に夜を、光に影を、夏に冬を、過去に未来を、朝に晩を、強制に自由を、俗に聖を、諦観に執着をみることが出来よう。
参照:
小市民の鈍い感受性 [ 文化一般 ] / 2005-07-10
真夏のポストモダンの夢 [ 生活・暦 ] / 2005-06-25
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
この1868年の夏至に初演されたこの楽劇は、祭り「ヨハニ」を時間軸とする構成だけでなく、ルターの精神を下敷きとして作曲当時のフォイヤーバッハやショーペンハウワーの哲学に準じている。劇中にも歌われるように親方ハンス・ザックスのハンスの名前こそが北欧のヨハニスそのものであり、この人物が人生の夏から冬へとかかる転換点にいることを忘れてはならない。聖書の「あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」は、財を成した職人ポーグナーの娘エファに求婚する若い騎士ヴァルターへとこの娘を宛がうハンス・ザックスの心境である。実在の靴職人にして詩人作曲家のハンス・ザックスが若い妻を娶っている事からすると、ここに楽匠リヒャルト・ヴァーグナーの真意が理解出来る。
幕初めで教会のコラールに次いでヴァルターのエファへの求愛も、この夏至の日々の「不思議」を知らないとあざとく映るに違いない。二場において、職人の歌合戦の仕来たりやバールの音楽形式が音楽でもって説明される舞台運びも見事である。しかし現代においてはドイツ語を歌える歌手が居ないので意味が皆目分からない。試しに指揮者フルトヴェングラーが君臨した第三帝国戦時下のバイロイト祝祭劇場での実況録音を聞いてみるが良い。現代においては、このようにテキストが聞き取れる事は無いので、自意識の強い歌詞も聞かずに済むのである。ヴェルディのファルスタッフの手本のような諧謔溢れる運びも素晴らしく、その明朗さで稀に見る音楽となっている。これら三代表作を知ると、ヴァーグナーほど年を経て心技ともに成長していった作曲家も少ないような気がする。
二幕における徒弟や夕刻の景は、強く真夏のヨハニの雰囲気に立脚している。ヴァルターの青春の歌を思いつつのザックスのモノローグやエファとのディアローグの後ろに潜む楽匠の存在も見落とせない。そこに出てくる夜番の警告も22時に登場して、その後ザックスの仕事場でのベックメッサーと諍いで23時に至って、何が起こるか分からない長い夜を終える。
三幕一場のヨハニの明るい日差しが差し込むザックスの仕事場で、徒弟ダヴィットに「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネ立ち給い、世のすべての人に洗礼を行う。」と歌わせる。ペグニッツ川のハンスとして、ルターの言葉と聖ヨハネとザックスの存在を重ね合わせる。それに続く、ザックスとヴァルターとのディアローグで、優勝の歌の「朝焼けと夕焼け」が韻を踏んで歌われる。三場の横恋慕の書記ベックメッサーとのディアローグは、この楽劇のクライマックスである四場のエロティックなエファの靴の修繕の場から洗礼の五重奏へと引き継がれる。その後の有名な徒弟の踊りや歌合戦は、恰もオペラブッファの終景のようである。
フィナーレではザックスによって、「気をつけなさい!いろいろの災いが私達を脅かしています。ドイツの民と帝國は瓦解して、民を理解しない為政者に身を委ね、まやかしやガラクタを植え付けられる。誰も本質を知らずに、ドイツマイスター魂の中に生きる事はありえないのです。」と警告が歌われる。
残念ながら、この予言は的中して、現在この楽劇を上演する事は不可能となっている。歌手はうにゃうにゃと歌詞らしきものを口走り、そしてアリアの有名な旋律のみに集中して叫ぶ。指揮者は深刻ぶって杓子定規なテンポを打ち、楽譜の頁を捲るだけである。一層のこと、イタリア語でアリアオペラ風にまたは英語でミュージカル風に歌えば如何だろうか?
ドイツ連邦共和国の五人に一人が外国を源とする移民国家となっている。プロシアによるドイツ統一の政治状況に於けるこの楽匠の張り裂けんばかりの叫びに耳を傾けてみるのも悪くない。河の向こう岸を臨むように、昼に夜を、光に影を、夏に冬を、過去に未来を、朝に晩を、強制に自由を、俗に聖を、諦観に執着をみることが出来よう。
参照:
小市民の鈍い感受性 [ 文化一般 ] / 2005-07-10
真夏のポストモダンの夢 [ 生活・暦 ] / 2005-06-25
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03