棲み分けの話を書いた。それは外国人排斥になるとか、マルチカルチャー社会の多様性に反するとか、社会は基本文化を持ちべきだとかではない、しかしそこに密に係わってくる。
先日オーストリア人と山小屋で長い夜を過ごしていると、私が持参した新聞を熱心に読んでいた。一般的に高級紙の見出しを見ただけでそれ以上は関心を持たない人が多いのだ。そして、そのあとPEGIDAやEUの東方拡大の話をしてみた。彼に言わせるとPEGIDAには可成りの抵抗を持っているようで殆どカウンター的な心情だったようだ。ポピュリズムであることは議論の余地がない。序にハイダー博士当時のケルンテンなどの話をしたのだが、ドレスデンなどの特殊事情をそこに重ね合わせたことは分かってくれたのではなかろうか。東方拡大にも可成りの懐疑を持っていて、彼のEU賛歌というのはそれ故にある境界線を持つことになる。
相対的に見て、こうした高級紙へと目が向くことも、彼自身がドイツ国籍を持たないながらも移民していることであり、家族なども欧州全体に亘っていることから当然の立場であると思った。要するにコスモポリタン性は自らの環境にも大きく係わっていて、やはりそうした移民の背景を持つ者と持たないものでは異なるということでもあろう。
まさしく、最近使われる「新しいドイツ人」と呼ばれる移民を背景とするドイツ人とそうではないドイツ人との区別自体が問題であるとする我々の見解と、「同化政策」を取り続けた連邦共和国の移民への在り方を「同一化」と批判する主にモスリムの考え方がここでも問題となる。
前者の問題点は、連邦共和国市民としての基本的人権やその立場に関して二種類の区別がなされるとする連邦共和国市民権の質の低下とそこに差異があってはならないとする憲法に違反するということである。だから新旧の差異があってはならないのである。これは、就職の際の採用の問題などに関わるのでその差異を認めるとすれば男女機会均等と同じように人口比率でそれだけのトルコ系人などを役所や大企業で採用する必要が生じて来る。
後者の問題点は、イスラムの教えを今以上に連邦共和国でも尊重することになり、モスクから流されるコーランと教会の鐘の問題が頻繁に議論されるような社会になり、社会の中でイスラム化が進むことを意味するのである。その点からは東方拡大では大きな問題は生じない筈なのだが、イスラム主義の場合はあまりにも近代的な社会観に反するからとても問題になるのである。
ヨハネス・ラウ大統領は、同じ屋根の下でカレーの匂いがしたりしてというようにマルチカルチャー社会を形容していたが、そうした他者の「不気味な感情や生活臭」に対して寛容を自らの環境としてどこまで受け入れられるのかどうか。
参照:
靴が汚れるだけのコロニー 2015-02-21 | 生活
冷戦は過去であり続けるか 2015-02-09 | 歴史・時事
先日オーストリア人と山小屋で長い夜を過ごしていると、私が持参した新聞を熱心に読んでいた。一般的に高級紙の見出しを見ただけでそれ以上は関心を持たない人が多いのだ。そして、そのあとPEGIDAやEUの東方拡大の話をしてみた。彼に言わせるとPEGIDAには可成りの抵抗を持っているようで殆どカウンター的な心情だったようだ。ポピュリズムであることは議論の余地がない。序にハイダー博士当時のケルンテンなどの話をしたのだが、ドレスデンなどの特殊事情をそこに重ね合わせたことは分かってくれたのではなかろうか。東方拡大にも可成りの懐疑を持っていて、彼のEU賛歌というのはそれ故にある境界線を持つことになる。
相対的に見て、こうした高級紙へと目が向くことも、彼自身がドイツ国籍を持たないながらも移民していることであり、家族なども欧州全体に亘っていることから当然の立場であると思った。要するにコスモポリタン性は自らの環境にも大きく係わっていて、やはりそうした移民の背景を持つ者と持たないものでは異なるということでもあろう。
まさしく、最近使われる「新しいドイツ人」と呼ばれる移民を背景とするドイツ人とそうではないドイツ人との区別自体が問題であるとする我々の見解と、「同化政策」を取り続けた連邦共和国の移民への在り方を「同一化」と批判する主にモスリムの考え方がここでも問題となる。
前者の問題点は、連邦共和国市民としての基本的人権やその立場に関して二種類の区別がなされるとする連邦共和国市民権の質の低下とそこに差異があってはならないとする憲法に違反するということである。だから新旧の差異があってはならないのである。これは、就職の際の採用の問題などに関わるのでその差異を認めるとすれば男女機会均等と同じように人口比率でそれだけのトルコ系人などを役所や大企業で採用する必要が生じて来る。
後者の問題点は、イスラムの教えを今以上に連邦共和国でも尊重することになり、モスクから流されるコーランと教会の鐘の問題が頻繁に議論されるような社会になり、社会の中でイスラム化が進むことを意味するのである。その点からは東方拡大では大きな問題は生じない筈なのだが、イスラム主義の場合はあまりにも近代的な社会観に反するからとても問題になるのである。
ヨハネス・ラウ大統領は、同じ屋根の下でカレーの匂いがしたりしてというようにマルチカルチャー社会を形容していたが、そうした他者の「不気味な感情や生活臭」に対して寛容を自らの環境としてどこまで受け入れられるのかどうか。
参照:
靴が汚れるだけのコロニー 2015-02-21 | 生活
冷戦は過去であり続けるか 2015-02-09 | 歴史・時事