週末は殆どHiFi装置に電源を入れなかった。PCでVIDEOをDLしたり、流したりしていたからだ。それでも結構音楽鑑賞できるような錯覚に陥っていた。そして昨今のVIDEOがDVDどころかBluRayを反映してニタ桁のGBであることが多いことから、その音声も気になってきた。ネット生放送などはかなりの迫真感があるのみならず、DLしたその大きなデータでも画像が驚くほどに新鮮なのだ。生の質をそのまま記録してあったからだろう。
画像などはレンズの切り取りが効果があるが、とても劇場ではそこまで感じられないという美しさまである。しかし、音響はどうだろう?一連のミュンヘンの劇場の生中継のアーカイヴを集めてみた。録音自体は劇場空間を良く知っていて録っているので、とても音響空間が忠実に再現されている。少なくともその鮮烈な映像とともにPCで鳴らしている限りは違和感を感じない。
しかしHiFiに繋いで調べるには、簡単にはCDプレーヤーのUSBを利用するために、先ずMP3にしなければいけない。しかしどうしても情報量に限界がある。そもそも生録音であるから録音芸術の域を求めるわけにはいかないが、やはり音の充実感にまでも至らない。不思議なことにCD黎明期にアナログファンが吐きすれた言葉「実体感」に欠けるのだ。それが今はどうだろう。
多くの音楽ファンには、CDをMP3に落として、CDを処分する「蛮行」までが盛んなようだ。そしてDLも価格もその質に合わせてCDの十分の一の価格でもなさそうだ。商業的に考えれば、その儲けは20倍ほどになるだろうが、同時に違法コピーも半ば認めている形になっている。もともとはそれも含めてのそろばん勘定だったのだろうが、メディア産業はこれにより自ずから破滅への道を突き進んだ。
それでは、音楽ファンにとってはこうした非可逆的圧縮データーでなにを聴くことが出来るのか?これを手元の装置で試してみたのだ。結果は予想以上に厳しく、MP3やIPodで聴ける「音楽」は限られるものでしかなかった。少なくともオーディオ趣味を卒業して長い私にとっても、それらは殆ど無用の代物であることが分かって愕然とした。
DVDを自分でリッピングしたものと比較しても、DLしたDVD水準の生中継をWAVにして一時間当たりCD一枚にして焼いたものとも比較にならないものだった。当然のことながら90年代に中継で流されたデジタルの有線放送で録ったDATはハイレゾレーション並みなので別格であるが、それはDVDから焼いたCDよりも優れていたが、それはDVD自体が初期のPCライヴ録音が音源であったことや、CDを焼く機器の問題等があるので、これまた通常のCD録音との差は明白なのだ。試聴に使っているシステムも高級システムには違いないが、決して本格的なHiFi装置ではないのでその限度は明らかで、スタジオのモニターとは一線を画している。それでもMP3との差は甚だしかった。
それならば、市場が大きいながらMP3でなにを聴けるのか?音楽関係の友人もMP3を持ち歩いて、それを土台にしてラディオで音楽評論をしている者もいる。なるほど聴き所を押さえればかなりのことが評価できるのは確かであり、その意味においてはHiFiなどは必要がないということにもなる。しかし、万人にとってその音響の差は明白だ。
音楽を鑑賞するためには決してスタジオモニターやハイレゾなどは要らない。それならばこの差はなになのか。そこで気が付いたのは、音楽の感応などは脳内の追体験のようなもので、既に体の中にある記憶のようなものを呼び出すことで、丁度コムピューターのキャッシュのような感じで、それと付き合わせることでの体験に過ぎないということだ。だから、そのような複雑な音響について意見するにはそれだけの経験と見識が必要になるということだろう。
その反対にMP3では、脳内世界の追体験の切っ掛け以上の、それを超える体験を得ることは難しい。これは音楽に限った体験ではない。芸術一般に共通している。些か美学的な考察になるが、近代の芸術においては、こうした経験したことのない美を体験することで、五感によって覚醒することの価値が尊ばれてきたわけだが、同時にコマーシャリズムの中でこうした追体験をよしとするビーダーマイヤー的な手頃なものが消費されてきた歴史もある。
なにもここで啓蒙思想やその覚醒について触れる必要もない。しかし少なくとも現実に生きてその自らを取り巻く環境を自覚する限り、昨日と今日が、今日と明日が全く同じであるはずがなく、なんら新たな経験もないとなれば、時間のない世界となって、全ては一挙に生気をなくしてしまうのだ。モルヒネでそのような死の床に、一刻も早く進みたい者はそれほど多くはないであろう。
LP復活や、ハイレゾリューションなど、新しい刺激を市場に与えようとしているが、MP3のポピュラリティーを考えれば、そもそもCDの実力すら一般大衆には未だに経験されていないハイテク技術であることを思い知るのであった。その一方で、ネットの世界では大容量のデーターが溢れている。ただしこれを十分に体験するにはスタジオのシステム相当のマッキントッシュシステムなどのコムピューターが欠かせないのである。
参照:
ワイン祭り最終日の過ごし方 2015-06-22 | 暦
