さて何から書こう。二日間のルツェルンはコンサート指揮者キリル・ペトレンコを初めて二日続けて体験した初の機会となった ― オペラは勿論二日続けては無い。その意味に触れる前に、二日目の生放送後の批評が面白かったので、それを端緒としてみたい。
その前に出先から書いた初日のミニ感想は車中のラディオで聞いて、そこに当日録音の触りが入っているのを知った。初日もしっかりと録音されていることはマイクロフォンと背後の副調整室の動きで予想していた。しかし、直ぐにこうして使われていて驚いた。どのような形で陽の目を見るかは分らないが、小さな演奏上の傷や会場ノイズを除けば充分な記録価値はあるだろう。それ故にかは知らないが、感想というのは比較的単純なもので、傷に関するもので「残念だった」と程度の低いものだった。それでも楽団が超一流である事を再び示したと絶賛していた。その傷に関しては改めて触れるとして、肝心の批評について書こう。
ドイツ語老舗の新聞NZZに書いていたハックマンの感想こそが私が昨年から指摘していて、今回明らかに改善されたことに言及するものだった。要するに管弦楽団の鳴りである。氏は語る、「細かな点に言及すれば、フォルテッィシモに関して、主席指揮者、任命首席指揮者と管弦楽団の関係において、更に発展することが考えられるだろう」と明言する。まさに私が昨年の悲愴の展開部に鳴りに関して指摘した点を二日目のフランツ・シュミットの交響曲に関して言及した。これでこそ玄人の批評である。氏とは個人的に会ったことは無いと思うが、流石にNZZの程度を示している。しかし流石に贔屓の引き倒しのような私と違うのは、管弦楽団の努力とは言わないところでプロの物書きである。
個人的にはやはり管との音程関係など楽団側が詰めないといけない問題も山積すると思うが、なるほどデュカの「ラ・ぺリへのファンファーレ」の金管は立派だった。またその意味から「ラぺリ」は素晴らしい演奏だった。ラトルの得意としたフランス物とはまた違う方向でのフランス音楽の響きだとされた。こうしたサウンドを聞かされると最早ペトレンコの指揮するオペラなどへの興味はますます薄れて行くかもしれない。
そして多くの人が聞きたいようなことを明確に言う。つまり、ペトレンコの強みは、実体のある音響とその使える音響としていて、説得力を持って音楽に語らせるところとしている。まさしくそこへの目標こそが、限りない向上心に突き動かされる勉強と練磨が寄与するところの全てとなる。その他の劇場風の表現だとかなんだとかいうのは二流の批評である。音響を磨くラトルのそれはツルツルでとかもただの感想でしかない。
もう一つは体の動き自体と所謂指揮技術的な卓越に触れられていて、そこで例えばフランツ・シュミットの三楽章の対位法でのまた「ドンファン」でのコムパクトな指揮は独墺音楽の特徴だと指摘した。これは薄々感じていたが、こうして断定的に言われると分かり易い。要するにネゼセガンには全くないもので、先日パーヴォ・ヤルヴィを批判したのもそこである。更に言えばティーレマンにも欠けるかもしれない。要するに技術の卓越は欠かせないが、技術だけの問題でも全くない。キリル・ペトレンコの音楽に共感出来ないとしたら独墺音楽にも共感出来ない可能性が強い。
この中で興味深かったのはワンへの批評で、アバド指揮での演奏よりも遥かに良かったとして、ワンと、同じアバドと共演した若きアルゲリッチを比較している。これは面白いと思った。当日のピアノ自体には私は満足出来なかったが、アルゲリッチと比較するのは決して悪くはないと思った。
参照:
移り変わりの激しい日々 2017-03-03 | 雑感
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
その前に出先から書いた初日のミニ感想は車中のラディオで聞いて、そこに当日録音の触りが入っているのを知った。初日もしっかりと録音されていることはマイクロフォンと背後の副調整室の動きで予想していた。しかし、直ぐにこうして使われていて驚いた。どのような形で陽の目を見るかは分らないが、小さな演奏上の傷や会場ノイズを除けば充分な記録価値はあるだろう。それ故にかは知らないが、感想というのは比較的単純なもので、傷に関するもので「残念だった」と程度の低いものだった。それでも楽団が超一流である事を再び示したと絶賛していた。その傷に関しては改めて触れるとして、肝心の批評について書こう。
ドイツ語老舗の新聞NZZに書いていたハックマンの感想こそが私が昨年から指摘していて、今回明らかに改善されたことに言及するものだった。要するに管弦楽団の鳴りである。氏は語る、「細かな点に言及すれば、フォルテッィシモに関して、主席指揮者、任命首席指揮者と管弦楽団の関係において、更に発展することが考えられるだろう」と明言する。まさに私が昨年の悲愴の展開部に鳴りに関して指摘した点を二日目のフランツ・シュミットの交響曲に関して言及した。これでこそ玄人の批評である。氏とは個人的に会ったことは無いと思うが、流石にNZZの程度を示している。しかし流石に贔屓の引き倒しのような私と違うのは、管弦楽団の努力とは言わないところでプロの物書きである。
個人的にはやはり管との音程関係など楽団側が詰めないといけない問題も山積すると思うが、なるほどデュカの「ラ・ぺリへのファンファーレ」の金管は立派だった。またその意味から「ラぺリ」は素晴らしい演奏だった。ラトルの得意としたフランス物とはまた違う方向でのフランス音楽の響きだとされた。こうしたサウンドを聞かされると最早ペトレンコの指揮するオペラなどへの興味はますます薄れて行くかもしれない。
そして多くの人が聞きたいようなことを明確に言う。つまり、ペトレンコの強みは、実体のある音響とその使える音響としていて、説得力を持って音楽に語らせるところとしている。まさしくそこへの目標こそが、限りない向上心に突き動かされる勉強と練磨が寄与するところの全てとなる。その他の劇場風の表現だとかなんだとかいうのは二流の批評である。音響を磨くラトルのそれはツルツルでとかもただの感想でしかない。
もう一つは体の動き自体と所謂指揮技術的な卓越に触れられていて、そこで例えばフランツ・シュミットの三楽章の対位法でのまた「ドンファン」でのコムパクトな指揮は独墺音楽の特徴だと指摘した。これは薄々感じていたが、こうして断定的に言われると分かり易い。要するにネゼセガンには全くないもので、先日パーヴォ・ヤルヴィを批判したのもそこである。更に言えばティーレマンにも欠けるかもしれない。要するに技術の卓越は欠かせないが、技術だけの問題でも全くない。キリル・ペトレンコの音楽に共感出来ないとしたら独墺音楽にも共感出来ない可能性が強い。
この中で興味深かったのはワンへの批評で、アバド指揮での演奏よりも遥かに良かったとして、ワンと、同じアバドと共演した若きアルゲリッチを比較している。これは面白いと思った。当日のピアノ自体には私は満足出来なかったが、アルゲリッチと比較するのは決して悪くはないと思った。
参照:
移り変わりの激しい日々 2017-03-03 | 雑感
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境