非常に実りが多かった。一銭にもならず、誰の関心にもならない、至極個人的な事とは言え、この一月程の体験は各々の事象が見えぬ糸で繋がれていたようである。
既に記した速読の習得は、母国語以外の言語における音組織や文法の習得にも大きく係わっていて、音楽の鑑賞などにも大きく影響しているようである。
速読自体は、一般的に視覚的なものと思われるが、実は他の要素が深く関係しているようである。その一つである聴覚は先ず措いておくとして、文法の習得が大きく反映しているようである。嘗て、英語文を大きな単位で括って捉えるという言語学的な意見を聞いたことがある。其れに近いかもしれない。しかし文法と言っても、主語・述語などの分析的な文法は母国語ではそれほど意識して使う訳ではない。寧ろ、構文に近いようなフレーズの纏まりが決まりとして、幼少期から身についているものと思われる。
つまり、速読と言うのは、この大きな単位でもって、略三行以上の文章を一括して捕らえることの出来る能力で、そうすると一ページに十分割分ほどの情報しか無い事になる。また、その前後の文脈があるので、せいぜい一頁に二つほどの大きな文脈があれば良い方であろう。一章五十ページに百文脈とすれば、それほど労を厭わず、大きな書物から狙いの一行を引き出すことが出来る。また大きな流れとその注ぎ方を知ると、全体と部分の関係が掴める。実際に長編の物語を書く作家などは、それとは反対の構成感を持って書き続けるのであろうから、速読する事で全体の構造が解り易くなる。
文法的な考察に加えて、聴覚的な影響は、まさにその大きなフレーズの音による把握に関する。つまり、これも会話学校などでも行われているような一文一フレーズの捉え方で、そこで重要となる箇所は主語と述語を結ぶ活用語の一部である。多くの言語では、微妙な音で発生される部分である。しかし、この音と語が存在するために、初めて文脈として纏まりをもって成立しているのである。
通常の言語教育では、どうしてもリズムを主体とした音節を大切に勉強をするのだが、其れを通してはなかなか至らないのがこの微妙な発声であるようだ。その微妙な音は、例えば音楽において、誰でも直に認知出来る言語毎の音節とフレージングの妙の個性として、音楽の特徴となるものとは異なる。それは、どうも、和声における連結と響きの精妙な関係こそが、言語特有の微妙な音に相当するようだ。
トーマス・マン作「ファウスト博士」で、米国人が米語訛りのドイツ語でベートーヴェンの後期のピアノソナタのアナリーゼを行う場面がある。思弁的な音楽芸術についてのその主題は別として、和声の持続と減衰の彩をピアノの平均率打鍵楽器の真髄 ― オルガンの純正調的に鳴り響く楽器に対して ― とすると、それはそのもの微妙な発声に相当する。
その言語の微妙な発声を聞き取ることは、その音楽の和声の妙を知ることであり、それはまた文脈を理解すると言うことと同義語であるようだ。虹のように浮かび、消えて行く妙を体験する、これ以上にこの世に豊穣なものはないのである。
追記:それでは、なぜ日本語の文章の速読術の習得に長い年月を費やしたかと言うと、それは日本語の文章の視覚的な見通しの悪さに依拠しているようである。それは、なにも視覚的要素が文脈や構文から独立して存在しているのでは無い事は既に述べた。さらに 高 級 な読み物となると平仮名・カタカナ・漢字にアルファベットまで混じるとあってなお都合が悪い。特に、ポストモダーンの衣装を着た作品などは、その内容如何に関わらず、典型的にその置かれている文化的背景を示しているようでとても具合が悪い。
参照:ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
既に記した速読の習得は、母国語以外の言語における音組織や文法の習得にも大きく係わっていて、音楽の鑑賞などにも大きく影響しているようである。
速読自体は、一般的に視覚的なものと思われるが、実は他の要素が深く関係しているようである。その一つである聴覚は先ず措いておくとして、文法の習得が大きく反映しているようである。嘗て、英語文を大きな単位で括って捉えるという言語学的な意見を聞いたことがある。其れに近いかもしれない。しかし文法と言っても、主語・述語などの分析的な文法は母国語ではそれほど意識して使う訳ではない。寧ろ、構文に近いようなフレーズの纏まりが決まりとして、幼少期から身についているものと思われる。
つまり、速読と言うのは、この大きな単位でもって、略三行以上の文章を一括して捕らえることの出来る能力で、そうすると一ページに十分割分ほどの情報しか無い事になる。また、その前後の文脈があるので、せいぜい一頁に二つほどの大きな文脈があれば良い方であろう。一章五十ページに百文脈とすれば、それほど労を厭わず、大きな書物から狙いの一行を引き出すことが出来る。また大きな流れとその注ぎ方を知ると、全体と部分の関係が掴める。実際に長編の物語を書く作家などは、それとは反対の構成感を持って書き続けるのであろうから、速読する事で全体の構造が解り易くなる。
文法的な考察に加えて、聴覚的な影響は、まさにその大きなフレーズの音による把握に関する。つまり、これも会話学校などでも行われているような一文一フレーズの捉え方で、そこで重要となる箇所は主語と述語を結ぶ活用語の一部である。多くの言語では、微妙な音で発生される部分である。しかし、この音と語が存在するために、初めて文脈として纏まりをもって成立しているのである。
通常の言語教育では、どうしてもリズムを主体とした音節を大切に勉強をするのだが、其れを通してはなかなか至らないのがこの微妙な発声であるようだ。その微妙な音は、例えば音楽において、誰でも直に認知出来る言語毎の音節とフレージングの妙の個性として、音楽の特徴となるものとは異なる。それは、どうも、和声における連結と響きの精妙な関係こそが、言語特有の微妙な音に相当するようだ。
トーマス・マン作「ファウスト博士」で、米国人が米語訛りのドイツ語でベートーヴェンの後期のピアノソナタのアナリーゼを行う場面がある。思弁的な音楽芸術についてのその主題は別として、和声の持続と減衰の彩をピアノの平均率打鍵楽器の真髄 ― オルガンの純正調的に鳴り響く楽器に対して ― とすると、それはそのもの微妙な発声に相当する。
その言語の微妙な発声を聞き取ることは、その音楽の和声の妙を知ることであり、それはまた文脈を理解すると言うことと同義語であるようだ。虹のように浮かび、消えて行く妙を体験する、これ以上にこの世に豊穣なものはないのである。
追記:それでは、なぜ日本語の文章の速読術の習得に長い年月を費やしたかと言うと、それは日本語の文章の視覚的な見通しの悪さに依拠しているようである。それは、なにも視覚的要素が文脈や構文から独立して存在しているのでは無い事は既に述べた。さらに 高 級 な読み物となると平仮名・カタカナ・漢字にアルファベットまで混じるとあってなお都合が悪い。特に、ポストモダーンの衣装を着た作品などは、その内容如何に関わらず、典型的にその置かれている文化的背景を示しているようでとても具合が悪い。
参照:ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11