初めての三星商会製品 2015-06-12 | テクニック
カウンター攻撃の自己欺瞞 2015-06-21 | 歴史・時事
歴史的分析対象となる思索 2015-05-08 | 歴史・時事
画像などはレンズの切り取りが効果があるが、とても劇場ではそこまで感じられないという美しさまである。しかし、音響はどうだろう?一連のミュンヘンの劇場の生中継のアーカイヴを集めてみた。録音自体は劇場空間を良く知っていて録っているので、とても音響空間が忠実に再現されている。少なくともその鮮烈な映像とともにPCで鳴らしている限りは違和感を感じない。
しかしHiFiに繋いで調べるには、簡単にはCDプレーヤーのUSBを利用するために、先ずMP3にしなければいけない。しかしどうしても情報量に限界がある。そもそも生録音であるから録音芸術の域を求めるわけにはいかないが、やはり音の充実感にまでも至らない。不思議なことにCD黎明期にアナログファンが吐きすれた言葉「実体感」に欠けるのだ。それが今はどうだろう。
多くの音楽ファンには、CDをMP3に落として、CDを処分する「蛮行」までが盛んなようだ。そしてDLも価格もその質に合わせてCDの十分の一の価格でもなさそうだ。商業的に考えれば、その儲けは20倍ほどになるだろうが、同時に違法コピーも半ば認めている形になっている。もともとはそれも含めてのそろばん勘定だったのだろうが、メディア産業はこれにより自ずから破滅への道を突き進んだ。
それでは、音楽ファンにとってはこうした非可逆的圧縮データーでなにを聴くことが出来るのか?これを手元の装置で試してみたのだ。結果は予想以上に厳しく、MP3やIPodで聴ける「音楽」は限られるものでしかなかった。少なくともオーディオ趣味を卒業して長い私にとっても、それらは殆ど無用の代物であることが分かって愕然とした。
DVDを自分でリッピングしたものと比較しても、DLしたDVD水準の生中継をWAVにして一時間当たりCD一枚にして焼いたものとも比較にならないものだった。当然のことながら90年代に中継で流されたデジタルの有線放送で録ったDATはハイレゾレーション並みなので別格であるが、それはDVDから焼いたCDよりも優れていたが、それはDVD自体が初期のPCライヴ録音が音源であったことや、CDを焼く機器の問題等があるので、これまた通常のCD録音との差は明白なのだ。試聴に使っているシステムも高級システムには違いないが、決して本格的なHiFi装置ではないのでその限度は明らかで、スタジオのモニターとは一線を画している。それでもMP3との差は甚だしかった。
それならば、市場が大きいながらMP3でなにを聴けるのか?音楽関係の友人もMP3を持ち歩いて、それを土台にしてラディオで音楽評論をしている者もいる。なるほど聴き所を押さえればかなりのことが評価できるのは確かであり、その意味においてはHiFiなどは必要がないということにもなる。しかし、万人にとってその音響の差は明白だ。
音楽を鑑賞するためには決してスタジオモニターやハイレゾなどは要らない。それならばこの差はなになのか。そこで気が付いたのは、音楽の感応などは脳内の追体験のようなもので、既に体の中にある記憶のようなものを呼び出すことで、丁度コムピューターのキャッシュのような感じで、それと付き合わせることでの体験に過ぎないということだ。だから、そのような複雑な音響について意見するにはそれだけの経験と見識が必要になるということだろう。
その反対にMP3では、脳内世界の追体験の切っ掛け以上の、それを超える体験を得ることは難しい。これは音楽に限った体験ではない。芸術一般に共通している。些か美学的な考察になるが、近代の芸術においては、こうした経験したことのない美を体験することで、五感によって覚醒することの価値が尊ばれてきたわけだが、同時にコマーシャリズムの中でこうした追体験をよしとするビーダーマイヤー的な手頃なものが消費されてきた歴史もある。
なにもここで啓蒙思想やその覚醒について触れる必要もない。しかし少なくとも現実に生きてその自らを取り巻く環境を自覚する限り、昨日と今日が、今日と明日が全く同じであるはずがなく、なんら新たな経験もないとなれば、時間のない世界となって、全ては一挙に生気をなくしてしまうのだ。モルヒネでそのような死の床に、一刻も早く進みたい者はそれほど多くはないであろう。
LP復活や、ハイレゾリューションなど、新しい刺激を市場に与えようとしているが、MP3のポピュラリティーを考えれば、そもそもCDの実力すら一般大衆には未だに経験されていないハイテク技術であることを思い知るのであった。その一方で、ネットの世界では大容量のデーターが溢れている。ただしこれを十分に体験するにはスタジオのシステム相当のマッキントッシュシステムなどのコムピューターが欠かせないのである。
参照:
ワイン祭り最終日の過ごし方 2015-06-22 | 暦
初めての三星商会製品 2015-06-12 | テクニック
カウンター攻撃の自己欺瞞 2015-06-21 | 歴史・時事
歴史的分析対象となる思索 2015-05-08 | 歴史・時事