(承前)カステルッチ演出「タンホイザー」を、その前に「兵士たち」のヴィデオを観たことで、よりよく理解した。細かな謎解きは幾らでもありそうなのだが、それが音楽の本質に根ざしていて、創作を理解することにどこまで役立つかのかどうかはとても疑問である。そして、先にアップした一幕の写真の金に輝く岩のように理解に役立つ意匠はそれほど多くは無い。
その巨岩に関してはプログラムには触れられていなかったが、劇場が後になってその意味するところをネットで謎解きしていた。それは、最近も益々「自分発見の旅」として人気の絶えないサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道(通称ホタテの道)にあるクルツデフェローの十字架の立てられた石の山を意味するということだった。その石の山は巡礼者によって運ばれた石で築かれていて、今でも多くの人々がそこに世俗の罪の石を棄てていくということである。そうして築かれた丘を岩を意味する。
そして三幕一場で、ローマから戻ってきた巡礼者たちは最早巨岩でなくて両手で抱えるような金の石を各々が携えている。そしてそれを携えたまま去っていく。その巡礼の列にエリザベートはタンホイザーを求めるが見当たらない。
タンホイザー役のクラウスと記された石棺に少し大きめの金の石が置かれたままだ。そこから永久の変容が始まる。ヴォルフガングが「おお優しい夕星を」と歌い、闇に染まるヴァルトブルクの谷の上に広がる天を見上げる。そこから途轍もない時が流れ、悠久の変容を重ねていく。ありとあらゆるものは掌から零れ落ちる砂と帰す。
実はクリーゲンブルクの「兵士たち」演出での黙示録的光景の中で、十字架によるカトリック秩序と過去から現在、未来への時間の推移が円環をなして、原始的な普遍的構造を有するという発想がここでも活きて来る ― ここでは時間は矢に表される。とんでもない時の経過を示すテロップが示すものは普遍的な存在を示すことになる。背後の環の中で蠢くものは生物であるのかもしれないが、必ずしも人類とは限らない。そう思うと二幕における意味不明の芋虫ごろごろのバレー団のマス演技も幾らかは理解できよう ― まるで日本の初等教育におけるお決まりのタンホイザーの音楽が流れる運動会風景であり、カステルッチは9月の東京引っ越し公演にこれを合わせたとしか思われないぐらいである。
そもそもこのオペラの内容自体が、ラインのロマンティックなどを超えて遥かに形而上のものであり、その音楽的に限られた素材の中で、楽匠を死の直前まで苦慮させたものである。今回の新制作のプログラムには御多分に漏れず逐条的、意匠ごとに言語的定義付けが試みられているが、そこから創作の苦慮が解き明かされるとは思わないのは、カステルッチ演出の謎解きの徒労と同じである。
とどのつまり音楽の抽象的で歴史文化的な面から内容を観察しないことにははじまらないのである。だから音楽的にも筋書的にも重要な要素である巡礼が時間的空間的な構造を定めているのは当然かもしれない。丁度それとは相容れないような形で、二幕の歌合戦の場では「芸術」と記された半透明のボックスが置かれて、その中の「営み」が具象化される。そもそもの一幕における乳出し祭りとその白い衣装は所謂ニンフのそれであって、エルザの白い衣装や何かを隠すヴェールにも共通していて、それがまた営みの発動となっている。当然のことながら「狩りの悦び」へ繋がれるのは、プロテスタントのクラナッハの「寓話」に描かれているそのものでしかない。なるほど、イタリア人でなければヴァークナーの「救済」にこれを描き出せなかったのかもしれない。それは二幕の「ローマへ」のフィナーレにおいては効果的に機能していたのだろう。
TANNHÄUSER - Trailer (Conductor: Kirill Petrenko)
そのように辿っていくと、一幕での聴衆に与える一種の焦燥感と肉塊が、三幕では諦観と死体の腐乱へと引き継がれて、劇としての効果を上げていた。しかしそれが音楽劇場的な効果ではなく、エリザベートを歌ったハルテロスの渾身の役への同化的な芝居的効果となっている。結局は、音楽的な効果を待つことなくしては幕は一向に下せそうにない。(続く)
参照:
聖なる薄っすらと靡く霧 2007-11-03 | 暦
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
