Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

十分に性的な疑似体験

2008-08-06 | 
ポルノ映像の効果を吉田秀和が綴ったものを読んだ覚えがある。その当時流行っていたSMプレーに於ける所謂蝋垂らしの効果を態々映画館で体験した評論文であった。その内容は、既に売り払った朝日新聞への投稿の寄せ集めの書籍であったので今や触れられないが、そこではベートーヴェンの作曲とは並べて批評していなかったように記憶している。

アルフレッド・ブレンデル著「ベートーヴェンのピアノ・ソナタの形式と心理」を読むと、その作曲家が如何に主題の短縮の技法をもって推進力をもたせ、その形式が洗練されていくことによって心理的過程を推論出来るようにしたかについて論述している。

当然の事ながら創作の経済からすれば、そのような技法が新たな知的な基盤となって、技法自らの記号化によって、より複雑な心理を辿ることが出来る可能性を広げて行くのを進化として良いだろう。

その複雑な心理的な表現は必ずしも普遍的なものであるとは限らず、寧ろ文化的な記号で綴られていることが多い。要するに誰がどのように受け取るかは分からない不確かなものなのである。

ポルノ表現の場合もこれは同じで、疑似体験を越えて、― そうした状況に気が付くときに必ず失笑が漏れるものだが ― 最終的には肉体という対象物にその関心が向けられるのが、最も究極の芸術的表現方法に他ならない。そこでは、蝋燭の蝋は決して垂らすものではなくて、暗いシルエットを浮かび上がらす光の源となる。

ベートーヴェンが如何にソナタ形式における第一主題の素材に光を当てるためにもう一つの主題をそこに対称物として置いて創作とするかをみていくことで、その心理を具に見ることが出来る。

もしそのような丁寧な観察を抜きにして、ただひたすら落ちる蝋の熱さに思いを馳せるならば、通俗性から一歩も抜け出ることが出来ないのである。その熱さが脳に与える記憶を呼び出し、または恍惚とする感興に結びついたとしても、それだけならばそれは高度な創作活動とは一切関係ないことなのである。

ブレンデルは、これほど面白い論評はないとして、英紙「ディリー・メイル」の一節を紹介する:

女性のひざの裏をちらりと見るとき、ベートーヴェンの「田園交響曲」の第一楽章を聞くようなおもいがする。

これは十分に性的な疑似体験ではないだろうか。



参照:
擦れ違う視線の笑い [ 文化一般 ] / 2008-08-05
世界を見極める知識経験 [ 文学・思想 ] / 2008-07-30
バロックな感性の反照 [ 音 ] / 2008-03-23
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
ハイデルベアーの味覚 [ 暦 ] / 2007-08-05
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
何故に人類の遺産なのか [ マスメディア批評 ] / 2008-06-26
コメント (2)
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