「戦争と平和」、もう少し良さげな録画を探すかどうか。少なくともプーティン政権下でのその芸術志向での国粋主義のようなものは耳にしたくもない。採用されている版も異なりその制作意図も全く異なるので役に立たない。
新聞に先月載っていたブタペストでの公演評に目を通した。2021年にジュネーヴで共同制作されていた公演である。その間にウクライナ侵略が起った。情勢はそれ以前も変わらなかったのだが、ミュンヘンの音楽監督ユロウスキーも含めてまさかの一方的な侵略だったようである。
だから、東欧の中でも特別な立場にある政権のハンガリーでも流石に満席の聴衆はその勝利の内容には拍手も躊躇させられたとある。勿論演出はビエイトのものであるから、ロシアの其れではないのだが、重要なのはどうしても原作の対ナポレオン戦争とその作曲の依頼時との対独戦争との関係をどのように整理するかにあるようだ。
しかし、新聞評では既に私見として言及した様にプロコフィエフの作品自体に欠陥があると書いてある。その内容に関しては必ず更に言及しなければいけなくなるので先ずは保留しておく。だからこそユロウスキーが語る様にその作品の意味合いが分かるような制作が必要となるのである。
そしてインタヴューで語っているようにチェルニコフの今回の演出で氏もロシアのブラックリストに新たに載るに違いないとしていて、その内容がプロコフィエフの作品に内包していることを今日的な視線から光を当てることで、ソヴィエトを描くとともに、プーティン政権がそこに批判的に扱われているのに違いないのである。
ここで再三繰り返されている様にオペラ劇場作品の上演の在り方が問題となる。なるほど楽曲に関しては良いも悪いもそれを演奏可能だろう。しかし抑々劇場作品は舞台があるから成り立つもので、そこにト書きや演出が存在することになる。だからここではその当時のそれも初版を其の儘上演しても何ら意味の無いことぐらいは誰にでも明白であろう。
そこに舞台化する為に創意工夫があって、それをして読み替えとかなんとか容易に言い放つ行為が如何に無知なことである事か。そもそもどのように完璧な楽曲と舞台設定があったとしてもト書き通りが典型などとは何一つ芸術つまりそこの現場で創作していく行為が分かっていない証拠でしかないのである。
そして舞台上では生の歌手が役者としてもそこでドラマを演じるのである。そこには読み替えも何もなくて、その演者が演じるドラマがそこで生じる行為がある。その行為が聴衆にとって何らかの心的な影響を起こさない事には始まらない。
所謂純音楽と言われるようなものにはそうした具体的なドラマは存在していない。飽く迄も抽象的に進行するからこそでの高尚な音楽芸術であって、それと同じようにオペラを演奏会形式で行っても殆ど意味を成さない。なぜならばそれは抽象的でもなく、そこにドラマも生じないからである。
参照:
穴があるのが普通か 2023-03-03 | 雑感
面倒は御免なやり方 2023-02-28 | 雑感
新聞に先月載っていたブタペストでの公演評に目を通した。2021年にジュネーヴで共同制作されていた公演である。その間にウクライナ侵略が起った。情勢はそれ以前も変わらなかったのだが、ミュンヘンの音楽監督ユロウスキーも含めてまさかの一方的な侵略だったようである。
だから、東欧の中でも特別な立場にある政権のハンガリーでも流石に満席の聴衆はその勝利の内容には拍手も躊躇させられたとある。勿論演出はビエイトのものであるから、ロシアの其れではないのだが、重要なのはどうしても原作の対ナポレオン戦争とその作曲の依頼時との対独戦争との関係をどのように整理するかにあるようだ。
しかし、新聞評では既に私見として言及した様にプロコフィエフの作品自体に欠陥があると書いてある。その内容に関しては必ず更に言及しなければいけなくなるので先ずは保留しておく。だからこそユロウスキーが語る様にその作品の意味合いが分かるような制作が必要となるのである。
そしてインタヴューで語っているようにチェルニコフの今回の演出で氏もロシアのブラックリストに新たに載るに違いないとしていて、その内容がプロコフィエフの作品に内包していることを今日的な視線から光を当てることで、ソヴィエトを描くとともに、プーティン政権がそこに批判的に扱われているのに違いないのである。
ここで再三繰り返されている様にオペラ劇場作品の上演の在り方が問題となる。なるほど楽曲に関しては良いも悪いもそれを演奏可能だろう。しかし抑々劇場作品は舞台があるから成り立つもので、そこにト書きや演出が存在することになる。だからここではその当時のそれも初版を其の儘上演しても何ら意味の無いことぐらいは誰にでも明白であろう。
そこに舞台化する為に創意工夫があって、それをして読み替えとかなんとか容易に言い放つ行為が如何に無知なことである事か。そもそもどのように完璧な楽曲と舞台設定があったとしてもト書き通りが典型などとは何一つ芸術つまりそこの現場で創作していく行為が分かっていない証拠でしかないのである。
そして舞台上では生の歌手が役者としてもそこでドラマを演じるのである。そこには読み替えも何もなくて、その演者が演じるドラマがそこで生じる行為がある。その行為が聴衆にとって何らかの心的な影響を起こさない事には始まらない。
所謂純音楽と言われるようなものにはそうした具体的なドラマは存在していない。飽く迄も抽象的に進行するからこそでの高尚な音楽芸術であって、それと同じようにオペラを演奏会形式で行っても殆ど意味を成さない。なぜならばそれは抽象的でもなく、そこにドラマも生じないからである。
参照:
穴があるのが普通か 2023-03-03 | 雑感
面倒は御免なやり方 2023-02-28 | 雑感