木曜日にはマーラーの第九が控えている。またまた泣きそうになって来た。お勉強の時間があるだろうか。流石にこの辺りの曲になると印刷した楽譜があるのでタブレットとは違う扱い易さもある。但しポケットサイズなので目を凝らす。そのウニヴァーサル版を何処のヤマハで購入したのか記憶にも無く、いつ頃だったかも覚えていない。確かなのは、それを見ながらベルリンでのバーンスタインの指揮のFM生放送を聞いていたような覚えはある。1979年10月らしい、イスラエルフィルハーモニックとの生体験1985年の六年も前だ。そのように辿って行くとあの時のフェスティヴァルホールで三楽章で飛んでいたような光景も目に浮かんできた。勿論あのびっしょり濡れた白い上着の背中だ。どこかに入っていた記憶がフラッシュバックする。
先日発注した来年五月のティケットが届いた。初めてのところから見慣れないティケット。中々いいものだ。これももし同じ交響曲が来年のツアーに入ると情報が流れ次第少し色褪せるのだろうか?そうは思わない。やはりあの地元での演奏を体験したい思いもあり、そしてベルリンでのこの曲の演奏を思い浮かべる。やはり想像すると、技術的な秀逸だけでなくて、芸術的な音響で演奏されると今までにない初演当時の芸術的な意義が見えてくるかもしれない。要するに死の直前クラウディオ・アバドがルツェルンの管弦楽団で見いだせなかった価値という事になる。
その管弦楽団の価値について一度述べたが、そこからが所謂超一流の世界である。その芸術的な価値が世界中の誰にでも通じるようなものではない価値だ。アメリカ人でも分かる人は少ない。猶更アジアではと思うが、要するにその選ばれた聴衆について故吉田秀和は何度も繰り返し書いている。一つには偽の壺を喜んで撫でているような小林秀雄の流れもあるのかもしれないが、故人が真剣にその点を考えていたと想像する。
今回のベルリナーフィルハーモニカー公演はそのような高度なハイカルチャーへと一挙に我々の意識を向かわせた。私の言葉で「芸術を感じた数少ない管弦楽の響き」となる。個人的には、弦楽四重奏団の響きであったり、ブレンデルの弾くピアノであったりしたが、近代的な管弦楽団で同じような響きを体験した記憶はあまりない。強いて言えばベーム博士指揮のヴィーナーフィルハーモニカーぐらいだろうか。アメリカのビッグファイヴの創設年度によってその音響的な特徴が違う以上に比較的新しいベルリンの管弦楽団には歴史的な流れのようなものがある。その響きだ。フルトヴェングラー時代には引き継いでいたもので、その響きが分るのはベルリン市民でしかないと言わせたもので、シカゴから誘われても断る理由付けとなっていたものである ― 詳しくは改めてその著書を読んでみる必要を感じた。
その高度な芸術性を物理的なもしくは音響的な面に注目すれば、やはり会場の音響とその響きつまりホームグランドの音響が管弦楽団のアンサムブルを作るというものだ。科学的な分析がまた高度な芸術への架け橋となる。そこで具体的に、偶々だろうか今回のツアーで、ワインヤードのフィルハーモニー、野外のスクエアー、扇状のザルツブルク、シューボックスのルツェルン、ドーム型のロンドンとすべて形状が異なる会場で演奏された。これは貴重な検討材料になる。来る日曜日にはザルツブルクからの録音が流される。ルツェルンも録音されているようで、来年からは隔年のブカレストまでを含めて生でどんどん流して欲しい。とても重要な芸術的なイヴェントになると思う。
Strauss: Don Juan / Petrenko · Berliner Philharmoniker
そしてそこに歴史的なドイツ風楽器配置がついてくる。私が事前に考えていたのは精々管楽器の音色やピッチやその合わせ方までだが、これだけの会場ごとの音響の違いなどを認識してその楽器配置へと更に話題が進んできた。合わせ方に係ることであることは分かっていたのだが、結局それが音色になるとは恥ずかしながら気が付かなかった。迂闊だった。合わせ方を変わればカラヤンサウンドにまでなるのだから当然と言えば当然のことだ。ワインヤードのどの声部も並行して響き渡り細部まで明らかにするのとは違って、ドーム型は確かに全奏の鳴りが良さそうだが明瞭さに欠け、聞き合い難いような様子で、そしてシューボックスのその底辺から上に乗ってくる和声的な響きが明らかにドイツ風なのだ。昨今の流行として日本人の設計なども明瞭且つ公平な響きを目指してきたが、願わくばベルリナーには昔のようなシューボックスが欲しくなってきた。そのような資金はどこにもないだろうが、恐らくそれで理想的なフィルハーモニカーの響きに近づいてくると思う。アジア系のピアニストが上から下まで同じように公平な音を出すのに似ている ― そしてそのピアニストを銭の為とはいいながら絶賛したのがまさに吉田秀和で、己の耳を憂慮していたのだった、そして今のランランを聞いて「少し罅が入ったかしら」とかいうのだろうか。要するにそこにはハイカルチャーは存在しない。
