Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

恥の意識のモラール

2006-05-21 | 文化一般
恥の文化、罪の文化について最近耳にする。何時もの車中ラジオの文化波で、恥の文化等と話されると意外な感じがするのは致し方ない。罪の方は、遵法精神や宗教的戒律を破ることであるので分かり易い。それに対して、それに含まれない規範や規律といったものが存在して、そういった曖昧な定まりを逸脱した際に発生するのが恥の感情なのだろうか。偶に、優劣に関わるのもこの自己規定と無意識下のコンプレックスに源を発するようだ。ゆえに罪に対して、恥は定義し難い。

話題のダ・ヴィンチ・コードの米国の読者に、「恥を知れ」と叫んだのは彼のサルマン・ラシュディーで、「詰まらない書籍が影響を与えるのが不敬なのだ。」と直截に語っている。

「恥を言うのは、政治家や公人であり、ここ数十年一般市民の心理からは後退して行った。」と、政治学者エリック・マイヤーはZDFのインタヴューに答えている。真偽は判らないが、少なくとも軽微な罪は金銭で弁済出来るものであり、清算以後は、恥の意識から開放されることを善しとしている風潮と考えても良い。恥の意識こそは、家庭の教育や環境、教養から導き出されるようである。金銭や法廷闘争では解決されないものなのである。言い換えれば、道義的な責任を感ずる意識である。このインタヴューは、ベルリンのホロコースト石碑に対して2005年5月に話題となったものであって、石碑によって全てを清算しようとした希望は満たさられなかったとする意見である。

友人の言葉で思い出すのは、「彼は、マトモナ人間だから」と言う表現である。これなどは、計り知れない、定義出来ない表現であるが、信頼関係の基本となる概念である。信頼関係を他者の実体の知れない道義的な意識に期待するのは、大変興味のある事象である。

恥の文化として、著作「菊と刀」の中で日本の特徴を示したのは、ルース・ベネディクト女史であった。現在でもその実体に関わらず、オランダ人のイアン・ブルマは、独日の戦後処理の差異をその文化の特徴に注意しながら示した。1994年の出版で1991年の湾岸戦争時に両国で取材された結果であった。その内容もさることながら、日独の心理を恥の文化、罪の文化として対称させることに異議を唱えている。その心理を個人的なものとするか集団のものとするかも、同じような二元化による物事の簡素化でしかないのかもしれない。

恥の意識こそが、自尊心の基礎ともなる無意識下の規範であるとすると、故意にそうした束縛を無視しようとする姿勢も、解放されること無く得体の知れぬものに縛られ続けるのもその意識の両面を示しているだけで、希求する状態に至るモラルという原動力になっているのだろう。そのように考えると、意識下に明確に規定される罪の意識よりも、恥の意識の方が遥かに大きな潜在力を持つのかもしれない。



参照:
資本主義再考-モーゼとアロン(3)[ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28

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