Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

没落-第三帝国の黄昏

2005-10-21 | 文化一般
昨日、第一部を観た。批評で言われていた様な印象で、ハリウッドのマスクメーキングのような事をせずに、言葉や仕草でキャラクターを作っている劇場風の映画である。だから、写真や映像で見る実際の面々とは全然似ていないのに、観ている内に各々が活き活きと実体を持ってくるのが良い。メークを強調しないところに、監督の心意気が強く出ている。

ここまで観た所で印象に残るのは、総統の狂乱と軍人幹部達との溝が深まる情景で、プロテスタント的な理性が強調される一方、ゲッペレス博士のような確信犯の真のナチス思想が余計に浮かび上がる。ヒットラーユーゲントの子供をゲッペレスファミリーやヒットラー取り巻きとを対比させるのも良く出来ている。女性陣を男性陣に対応させているのだが、女性の人格は弱く哀れで浅ましく惨めに描かれる。母性としての性が破局への美学として描かれる時には、どうしても聖なる殉教が要求されるのだろう。第三帝国の没落はこれに当たらないことを示したかったのか。同じような情景は、現在のホワイトハウスにも見られる。ヒムラーやゲーリングのキャラクターも充分示されており、当に「神々の黄昏」の様相を呈している。

さて、後半でこの印象は変わるのだろうか?


最後の12日/Der Untergang
編集 2004 09/24

映画館へ行く習慣がないので、観ていないがヒットラーの最後を題材にした映画がリリース中らしい。個人を描くとどうしても感情移入は免れないので、独語版「我が闘争」出版とともに現在まで自国ではなされなかった。事後60年の歳月を如何に評価するかの問題だが、世代交代とともに距離を置いて事件を見れるようになるのは当然であろう。さて、自称第三帝国の総統がドラマの主人公になるかは疑わしい。元来出口の見えない困窮にあえぐ社会が生んだ虚像であり、社会諸共初めから自らの破局への道を歩んでいったのである。そこには、運命もなければ不条理もなく悲劇は生まれない。抗し難い状況に活路を開こうとする悲劇の英雄も妄想家ドン・キホーテもここには登場しない。そのような袋小路に追い込んだ状況の破壊が初めから図られる。外敵は手を差し伸べる機会を失ない、内外の緊張関係も崩壊する。

同様な例は、現在も毎日のように繰り返される神風自爆テロである。行き場のない怒りや、希望のない抵抗は、何ら結果を残すこともない自暴自棄な戦いに追い立てる。ゲリラ戦には勝機があり戦略があるが、テロリストの戦いには建設的な勝利はない。イスラム原理主義の抵抗も、チェチェンの解放運動もひたすら破局への道を歩む。一矢を報いる戦いは、手負いの獅子の如く危険極まりない。優劣は決まっており、勝敗から根本的な解決は導かれない。

さてこの映画、タブーを排除していくことは重要だが、事件の歴史化への道で何らかの意味を持つのだろうかと、疑問の声も上がっている。国内の観衆の被害者意識の助長を恐れる歴史学者も居るようだが、矢張り当事者でもある国外での受け止められかたの方が重要であろう。新たな国際秩序の構築が図られる中、近過去と現在を相対化することなしに、近未来も創造され得ない。
コメント (3)
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