Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

感受性に依存する認知

2009-01-03 | 文化一般
正月のノイヤースコンツェルトの「見方」が少々話題になっている。話題の主は指揮者ダニエル・バレンボイムで、彼のメッセージが英語から独訳されてネットにあるのでそれを紹介してもう少し考えてみよう。

なによりもまず先に、この指揮者とパレスティナ文学者エドワード・サイードが共同で行なったプロジェクトであろうエルサレムの音楽院での成果が先日ラジオで話題となっていた。イスラエルは、近くではコソヴォにみられた様に、合衆国の公民権運動へと繋がるもしくは南アフリカで有名な一種のアパルトヘイト政策を採っていて、通常はパレスチナ人とユダヤ人が机を並べて学ぶ事はないと言う。しかし音楽院では日常茶飯にそれが行なわれていて、若者達は分け隔てなく芸術を学ぼうとしている「大成果」を読者は踏まえておく必要がある。

さて、ダニエル・バレンボイムは、年頭にあたって三つの願いを書いている:

一つ、イスラエル政府は、今回限り、中東紛争は武力を手段として解決されるものではないと認識する事。

一つ、ハマスは、暴力が彼らの利益とは相反して、イスラエルの存在は現実であることを認識する事。

一つ、世界は、この紛争は歴史的に唯一無二である事を認識して、例外無き複雑さと重荷であると認識する事。これは、おのおのが自らの権利を全く疑わない、同じ一角に暮らす二つの民族間の人間的な紛争であって、外交手段や武力手段によって解決されるものではない。

先日来の進展は、私にとって様々な理由から、尋常ならない憂慮である。勿論、イスラエルは、自国民を絶え間ないロケット攻撃から護る権利を有して、それを断固許さないのは当然であるが、ガザにおける野蛮で容赦無い軍の空爆は幾つかの疑問を生じさせる。

一つ、イスラエルは、ハマスの行動をパレスティナ人全員に責任を取らせる権利はあるのか?すべての住人はハマスのテロリズムの犯罪によって罰せられるべきなのか?私達ユダヤ民族は、誰にも増して無実の市民が非人間的に殺害されることに対して敏感であり、それを断固否定するべきである。イスラエル軍は、言い分けとして、「ガザの市民の犠牲を避ける事が出来ないほどのあまりもの人口密集」を挙げているが、これはあまり道理がない。

つまり、それならば一体空爆の意味はどこにあるのだと疑問が湧いて来る。一体イスラエルは何を期待しているのだ?ハマスを叩くならば、一体そんな事で目標に到達する事が出来るのだろうかと。さもなければ一体こんな悲惨で野蛮で無責任な作戦など無意味でしかない。

もし、ハマスを壊滅させる事が出来るとすれば、イスラエルはガザの反応をどのように考えているのか?百五十万人のガザの住民が突然イスラエル軍の膝元にひれ伏せはしない。忘れてはいけない、ハマスはパレスティナ住民に選挙で選ばれる前から、イスラエルのアラファトの弱体化を狙う戦略から推奨されていたのである。身近な歴史を振り返れば、ハマスが撲滅されても、今度は他のさらに急進的で暴力的なグループがイスラエルに対峙して来ると予想される。

イスラエルは、その生存権から軍事的な敗北は許されない。しかし、イスラエルが軍事的に勝利すれば、急進的なグループが台頭する事で、いつも政治的にそれ以前よりも弱体化しているのである。イスラエル政府が日々難しい選択を迫られている事は疑いない。だから、イスラエルの長期に渡る安全保障は、隣人達に受け入れられることであると考える。2009年がユダヤ民族に授けられたソロモンの智恵を政治家も取り戻して、パレスチナ人とユダヤ人の双方が同じ権利を持つようにと、ユダヤ人の賢明を願う。

パレスチナの暴力はイスラエルに及び、パレスチナを蝕む。軍事的な報復は非人間的で非人道的であり、イスラエルに安全保障を与えない。述べたように、両民族の運命はお互いに解かれること無く結ばれている。彼らは共に生きなければいけなのである。彼らは、そこに祝福を望むのか、逃避を望むのか判断しなければいけない。

