「ダ・ヴィンチ・コード」と言うベストセラー小説の映画が封切りされたらしい。二月には、思わせぶりのつまみ食いの上映会がベルリンでも開かれたと言う。いずれにせよベストセラーであり、然るべき手による映画化と言うことで、十分な営業成功が見込まれている。
ラジオで耳にすると、原作者ダン・ブラウンの他の作品の方が良く書けているので、ブームはまだまだ去らないだろうと言う、証券指標のようなコメントがされていた。ここ十年ほどは中世を舞台にした小説などは、目白押しで、エンターテーメントとしても成功しているものも多い。今回の現象も米国人による、欧州コンプレックスとも言われているが、それだけではこうした世界的成功を説明していないのは明らかである。
この小説の粗筋を垣間見るだけで、その辺りにマーケティングが絶妙に組み合わされているのが知れる。何よりも、レオナルド・ダ・ヴィンチやアイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴーと来れば世界中の少なくとも中等教育を受けた現代人には大変馴染みがあって、モナリザの絵なども有名な西洋絵画の代表である。もちろんイエス・キリストや教会は、最も有名だ。
新聞評を読んでも、元高校教師の原作者がこうした読者層を熟知していて、精神性と確信と教養志向の作家活動を目指しているのが良く分かる。映画化での米国内の宗教原理主義者の反応などは、実際は思うままに制御可能なほど極一部で、話題作りのためにピックアップされている事は周知であるが、この映画の影響は「信じられないほど、毒にも薬にもならねえ」とされる。
原作を片手にロンドンやパリへと旅して、以前は誰も知らなかったような教会の絨毯を剥がしても、聖杯どころかダヴィデの星もキーストーンも見つからず、失望した読者たちは、それでも今後も懲りずにこの作者の後を追うのだろうとしている。
こうした絶大な反響から、全世界の知識スタンダード化と俗物化の、商業主義の中での、侵攻を留意すべきである。半世紀前ならば素朴に希求さていたようなこうした話題の地球共通化が、現在はサテライト映像通信やネットの発達や様々なTVゲームやコミックなどの媒体を以って、人類を、その文化を均質化の危機へと招いている。そもそも教育の場で学力をPISAという指標で国際比較する時代なのである。それも日常生活に根ざした固有の感覚では無しに、-一体現代のどれだけの人がキリストの子孫に興味があるだろうか-教育で一般教養として習った文化のコードに対応している事が問題なのである。ここには個人や共同体が、民主主義のイデオロギーの中に、各々の個性を失いかねない 共 通 認 識 が存在する。
このコードの謎解きを古典的な教養への謎解きとして、その「不敬罪」へのウイットを示したのではないかとする記者は、「事実にフィクションを上塗りした」とされる非常に良く出来た原作やその映像化に対して、「ちっとも心配することなぞありませんよ。」と大人に訴えかけるが、所詮エンターテイメント界やハリウッドの出来事として軽視して、 真 の 影 響 を見落としているのではないだろうか?ジャーナリストのこうした書き手が、本人も知らぬ間に「テンプル騎士団」に洗脳されているとしたら、これほどの戦慄もあるまい。足の肉深く食い込む鉄の棘が痛い。
ラジオで耳にすると、原作者ダン・ブラウンの他の作品の方が良く書けているので、ブームはまだまだ去らないだろうと言う、証券指標のようなコメントがされていた。ここ十年ほどは中世を舞台にした小説などは、目白押しで、エンターテーメントとしても成功しているものも多い。今回の現象も米国人による、欧州コンプレックスとも言われているが、それだけではこうした世界的成功を説明していないのは明らかである。
この小説の粗筋を垣間見るだけで、その辺りにマーケティングが絶妙に組み合わされているのが知れる。何よりも、レオナルド・ダ・ヴィンチやアイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴーと来れば世界中の少なくとも中等教育を受けた現代人には大変馴染みがあって、モナリザの絵なども有名な西洋絵画の代表である。もちろんイエス・キリストや教会は、最も有名だ。
新聞評を読んでも、元高校教師の原作者がこうした読者層を熟知していて、精神性と確信と教養志向の作家活動を目指しているのが良く分かる。映画化での米国内の宗教原理主義者の反応などは、実際は思うままに制御可能なほど極一部で、話題作りのためにピックアップされている事は周知であるが、この映画の影響は「信じられないほど、毒にも薬にもならねえ」とされる。
原作を片手にロンドンやパリへと旅して、以前は誰も知らなかったような教会の絨毯を剥がしても、聖杯どころかダヴィデの星もキーストーンも見つからず、失望した読者たちは、それでも今後も懲りずにこの作者の後を追うのだろうとしている。
