Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

自由システム構築の弁証

2006-12-16 | 雑感
国境を跨ぐ大停電は、去る11月4日に起こった。それに遭遇していないのであまり個人的に関心がなかったが、世界的に大報道された。

一次的な原因は、ノルウェーの豪華客船がエムス川で高圧電線を切ったことには違いないようだが、技術的・組織的に大変興味のある背景がある。

欧州23国に電力を配給する上部組織UCTEの事故最終報告はまだ一月ほど掛かると云う。しかし、それに先だって今週その当時者であるEONなどのドイツ電力会社が闇カルテルで、一斉強制調査で踏み込まれた。その背景には、来年からの本格的電力配給自由化に伴うEUストラスブルクの思惑があるらしい。

容疑は、2000年当時に供給過剰となっていたので、上部ネットからの配給制限を自らで規制したことにあり、現在においても需要と供給による自由競争市場が機能していなくて、上部ネットへの優先権などが存在していると云うものである。

つまり、穿った見方をすれば、安定供給への緊急処置などのための十分なネットの構築を故意に怠っている可能性もあると云うことである。上の事故では、現場の対応が十分出来なかったので、風力発電機能は補助として役立ったが、原子力発電供給が速やかに対応出来なかったと云う。50ヘルツから49ヘルツまでに、周波数が落ちたと云う事情は、一度技術的に詳しく調べてみたいと思う。

技術的な興味を除くと、何よりも市場の自由化こそ最も厳格な市場秩序が必要と云う、まるで高等学問の基礎の基礎のようなシステムへの思惑へと興味が移る。偶々、開いたマンの「ファウスト博士」の頁は、作曲家シェーンベルクをモデルとするアドリアンの思索が語られている。

そこにあるのは、「自己規制による束縛は、つまり自由である」とする「自由の弁証」と呼ばれるものである。もちろんここでは、調性から解き放たれて12音を等しく使った音楽のシステムを捉える構造主義的な思考への契機となっている。

しかし、こうした高等な議論と社会システム構築は本来異ならない筈なのだが、現実に駆動する社会を導く構成員は別次元で動いており、とてもまだまだ非構造主義と云うような次元には至っていない。やはり、フランクフルト学派のホルクハイマーやマンと同じくして米国に亡命中のアドルノが著した「啓蒙の弁証」を指す、現代の大衆高等教育の問題にあるのかどうか判らない。

昨晩就寝前に、そのシェーンベルクの第一次世界大戦を挟む時代の作品に耳を傾けたが、古典的なライボヴィッツなどの解釈にも、こうした視点から見ると、その悪評だけでなく、その意義に思いが至る。

新しい仏教と音楽理論に将来があるとする「雨をかわす踊り」のstone-mountainさんの観想なども、それらの抽象的かつ具象的で主観と客観の全体性でなるほどとも思わせる。実際には、数学などの自然科学がこうしたシステム構成と思索に最も適しているのだが、それを高等に解釈出来る一流の学者が少ない事が問題の様である。
コメント
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