― ダニエル・バレンボイム記 ―

なにも付け加える事はないが、こうした政治的発言をどのように評価するか以前に、音楽芸術に関心ある者は彼が言う「ユダヤ民族は、誰にも増して敏感」に留意すべきではないだろうか。勿論これは数々のポグロムの歴史とナチスによるホロコーストの「貴重な経験」を指しているのだが、その「記憶」がどのようにして「伝承」されるかというとやはり芸術文化における表現でしかない。つまり最終的にはなんらかを伝えるには知的な認知が必要であるとして、それだけでなにが伝わってなにが伝わらないかを考えてみれば良いのではなかろうか?

なにかを受け取り感じる事が出来るか否かは、抽象化された文字や高度に発達した記号によるとは限らないと、この音楽家は逆説的に示してはいないだろうか?そう、人は自らの体験でしか物事を認知出来ないのである。少なくともそうした感受性の敏感さに依存して、はじめてメッセージを音楽芸術が伝える事が出来ると信じていると見做して間違いない。



参照:
Daniel Barenboim über Israel, FAZ vom 1.1.2009
ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート2009 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01

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4 コメント

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あけましておめでとうございます (yurikamome122)
2009-01-04 17:01:24
改めまして、あけましておめでとうございます。
バレンボイムの話、彼の音楽活動の中にそういった一面があることを認識した上で別の見方をするきっかけになったことを感謝いたします。
そんな彼がベルリンのオペラ座に終身の待遇で長く君臨していることもまたその意味で感慨深いものがあります。
今年もまたよろしくお願いいたします。
今年がpfaelzerweinさんにとり素晴らしい年になりますように。
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その存在そのものが政治的 (pfaelzerwein)
2009-01-04 18:22:16
こちらこそ、本年も宜しくお願い申し上げます。

ヴァーグナー演奏実践への賞賛を読んで同意すると共に、他の実演や手元の録音などに想いを巡らしています。指揮者としてピアニストとして比較的聞いているに拘らず意外に馴染みがなかったのも事実で、それはなぜかとも考えています。

この音楽家が政治的かどうかと言えば、その存在そのものがユダヤ人であることを表面化するだけで政治的になるのです。政治的にアバドやポリーニなどのように直接係わっている訳ではないのですが。

なるほどベルリンでのポストも歴史文化的な政治性がないとは言えません。それを考えると、ここ暫らく言及した事の結論が見えるような気がします。

yurikamomeさんにも、良い年でありますように。
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ごく僅かだけど居心地の悪さも (助六)
2009-01-05 08:45:24
今年もよろしくお願いいたします。

私はニューイヤー・コンサートは見ずに眠りこけてました。まあ過去も必死になって起きて見たのはクライバーの2回だけではあるんですが。バレンボイムが発するであろう時事的メッセージには興味ありましたが、後で報道で知れば十分と思って。

聴かなかったのは、まずバレンボイムの重く粘る音楽性が一般的に苦手で、ましてや彼のウィンナ・ワルツにはあまり興味を惹かれなかったからです。

もう一つは、彼の平和活動の動機の大部分が良心的で誠実なものであろうことを疑う気はありませんが、個人的野心の影もまったく感じないというわけには行かないからです。

かつてバレンボイムは政の力でバスティーユ新オペラ座音楽監督を強引に解任されたのでしたけど、そのバレンボイムは、先日のリンデン騒動で今度は逆に政を取り込んで、自己のオーケストラ向上への野心を実現するために、ムスバッハ総監督を追い出した形ですね。
つい一瞬、例のない暴力を経験したイスラエルが、今度は暴力を振るう主体になるという図式を重ね合わせてしまうんですが、もちろんこの種の現実生活でのシガラミと駆け引きは誰もが多かれ少なかれ経験していることでしょうし、個人的世渡り技術と、制度化した権力メカニズムが行使する暴力を同列に論ずるのは愚かでしょう。ただバレンボイムの世渡りは権力メカニズムに片足突っ込んだ形で行なわれているし、バレンボイムがリンデンで政を味方につけ勝利した背景には、結果的にそうなっただけなのかも知れないにせよ、平和活動で獲得した国際的プレスティージュと言う要因も働いていたわけですから、バレンボイムの個人的行動とイスラエルの暴力の関係、彼の平和活動の意味には僅かに割り切れないものを感じてしまう。