こうした絶大な反響から、全世界の知識スタンダード化と俗物化の、商業主義の中での、侵攻を留意すべきである。半世紀前ならば素朴に希求さていたようなこうした話題の地球共通化が、現在はサテライト映像通信やネットの発達や様々なTVゲームやコミックなどの媒体を以って、人類を、その文化を均質化の危機へと招いている。そもそも教育の場で学力をPISAという指標で国際比較する時代なのである。それも日常生活に根ざした固有の感覚では無しに、-一体現代のどれだけの人がキリストの子孫に興味があるだろうか-教育で一般教養として習った文化のコードに対応している事が問題なのである。ここには個人や共同体が、民主主義のイデオロギーの中に、各々の個性を失いかねない 共 通 認 識 が存在する。
このコードの謎解きを古典的な教養への謎解きとして、その「不敬罪」へのウイットを示したのではないかとする記者は、「事実にフィクションを上塗りした」とされる非常に良く出来た原作やその映像化に対して、「ちっとも心配することなぞありませんよ。」と大人に訴えかけるが、所詮エンターテイメント界やハリウッドの出来事として軽視して、 真 の 影 響 を見落としているのではないだろうか?ジャーナリストのこうした書き手が、本人も知らぬ間に「テンプル騎士団」に洗脳されているとしたら、これほどの戦慄もあるまい。足の肉深く食い込む鉄の棘が痛い。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」の世界同時公開(話題作の公開に関しては、最近は違法コピーによる「被害」を防ぐため地域をずらしての公開を減らしているようなので特別なことではないですが)が昨日始まり、日本でもニュースで映画館の行列と、世界各地(主に、イタリア、フランス、フィリピンといったカトリックの強い国々)の市民や聖職者の反応を伝えていました。また、すでに何本かこの小説、映画の紹介・解説的な「おめでたいテレビ番組」が放映されています。美術番組でも取り上げられれます。
先日のキリスト教国ヨーロッパ各地でのイスラム教祖を揶揄する漫画掲載事件と、今回の一種のキリスト教への批判といい、いわゆる民衆的なレベルでの宗教的な権威への異議は従来からずっとあったこととは思いますが、ネットでつながり、大量コピーが可能な現代ではそれがグローバルに波及するところが新たな宗教紛争の火種になりそうで心配されるところだと思います。
また、陰謀史観ではありませんが、単なる知的好奇心だけではないものの背景を探りたくなります。ハリウッド映画ですが、当のUSAのファンダメンタリストなどはどのような反応を示すのでしょうか?
私はTVを殆ど観ないようになってしまっているので、映画のルーティーンな広報活動とそれ以上の盛り上がりは知りません。それでも活字やネット情報、ラジオにおいても話題性は尋常では無いようです。それに対するメディア批判は理があると思います。
「雨をかわす踊り」さんも米国での反応等をとり上げていらっしゃいますが、欧州の反応はどこも同じような感じで比較的落ち着いています。
「宗教的な権威への異議」になっているのか、「陰謀史観」なのか、こういったものが世界的な話題になるのが面白いです。伝播の仕方や問題の起こり方など一連の話題に特徴がありますよね。モスリムグループもネットや情報網を積極的に使っていますし。
その問題自体すら、ヴァーチャルな感じがするのが留意点でしょうか。原作の売り上げ規模すら不思議なのですが、従来のマスメディアの方法論も巧く機能しているのでしょう。
日本国内に関してだけ言えば、その後もずっと売れ続けていた背景には、マスコミの取り上げが大きいと思います。「これを読まずして・・・」のような雰囲気が作られていった気がします。
また、日本では映画化決定後に人気が再発した印象があります。最近文庫本も発売され、とても売れているみたいです。
もちろん内容に関して言えば、個人的には非常に良く出来たものだと思いますし、「親しみやすい」作品であるので、それが人気を博したことに関しては良い結果だと思います。
ただし、作品の背景にある歴史等を知っている・いない、興味を持つ・持たないで、楽しみ方は全く異なると思います。話題性だけで、ルーヴルツアーに参加しても悲しいですし、同時に、完全に受動的に内容を鵜呑みにしてしまうことは、私としては避けたいです。
総合すると、映画より原作、原作より素材が大きな興味をもたれているのでしょう。すると、やはりその捉え方とか表現の仕方が問題となるようです。
オプス・デイの見解なども改めて纏めるかもしれませんが、そういった世俗以外のものも、蛍光灯の光のようなものが当てられて月並みなイメージが確立してしまうのが問題になります。そのようなイメージから逃れる事がなかなか難しいのも事実です。
なにもそのイメージの原因を作るのが必ずしも米国の作品とは限らず、ユゴーなどの古典的な作品でもありえます。ただ、上質で強力なエンターティメントの場合は、フィクションを現実認識に同化させる影響力があります。それは、そもそもエンターティメントが限定されたフィクションの世界に安住するからでしょう。
絵画や環境などもそうした視点でしか見れなくなると厳しいですよね。そうした影響から逃れるのがまた結構大変ですよ。