Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

八割ほどは、本当かな

2009-10-10 | ワイン
昨晩は久しぶりに飲んだ。本日は体に酒が残っていた。それでも悪酔いをしていなかったのは、ある基準以上のワインだったからであろう。しかし試飲会ではなくあくまでもTVシリーズの試写会パーティーだったので、それほど印象に残るワインなどはなかった。

こうした農業関係者が集う場所に出て、そうした人々を映し出す番組を試写すると、農業に無関係に過ごしている我々にとってはやはり違う関心が湧いてくるのである。ビオとかエコとか自給自足だとかの掛け声の下に議論されているようなことが如何に本質に迫らないかが分かってくるのである。なにも、それだから農民の傍に立っているというのではない。

昨晩の話題で特に関連しないことを幾つか羅列してみる。そこには全体像が浮かび上がるのだが、まさに禅のように思想でも思潮でもないその対象となる農があるだけなのが見えるのだ。

この30分番組では、高級ワインを作る醸造所からおかしなことをしている醸造所までが同じように紹介されているのだが、制作者にも話したが、前回の水着の葡萄踏みにも負けず今回の最もけったいな醸造所はビオデュナミの農家であった。

親父が牛の角に糞か灰かなにかをつめながら語るライナー家の様子は笑いを誘うのである。まさにその笑いに我々の良識があるのだが、彼の息子が「我々には学術的な意味など学者に任せて、どうでも良いのだ。気持ちよく実りを迎えれば良いだけだ」と語るように、農民として確かに営む精神の安定が強調されている。もちろんそれは自立であり実存の境地なのだ。試飲の時にも「あれはお父さんだけど」と娘が語っていたが、その内容は近代に追い遣られた「素朴な生き方」を求めているに過ぎない。

その他、ワイン街道から離れた北辺のツェラータールのベルンハルト、設備投資の出来たエラーシュタットのシュナイダー、またペッヒシュタインの玄武岩の石切り場の上にあるオーデンタールの醸造所が紹介されるのである。そしてそれを試飲するのだが別に悪い酒ではなく、決して特に上質の酒でもないのだ。結局はワインなどは皆同じなのである。只違うのは、手練手管がコンセプトとなるかどうかの違いなのである。

例えば同じビオデュナミを掲げていてもビュルックリン・ヴォルフ醸造所などはインターナショナルな企業経営としてそれを掲げているのだという紹介の仕方をしていた ― 実際の家族背景などの時の流れはここでは無視されているのは当然なのだが。

それは逆に、フリードリッヒ・ベッカーが素朴に映され、クニプサーなどの隙間市場への狙いが、短髪にしたVDP会長の畑仕事風景に先代に優る素朴さを強調することで、こうしたコントラストを強く印象つけたのである。要するにワイン農業というものの大地に根ざした素朴さが、その手練手管ゆえに却って浮き彫りにされる形となっている。

過日述べた黴に対抗するためにも、結局は亜流酸や胴を混ぜて塗布しなければいけない状況はビオデュナミでも変わらないのである。農業なんてそのようなものなのだ。コンセプトに付加価値をつけて売るだけなのは他の分野でも変わらない。

クリストマン会長に先頃のインタヴューやEUワイン法への整合化を目指すドイツのそれへの見解を質した。前者のカルテル紛いの最低価格の推薦案はその意図は理解しているが醸造所によっては問題を孕み、価格談合と見做されかねないと申し上げた。それに深く関わっているのだが、ドイツの法制の高品質化は政治的にも可能性があるということで、予てから意見しているドイツワインへの世界的イメージ確立への碑になって欲しいと願った。

制作者に訊ねた。「先週のナーへを扱った一回目放送でも、ご主人が畑仕事をしている情景を盛んに映していたが、あれはやらせ?」

「それは、無いとは言えないけど、八割ほどは本当にやっているかな」



参照:
Weinland: Pfalz (SWR3)
うまいものにこだわる「窮屈至極な食べ物の世界」と「農業ブーム」。
(ザ大衆食つまみぐい )
神の雫のフランス語版です。(3巻) (saarweineのワインに関してあれこれ)
日本の農業 (ポラリス-ある日本共産党支部のブログ)
今週の掘り出し物? (モーゼルだより)
同じ過ちを繰り返す危険 2009-10-08 | アウトドーア・環境
誉れ高いモンツィンガー 2009-10-06 | マスメディア批評
コメント (2)
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