仏に「キャビア左翼 gauche caviar」という言葉があり、弱者との連帯とか口では上手いことを言いながら、家ではふんぞり返ってキャビアなんか食ってる左派知識人を揶揄する語ですが、確かに僅かな給与でメディアに取り上げられることもなく、ホームレス援助とかに従事してる人の現場に触れると、知識人の平和言説などにやや居心地の悪さを感じてしまうのも事実です。サイードもこの種の批判を受けたことがありますね。
もちろん、バレンボイムがイスラエルでヴァーグナー演奏を強行して聴衆との討論に応じたり、西東オケとラマラに乗り込んだりするのは、尋常ならざる勇気を必要とすることでしょうから、「キャビア左翼」どこではないですが。

彼の「西東オケ」は、昨年8月末にパリでヴァルキューレ1幕で初めて聴きました。一昨年だったかパリに初めて来演したときのオケ・レヴェルについての批評はパッとしませんでしたが、今回は誰もが向上を賞賛し、私もヨーロッパ室内管やマーラー室内管に迫る高いレヴェルと思いました。芸術的成果は明らかです。ジークリンデのマイヤーも好調で、若い楽員の懸命さと合わせ感動さえしました。

人間、個人レヴェルでエスニシティ差に基づく差別・対立が生じるのはむしろ稀と思います。個人レヴェルで異国人同志が共感・友情・信頼を分かち合うのは特に難しいことではない。パリ市内北東部ベルヴィルは伝統的移民地区であらゆるエスニック・コミュニティーが入っており、大きなユダヤ、アラブ・コミュニティーが共存してますが、今まで中東紛争時にも摩擦が生じたことはなく、ユダヤ人とアラブ人が親友なんてケースもある。ボスニアでも紛争前は皆一緒に祭りに参加してたりとか。

西東オケでも若いメンバーたちはたちまち良き仲間になるでしょう。
パレスチナではユダヤ人とパレスチナ人の個人的接触は難しいようですし、こうした文化レベルでの信頼醸成の試みは絶対に必要なことですが、問題は個人レヴェルの親愛関係は、
ナショナリズムとイデオロギー統制、権力メカニズムが結びついて働いた時、ある日突然集団的敵対関係に転化しうるということではないかと思うのです。ヒトラーは映画が描いたような「優しいおじさん」だったかもしれないし、ナチス支持のフツーの市民は善良な父親・隣人であったでしょう。
こうした転化が起こるのかは不思議なことですが、歴史上はいくらでもあることですね。仲良しのオケ・メンバーが、ある日政治的議論に及んで殴り合いになることは考えられることです。なぜ、いかなるメカニズムで、こうした転化が起こるのは考えてみる必要があると思います。
ホロコーストの記憶を伝える重要手段が芸術文化であることには賛同いたしますが、そうした忘れがたい芸術的経験がなぜ集団的敵対への転化を妨げる最終的歯止めたりえないかということが問題だと思うのです。皆が平和を望んでいるのに、その平和は訪れない不思議な逆説メカニズム。

バレンボイムもこの辺に幻想があるわけではなく、「音楽で問題が解決する訳ではない」と言い切ってます。でも何もしないわけにもいかないという気持ちは分かりますね。ニューイヤー・コンサートでの一言のメッセージもそれで直接何が変わるわけでもなく、ブルジョワジーのおばさんが新年ディナーの話題にするだけかもしれませんが、70ヵ国の人々が聞くだけでも無意味ではないでしょう。

