Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

駒落としから3D映像へ

2005-10-19 | 雑感
ベルリンへの旅行を準備している。一日完全に自由時間が取れるので、今までとは違うものを見てきたいと思うと、どうしても調べないといけない。

昨日は、1920年代を振り返るTVシリーズの第二回目の放送があった。その一部を観た。流石に沢山の映像が残っているので、視覚的な印象を得る事が出来る。グレタ・ガルボが無名のエキストラとして群集として映っていたりして面白い。バウハウスを扱って、新即物主義への紹介があったが、全く充分ではなかった。歴史の中でその環境を包みながら進むこの現象を手取り良く描くのは手に余ったようである。帝国主義から敗戦、ヴァイマール憲章からインフレ、民族主義への動きを即物的に捉える事こそが難しいのである。

積読の中から、ヴァルター・ベンヤミンの「ベルリアーナ」、兼常清佐の「音楽巡礼」、ギュンター・グラスの「もう一つの領域」の頁を捲った。19世紀末から今日まで亘る期間のベルリンが描かれている。

上の1920年代に絞ると、その終わりに子供時代からのユダヤ人街を描いたベンヤミンと、時代の空気を吸収しに東洋から遣って来て写生した旅人兼常、その当時を過去として内包する東ベルリン市民を描いたグラスなど、様々な視点からその時と場所が描かれている。

こうして書いている間に放送されている、ドキュメントシリーズ「グッバイ東独」では希望と独立心に燃えたウルブリッヒ書記長が、ソヴィエトの経済・軍事圧力の下、東独が兄弟同盟国の属国となって行き、次第に共産主義の希望と理想が失せていく様子が如実に描かれている。

1920年代からすると80年以上先の将来である今日の我々は、この時代が第三帝国の破局へ向う歴史としてしか認識出来なかった時代の視点を乗り越えようとしているのだろう。それは、恰も荒廃した町外れから嘗ての町のシンボルを臨むかのようにであった。そして、更に時代が経つにつれて啓蒙主義プロシア文化と一党独裁の共産党政権までが一括り出来るようになるのかもしれない。その時代をこうして立体的な三角法で再構成する事が出来れば良い。まるで、駒落としで走る白黒フィルムも3Dの活き活きとした映像として脳裏に残照として焼き付く事が出来るようにである。

明日、明後日と、一年前に封切り上映されたヒットラー映画「没落」がTV初放映される。現場に行くかどうかは分からないが、評価も知っていることであるし一度観ておこう。
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