今シーズンはじめてフランクフルトに出向いた。日曜日の夜なので大変入りが悪かったが、それはなにもヴェーベルンの曲がゴルトベルク変奏曲と同時に演奏されるおかしなプログラムだけに責任があったのではなかろう。おそらく演奏家の技術的力量が周知されていたからもしくは周知されていなかったからとなる。要するに技術的にはレベルすれすれの弦楽合奏団とも出来る。それでも最終的にはとてもためになり満足させられた会であった事は間違いない。
アンサンブル・レゾナンツはハンブルクを本拠に定期演奏会を開いているらしい。ある若い指揮者からそこでの演奏会の話を聞いた覚えがあるが、指揮者無しの弦楽アンサンブルとしては決して特別上手くはないのである。今メンバー表を見ると演奏中に気になった女性は十五年前ほどに一度係わりがあった人で驚いた。その先生の演奏まで思い出した。しかしそれはここでは全く重要ではない。
ヴェーベルンは、四部に分けられたゴールトベルクの第一部に続いて、「弦楽四重奏のための五楽章」の弦楽オーケストラ版が演奏されて、第二部に続いて弦楽四重奏曲作品28、そして第三部に続いて再び五楽章が弦楽オーケストラで再演された。
弦楽四重曲自体があまりに音システムとして出来過ぎてしまっている曲であり、ある意味なすすべがないのだが、それを中途半端に四人で「カルテットして」も駄目なのである。しかし、五楽章は今回改めて名曲であることを認識させられた。やはり、一般的に調性音楽のあとにこうした無調曲が演奏される場合、げっそりした色褪せて響かない音楽でしかないのだが、それをちょっとしたトリックでそうはさせないのは大変お見事であった。それはプログラムであり、こうしたバッハの編曲に対しての演奏法でもあるだろう。そしてそれがポリフォニーやハーモニーといった一義的なものではないことは確かなのである。
逆にそれはバッハでの「フーガの技法」のようでもあり、弦楽四重奏ではなかなか表現し難い音の重なりが、些か音程やアーティクレーション上の配慮が寧ろラフで制御が音楽的にあまり定まらない指揮者無しのアンサンブルの結果として響くのが面白いのである。
それは、バッハにおいての声部が左右のヴァイオリン群で応答する面白味のみならず、内声部などが音色の違いで浮き上がりまたそれを追える面白さは、例えばピアノフォルテでこの曲が弾かれる時の「強調された響き」に取って代わるだけの芸術の音化に他ならない。
もちろん同質の楽器で二度のぶつかりがあったリ闘争があったり、掛け合ったりする面白さは、― 通奏低音の響きとは全く異なり ― 対位法的に如何にも薄い低音の下支えをもしくは四度における「薄まった共鳴」を補うだけの効果があるのだ。要するにそれはヴェーベルンでの節約により脳で補わせるような和声や対位法の扱いと丁度反対方向からのアプローチともなるだろう。バッハの三部のあとで再び演奏されたこのヴェーベルンの初期の作品が今やバッハの曲以上にその形式感と共に「耳で補える作品」であることを、少なくともこうした西洋音楽の会に頻繁に通っている音楽愛好家ならば聞き逃すことはあるまい。
今でも音楽高等学校などというところに通うと、対位法の穴埋め問題などが出るようだが、まさに通奏低音の無駄な装飾を省いて、調性の間接部分だけを残してやればこうした音楽体験になるのだ。そしてこうした補われる音楽に一水四見の唯識をそわせてみれば、演奏実践とそれが齎す行為や響きという物理現象自体に意味を見出すことになるだろう。
アンサンブル・レゾナンツはハンブルクを本拠に定期演奏会を開いているらしい。ある若い指揮者からそこでの演奏会の話を聞いた覚えがあるが、指揮者無しの弦楽アンサンブルとしては決して特別上手くはないのである。今メンバー表を見ると演奏中に気になった女性は十五年前ほどに一度係わりがあった人で驚いた。その先生の演奏まで思い出した。しかしそれはここでは全く重要ではない。
ヴェーベルンは、四部に分けられたゴールトベルクの第一部に続いて、「弦楽四重奏のための五楽章」の弦楽オーケストラ版が演奏されて、第二部に続いて弦楽四重奏曲作品28、そして第三部に続いて再び五楽章が弦楽オーケストラで再演された。
弦楽四重曲自体があまりに音システムとして出来過ぎてしまっている曲であり、ある意味なすすべがないのだが、それを中途半端に四人で「カルテットして」も駄目なのである。しかし、五楽章は今回改めて名曲であることを認識させられた。やはり、一般的に調性音楽のあとにこうした無調曲が演奏される場合、げっそりした色褪せて響かない音楽でしかないのだが、それをちょっとしたトリックでそうはさせないのは大変お見事であった。それはプログラムであり、こうしたバッハの編曲に対しての演奏法でもあるだろう。そしてそれがポリフォニーやハーモニーといった一義的なものではないことは確かなのである。
逆にそれはバッハでの「フーガの技法」のようでもあり、弦楽四重奏ではなかなか表現し難い音の重なりが、些か音程やアーティクレーション上の配慮が寧ろラフで制御が音楽的にあまり定まらない指揮者無しのアンサンブルの結果として響くのが面白いのである。
それは、バッハにおいての声部が左右のヴァイオリン群で応答する面白味のみならず、内声部などが音色の違いで浮き上がりまたそれを追える面白さは、例えばピアノフォルテでこの曲が弾かれる時の「強調された響き」に取って代わるだけの芸術の音化に他ならない。
もちろん同質の楽器で二度のぶつかりがあったリ闘争があったり、掛け合ったりする面白さは、― 通奏低音の響きとは全く異なり ― 対位法的に如何にも薄い低音の下支えをもしくは四度における「薄まった共鳴」を補うだけの効果があるのだ。要するにそれはヴェーベルンでの節約により脳で補わせるような和声や対位法の扱いと丁度反対方向からのアプローチともなるだろう。バッハの三部のあとで再び演奏されたこのヴェーベルンの初期の作品が今やバッハの曲以上にその形式感と共に「耳で補える作品」であることを、少なくともこうした西洋音楽の会に頻繁に通っている音楽愛好家ならば聞き逃すことはあるまい。
今でも音楽高等学校などというところに通うと、対位法の穴埋め問題などが出るようだが、まさに通奏低音の無駄な装飾を省いて、調性の間接部分だけを残してやればこうした音楽体験になるのだ。そしてこうした補われる音楽に一水四見の唯識をそわせてみれば、演奏実践とそれが齎す行為や響きという物理現象自体に意味を見出すことになるだろう。