バレンボイムの書面メッセージには、私も異論はありません。こうした機会を逃さず正論を世に訴えるこの音楽家の明快で勇気ある行動にはまず敬意を表したいと思います。
確かにイスラエルが今回の地上軍投入でハマス壊滅に成功したとしても、過去の例を見ても、正にその事実こそがハマスの強硬姿勢を正当化し、暴力の悪循環が強化されるだけでしょう。やはりイスラエル進攻には選挙前宣伝、ハマスのロケット砲攻撃挑発にはファタハ弱体化という目先の動機が利いてるんでしょうね。

バレンボイム論説で1箇所だけ引っかかったのは、「この紛争は歴史的に唯一無二」の下りです。
ホロコーストは歴史にいくらでもある紛争・戦争に伴う虐殺とは「質的に」違うというのはイスラエルの公式言説で、「歴史家論争」で問題になったことですが、あるポーランド人は「カティンの森事件は誰も知らないが、ホロコーストと南京大虐殺は誰でも知っている。『質的違い』とはプロパガンダの有無だ」などと言ってましたが、こうした特別視は様々な憶測と反発を呼びかねないと思います。

中東紛争がなぜ特殊なのかは説明がないから分かりませんが、「エルサレムは3宗教の聖地」という人間の根源的価値観が衝突せざるを得ない場であるからなのか、イスラエルは「国民国家」という19世紀的トポスさえ実現していない(これはクルドだってそう)ということか、あるいは石油問題に関係し世界最大のユダヤ・コニュニティーを擁する超大国アメリカが深く関るという「地政学的重み」のことか。最後だったら、些か胡散臭い。世界にはエチオピアのオガデン紛争とか事実上忘れられ、ニューイヤーで茶の間に飛び込むべくもない紛争も色々あるわけですしね。
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「唯一無二」を繰り返し推量 (pfaelzerwein)
2009-01-05 20:02:02
こちらこそ、本年も宜しくお願い申し上げます。

さて、恐らくイスラエルを代表する芸術家としてこの指揮者を見做すと、同時に伝統的な西欧に住んだユダヤ人や現代の世界で活躍するユダヤ人などのいくつもの典型が気になってきます。

バレンボイムの政治的姿勢は、イスラエルの現状からして可也なものであって、その立場を利用すると同時に利用されるものであるでしょう。その中に処世術としてユダヤ人ネッツがその軸にあるのはなにも隠し事ではないです。そうした社会関係は、宗教と共にユダヤ人の宿命のようなものなのでしょう。

そこで、作曲家メンデルスゾーンを挙げるまでも無く様々な芸術家が表現手段をもって君臨して来た訳ですから、どうしてもそうした歴史的な流れの中で考えます。

ウンターデンリンデンの場合に限ってもエリッヒ・クライバーが意識されるのは仕方ありません。

「キャビア左翼」批判の世界的な湧き出しはポストモダーン現象の一つかもしれませんが、そうした社会文化構造の中で捉えると、この指揮者の表現や活動も分かり易いのではないかと思います。

なるほど上辺だけの融合や協調は大変怪しいもので、ご指摘のように私も「唯一無二」を繰り返し推量します。要するに、二つの民族が各々に理があり譲れないと言う点では、一般的な民族間紛争の通例ですが、ユダヤ民族の特殊性がそこに強調されているに他なりません。この辺りのみかたが焦点になりますね。

ついでながらバーンスタインが広島記念コンサートツアーをした時の批判も読み返したいとかねがね思っていましたがネットでは見つかりません。これも、イスラエルの見解に相似する事象でしょう。

しかし、ナチのホロコースト自体はユダヤ人の特殊性ではなくてドイツ人のそれですからね。この辺りは「ファウストス博士」に描かれている通りでして。

そうした面を含めてのバレンボイムの姿勢は、その芸術表現の方法と共にやはり重要視したいです。ただFAZも通常の紙面には全文を載せなかったなど色々と編集部の判断があるようです。
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