ヘルベルト・ブロムシュテットのご講話である。
本来ならばアンコールだろうが、「エグモント」序曲の音とはどうだろうと始める。その力と対比。最初のこの音を聞いただけで、楽団が分るだろう。トスカニーニとNBCならと、フルトヴェングラーとベルリンならと唸る。何時ものこの人の講話が始まり、好きな人には堪らない。それを受ける慈悲のヴァイオリンがと続く。そしてべートヴェンの音楽の性格へと進む。
それとは打って変わって次に演奏するベルリオーズへと移り、如何に異なるか。メンデルスゾーンとはローマで知り合い、全く異なる音楽ながら、ライプチッヒへと招聘される経緯が当夜のプログラムに記載されている。これだけ大きな編成になるとどのように合わせられるのか60年間指揮者をやっていても分からぬと、お互いに聞き合うことの重要性を話す。そこにまたザクセン人の特徴があって、練習の十時の十分前には既に集まっていて、三分前にはイ音が鳴らされていると話す。
ここでモットー。そして如何にベルリオーズとメンデルスゾーンの世界が異なっていて、方や麻薬と自殺の世界であり、所詮外国の趣味だからと理解できる筈もなかったのだった。しかしベルリオーズは、ライプチッヒの楽団やホールだけでなくそこの定期にも敬服していく。そして再びモットーである。
ここにいる人たちは一つのポストを勝ち得たエキスパートの一人一人で、その人達が更に美しく演奏しようとして飽くなき向上心をもって演奏することがモットーであるという。つまり今日よりも明日の方が少しでも良くなるというモットー。
ザクセンに関しては、13歳の時に祖父の農家で聞いた有線からの調べが忘れられなくなったという。カール・ベーム指揮シュターツカペレが演奏したレーガーのモーツァルト変奏曲だ ― まさにこれはペトレンコ指揮に関して指摘されたコムパクトそのものの独墺音楽の核だ。そしてコムニスト政権下のシュターツカペレに招聘された時もとても躊躇したという。それでも引き受けて、最初のライプチッヒ訪問は、楽譜商ボード・ベッカーを訪ねた1970年である。それで西側で散々探し求めた楽譜がそこの天井まで積み上げられた束から取り出されるのを見て、ここは文化の国だと確信したという。
そして最後に四度、なぜロスフィルがサンフランシスコよりも全てに恵まれているのにも拘わらずの答えとして、我々の共通の目標である今日よりも良くなる明日への意識の有無だと結論する。
要するに、ブロムシュテットの講話の核心は、私が今年になってからミュンヘン座付き楽団とベルリンの楽団に関して何度も述べたことでしかない。啓蒙思想的な考え方に他ならないが、飽くなき向上心以外に芸術などは、美などはそこに存在しない。当然のことである。
ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンの合同演奏は、ブロムシュテットの指揮のもと別途に演奏するほどしっくりしていなかったかもしれない。余計にブロムシュテットの指揮の締まらなさが如実に出ていて、実際にザクセンの演奏は拍を細かく数える必要も無く感覚だと放言する、その実力通りだが、それをここで批判する気持ちなどは毛頭起こらない。なるほどゲヴァントハウスよりも艶のある音が鳴る反面、しっくりこない結果になっていた。如何にシュターツカペレが座付き管弦楽団という事も良く分かる。
しかし最後にはスタンディンオヴェーションとなった。同僚のベルナルト・ハイティンクのように杖も突いていない。この指揮者がどのような指揮者であったか、この特別な演奏会だけでも十二分に記録されると思う。ここにこの指揮者の全てがあったように思わせる演奏会だった。
参照:
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
「白鳥の歌」は常動曲の主旨 2017-05-11 | 音
シーズン前に総括される 2016-09-25 | 文化一般
首を喜んで差し出す外務省 2015-01-21 | 歴史・時事
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事
本来ならばアンコールだろうが、「エグモント」序曲の音とはどうだろうと始める。その力と対比。最初のこの音を聞いただけで、楽団が分るだろう。トスカニーニとNBCならと、フルトヴェングラーとベルリンならと唸る。何時ものこの人の講話が始まり、好きな人には堪らない。それを受ける慈悲のヴァイオリンがと続く。そしてべートヴェンの音楽の性格へと進む。
それとは打って変わって次に演奏するベルリオーズへと移り、如何に異なるか。メンデルスゾーンとはローマで知り合い、全く異なる音楽ながら、ライプチッヒへと招聘される経緯が当夜のプログラムに記載されている。これだけ大きな編成になるとどのように合わせられるのか60年間指揮者をやっていても分からぬと、お互いに聞き合うことの重要性を話す。そこにまたザクセン人の特徴があって、練習の十時の十分前には既に集まっていて、三分前にはイ音が鳴らされていると話す。
ここでモットー。そして如何にベルリオーズとメンデルスゾーンの世界が異なっていて、方や麻薬と自殺の世界であり、所詮外国の趣味だからと理解できる筈もなかったのだった。しかしベルリオーズは、ライプチッヒの楽団やホールだけでなくそこの定期にも敬服していく。そして再びモットーである。
ここにいる人たちは一つのポストを勝ち得たエキスパートの一人一人で、その人達が更に美しく演奏しようとして飽くなき向上心をもって演奏することがモットーであるという。つまり今日よりも明日の方が少しでも良くなるというモットー。
ザクセンに関しては、13歳の時に祖父の農家で聞いた有線からの調べが忘れられなくなったという。カール・ベーム指揮シュターツカペレが演奏したレーガーのモーツァルト変奏曲だ ― まさにこれはペトレンコ指揮に関して指摘されたコムパクトそのものの独墺音楽の核だ。そしてコムニスト政権下のシュターツカペレに招聘された時もとても躊躇したという。それでも引き受けて、最初のライプチッヒ訪問は、楽譜商ボード・ベッカーを訪ねた1970年である。それで西側で散々探し求めた楽譜がそこの天井まで積み上げられた束から取り出されるのを見て、ここは文化の国だと確信したという。
そして最後に四度、なぜロスフィルがサンフランシスコよりも全てに恵まれているのにも拘わらずの答えとして、我々の共通の目標である今日よりも良くなる明日への意識の有無だと結論する。
要するに、ブロムシュテットの講話の核心は、私が今年になってからミュンヘン座付き楽団とベルリンの楽団に関して何度も述べたことでしかない。啓蒙思想的な考え方に他ならないが、飽くなき向上心以外に芸術などは、美などはそこに存在しない。当然のことである。
ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンの合同演奏は、ブロムシュテットの指揮のもと別途に演奏するほどしっくりしていなかったかもしれない。余計にブロムシュテットの指揮の締まらなさが如実に出ていて、実際にザクセンの演奏は拍を細かく数える必要も無く感覚だと放言する、その実力通りだが、それをここで批判する気持ちなどは毛頭起こらない。なるほどゲヴァントハウスよりも艶のある音が鳴る反面、しっくりこない結果になっていた。如何にシュターツカペレが座付き管弦楽団という事も良く分かる。
しかし最後にはスタンディンオヴェーションとなった。同僚のベルナルト・ハイティンクのように杖も突いていない。この指揮者がどのような指揮者であったか、この特別な演奏会だけでも十二分に記録されると思う。ここにこの指揮者の全てがあったように思わせる演奏会だった。
参照:
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
「白鳥の歌」は常動曲の主旨 2017-05-11 | 音
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