レパートリーによっては、例えば二十世紀後半の音楽などには、それほど求められない高度な響きかもしれないのだが、少なくとも近代音楽の調性機能の中ではこれが高度な響きとなる ー 後期のシェーンベルクまでをも含む。木曜日のコンセルトヘボーに期待したいのはそこでもある。ハイティンクが指揮するとシャイーの時とはどれぐらい違うのか、高度なのか、是非そこを確かめたい。とても楽しみだ。
参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
先日発注した来年五月のティケットが届いた。初めてのところから見慣れないティケット。中々いいものだ。これももし同じ交響曲が来年のツアーに入ると情報が流れ次第少し色褪せるのだろうか?そうは思わない。やはりあの地元での演奏を体験したい思いもあり、そしてベルリンでのこの曲の演奏を思い浮かべる。やはり想像すると、技術的な秀逸だけでなくて、芸術的な音響で演奏されると今までにない初演当時の芸術的な意義が見えてくるかもしれない。要するに死の直前クラウディオ・アバドがルツェルンの管弦楽団で見いだせなかった価値という事になる。
その管弦楽団の価値について一度述べたが、そこからが所謂超一流の世界である。その芸術的な価値が世界中の誰にでも通じるようなものではない価値だ。アメリカ人でも分かる人は少ない。猶更アジアではと思うが、要するにその選ばれた聴衆について故吉田秀和は何度も繰り返し書いている。一つには偽の壺を喜んで撫でているような小林秀雄の流れもあるのかもしれないが、故人が真剣にその点を考えていたと想像する。
今回のベルリナーフィルハーモニカー公演はそのような高度なハイカルチャーへと一挙に我々の意識を向かわせた。私の言葉で「芸術を感じた数少ない管弦楽の響き」となる。個人的には、弦楽四重奏団の響きであったり、ブレンデルの弾くピアノであったりしたが、近代的な管弦楽団で同じような響きを体験した記憶はあまりない。強いて言えばベーム博士指揮のヴィーナーフィルハーモニカーぐらいだろうか。アメリカのビッグファイヴの創設年度によってその音響的な特徴が違う以上に比較的新しいベルリンの管弦楽団には歴史的な流れのようなものがある。その響きだ。フルトヴェングラー時代には引き継いでいたもので、その響きが分るのはベルリン市民でしかないと言わせたもので、シカゴから誘われても断る理由付けとなっていたものである ― 詳しくは改めてその著書を読んでみる必要を感じた。
その高度な芸術性を物理的なもしくは音響的な面に注目すれば、やはり会場の音響とその響きつまりホームグランドの音響が管弦楽団のアンサムブルを作るというものだ。科学的な分析がまた高度な芸術への架け橋となる。そこで具体的に、偶々だろうか今回のツアーで、ワインヤードのフィルハーモニー、野外のスクエアー、扇状のザルツブルク、シューボックスのルツェルン、ドーム型のロンドンとすべて形状が異なる会場で演奏された。これは貴重な検討材料になる。来る日曜日にはザルツブルクからの録音が流される。ルツェルンも録音されているようで、来年からは隔年のブカレストまでを含めて生でどんどん流して欲しい。とても重要な芸術的なイヴェントになると思う。
Strauss: Don Juan / Petrenko · Berliner Philharmoniker
そしてそこに歴史的なドイツ風楽器配置がついてくる。私が事前に考えていたのは精々管楽器の音色やピッチやその合わせ方までだが、これだけの会場ごとの音響の違いなどを認識してその楽器配置へと更に話題が進んできた。合わせ方に係ることであることは分かっていたのだが、結局それが音色になるとは恥ずかしながら気が付かなかった。迂闊だった。合わせ方を変わればカラヤンサウンドにまでなるのだから当然と言えば当然のことだ。ワインヤードのどの声部も並行して響き渡り細部まで明らかにするのとは違って、ドーム型は確かに全奏の鳴りが良さそうだが明瞭さに欠け、聞き合い難いような様子で、そしてシューボックスのその底辺から上に乗ってくる和声的な響きが明らかにドイツ風なのだ。昨今の流行として日本人の設計なども明瞭且つ公平な響きを目指してきたが、願わくばベルリナーには昔のようなシューボックスが欲しくなってきた。そのような資金はどこにもないだろうが、恐らくそれで理想的なフィルハーモニカーの響きに近づいてくると思う。アジア系のピアニストが上から下まで同じように公平な音を出すのに似ている ― そしてそのピアニストを銭の為とはいいながら絶賛したのがまさに吉田秀和で、己の耳を憂慮していたのだった、そして今のランランを聞いて「少し罅が入ったかしら」とかいうのだろうか。要するにそこにはハイカルチャーは存在しない。
レパートリーによっては、例えば二十世紀後半の音楽などには、それほど求められない高度な響きかもしれないのだが、少なくとも近代音楽の調性機能の中ではこれが高度な響きとなる ー 後期のシェーンベルクまでをも含む。木曜日のコンセルトヘボーに期待したいのはそこでもある。ハイティンクが指揮するとシャイーの時とはどれぐらい違うのか、高度なのか、是非そこを確かめたい。とても楽しみだ。
参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音