辺りをふらついてみる 2017-08-07 | 生活
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評
その巨岩に関してはプログラムには触れられていなかったが、劇場が後になってその意味するところをネットで謎解きしていた。それは、最近も益々「自分発見の旅」として人気の絶えないサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道(通称ホタテの道)にあるクルツデフェローの十字架の立てられた石の山を意味するということだった。その石の山は巡礼者によって運ばれた石で築かれていて、今でも多くの人々がそこに世俗の罪の石を棄てていくということである。そうして築かれた丘を岩を意味する。
そして三幕一場で、ローマから戻ってきた巡礼者たちは最早巨岩でなくて両手で抱えるような金の石を各々が携えている。そしてそれを携えたまま去っていく。その巡礼の列にエリザベートはタンホイザーを求めるが見当たらない。
タンホイザー役のクラウスと記された石棺に少し大きめの金の石が置かれたままだ。そこから永久の変容が始まる。ヴォルフガングが「おお優しい夕星を」と歌い、闇に染まるヴァルトブルクの谷の上に広がる天を見上げる。そこから途轍もない時が流れ、悠久の変容を重ねていく。ありとあらゆるものは掌から零れ落ちる砂と帰す。
実はクリーゲンブルクの「兵士たち」演出での黙示録的光景の中で、十字架によるカトリック秩序と過去から現在、未来への時間の推移が円環をなして、原始的な普遍的構造を有するという発想がここでも活きて来る ― ここでは時間は矢に表される。とんでもない時の経過を示すテロップが示すものは普遍的な存在を示すことになる。背後の環の中で蠢くものは生物であるのかもしれないが、必ずしも人類とは限らない。そう思うと二幕における意味不明の芋虫ごろごろのバレー団のマス演技も幾らかは理解できよう ― まるで日本の初等教育におけるお決まりのタンホイザーの音楽が流れる運動会風景であり、カステルッチは9月の東京引っ越し公演にこれを合わせたとしか思われないぐらいである。
そもそもこのオペラの内容自体が、ラインのロマンティックなどを超えて遥かに形而上のものであり、その音楽的に限られた素材の中で、楽匠を死の直前まで苦慮させたものである。今回の新制作のプログラムには御多分に漏れず逐条的、意匠ごとに言語的定義付けが試みられているが、そこから創作の苦慮が解き明かされるとは思わないのは、カステルッチ演出の謎解きの徒労と同じである。
とどのつまり音楽の抽象的で歴史文化的な面から内容を観察しないことにははじまらないのである。だから音楽的にも筋書的にも重要な要素である巡礼が時間的空間的な構造を定めているのは当然かもしれない。丁度それとは相容れないような形で、二幕の歌合戦の場では「芸術」と記された半透明のボックスが置かれて、その中の「営み」が具象化される。そもそもの一幕における乳出し祭りとその白い衣装は所謂ニンフのそれであって、エルザの白い衣装や何かを隠すヴェールにも共通していて、それがまた営みの発動となっている。当然のことながら「狩りの悦び」へ繋がれるのは、プロテスタントのクラナッハの「寓話」に描かれているそのものでしかない。なるほど、イタリア人でなければヴァークナーの「救済」にこれを描き出せなかったのかもしれない。それは二幕の「ローマへ」のフィナーレにおいては効果的に機能していたのだろう。
TANNHÄUSER - Trailer (Conductor: Kirill Petrenko)
そのように辿っていくと、一幕での聴衆に与える一種の焦燥感と肉塊が、三幕では諦観と死体の腐乱へと引き継がれて、劇としての効果を上げていた。しかしそれが音楽劇場的な効果ではなく、エリザベートを歌ったハルテロスの渾身の役への同化的な芝居的効果となっている。結局は、音楽的な効果を待つことなくしては幕は一向に下せそうにない。(続く)
参照:
聖なる薄っすらと靡く霧 2007-11-03 | 暦
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
辺りをふらついてみる 2017-08-07 | 生活
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評