Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

手に負えない大馬鹿野郎達

2009-05-17 | 試飲百景
二百五十キロを走って試飲会を梯子したのは初めてである。片道一時間の距離であるから大した事はないのだが、途中時速二百キロを優に越える走行もある。「口を湿らすだけで、所謂ごっくんとはしていない」ので、目が廻る事はなかったが、流石に一日の最後には緊張も解れて酔いが全身に廻った。

午前中三時間ほど滞在したラインガウのエルトヴィレから戻ってきて、ダイデスハイムに着いて、アイスヴァインなど一通りの試飲を終えて、嘗てのスター醸造親方でありミュラーカトワール醸造所を一挙に世界的に名を高めたシュヴァルツ氏に色々話を伺って、事務方の発送責任者に今後の日本発送への宿題を授けていると、三月の試飲会で出会った印象深い白髪の老夫婦に再会した。

あの砥石のようなミネラル質のワインが出来る地所モイスヘーレのリースリングが堪らないというかなりマニアックな親仁さんである。BLOG「新・緑家のリースリング日記」で御馴染み緑家さんの好みにもかなり共通していて、急にその変態性に親しみ感じてしまったのであった。

「こんにちは」

「ああ」

「モイスヘーレですか?」

「モイスヘーレ、メッケンハイムに住んでるですけど、あなたはワイン関係でしたっけ」

「いえいえ、ホビーですよ。我々みんなそうでしょう。今日ラインガウに行って試飲してから帰ってきましてね」

「おお、それは凄い」

こうした具合で話を始めた。

「私は辛口一本ですが、今年は甘口が面白いですよ、飲まれましたか?」

「いやまだだけれど」

「それからシュヴァルツ氏の赤ワイン面白かったですよ、赤はどうです」

「赤はあまり飲まないけど、マイヤーネッケルとか、アデナウワーとか、ベッカーとか」

「そうですか、レープホルツは来週ですね。行かないんですか?講話がいいですよね」

「まあ、行くと思うけど、そうそう」

「明日はビュルックリン・ヴォルフなんですが、どうですか?値段は高いですが、価値はあると思うんですけどね」

「どうも、十五年ほど前までは良かったけど、どうも口に合わなくて」

「分かりますよ。例えば2008年は温暖化から再び昔のようになりましたから、可也よいですよ、一度試してくださいよ。まあ、兎に角ここでも甘口を飲んできてください」

「ありがとう、早速試してみるよ。またお会いしましょう」

味覚とは恐ろしいもので、特にこうした偏執なものとなると、長ったらしい文章を書くよりもその好みを知るだけで、その人の特質に迫ってしまえるのだ。

そしてどこかの名医が言うように自覚症状がない患者の方が手に負えないのである。
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二日三件で呑まれるヨナ書

2009-05-16 | 生活
ローマ人の醸造所への道で道祖神を見つけた。灯篭になっているようだが、魚の口から手が出ている。そうなればその手は、旧約聖書のヨナのものだろう。ヨナ書第二章の「魚に呑まれたヨナ」である。

週末は、三件の試飲会である。三日三晩とはいかないが、二日三件で、ワインに呑まれるのである。
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アメちゃんの混ぜものポンチ

2009-05-15 | 雑感
14世紀のフォン・ホムブルク伯の城跡であるプェフィンゲンで食事をして出てくる。其処から仰ぐミヒャエルスベルクやバート・デュルクハイムの背後の森は美しい。プロテスタントの鋭塔とカソリックの高まりを目指して町の方へと暫らく歩む。

ドイツのワインと言っても生産性の悪いモーゼルのワイン栽培は半数以上が壊滅してしまう兆候は、それらとここのリースリングの品質の顕著な差に致命的に表れ出している事を語る。要するに、質に拘って此方からモーゼルへと注文するほどの特別魅力的なワインを提供するほどの品質がなければ生き残りは不可能という事で、安物ワインを手ごろな価格で放出しようとしても結局は混ぜ合わせるためのワインの原料を提供するようになってしまうと言うことである。そうした商品にはこれまた価格でとても採算が合わない。それは欧州の単一市場が成立した時から定まっていて、ここでも何度か扱っている話題である。

そのような事を語っていると、その幹線道路沿い歩道側の草むらに右翼団体の選挙ポスター「片付けて仕舞おう」が剥がされてまるで墓場のように捨てられているのを見つける。先日来車に乗っていて眺めていたのもである。なるほど、ユダヤ人を名指しして攻撃すれば一挙に政治活動禁止へと急速に近づくが、そうしたあらゆるグローバリスム批判にその印象などを上手く重ねるような広報活動をしている。

しかし、今や経済危機の影響でポーランド人がアスパラガス摘みに戻ってきて、様々な段階にて外国人の労働力を求めない限り、ドイツ人だけではごみ収集からなにからなにまで老人達が行なわなければ成り立たない労働事情は周知の事なのである。要するに外国人の手ごろな労働力があるからこそ西欧社会が成立しているので、十五年ほど前は盛んであった外国人労働者の排撃などは己の理想とする社会の首を自ら絞めているようなものなのである。もちろん、自由市場が存在してこその繁栄であり、ああした国粋主義者の主張は只感覚的に訴えるしか策がない。

そのような理由から、そうした政党が議席を持つために五パーセントを越えるような得票率を挙げる危機感は、少なくともまともな連邦共和国の教育を受けている有権者がいる限り殆どない。寧ろ、そうした社会からドロップアウトしている自由民主主義に価値を見出さない外国出身のドイツ人などが投票するのではないかと思えるほどで、国粋主義者は、そうした社会からドロップアウトとしているトルコ人有権者などを巻き込めば大きな飛躍があるのではないかと思うほどである。

そのような事を思いながら再び古の城郭の中に停めてある車の所へ戻ろうとすると、バンから三人ほどの同じような若者が少々興奮状態で降りて来て、ハッチバックから真新しい右翼団体の選挙ポスターを出しながら、はしゃいでいるではないか。偶々そのような事を考えていたので、一瞬自らの表情が急激に凍り強張るのを感じた。

なぜならばそこに大きくスローガンとして書かれているのが次ぎのような文句であるからだ。

Deutscher Wein statt Ami-Fusel!

米国ポンチの代わりに、ドイツワイン。

こちらは、プファルツワイン宣伝の帽子を被っている手前、ついつい口を挟みたくなった。どうしてドイツワインなのか、なぜプフェルツァーヴァインではないのか?

Pfaelzerwein statt deutscher Weine!

そのように絡んでやろうと思うのが既に酔っ払いである。一組の夫婦が通りかかっているので、三人の若者を相手になにか騒動になった時はやはり最初に攻撃したことの責任が問われてしまうだろう。所謂過剰反応である。

そのように少しでも冷静に考えると、社会主義者達が連中を政治の表舞台から消し去ろうとしているが、まともに対抗する方が間違いであろうと実感するのである。

この団体は、実際二つ向こうの町で、ドイツのワインを護ろうと大きなデモンストレーションを行なったが、米国のコーラワインを閉め出そうが、これだけその地域や土壌や栽培醸造工程で品質で差がついてしまったドイツワインを同じ狢として扱うのがもう不可能なのである。一度品質を上げたそれに慣れ親しむとたとえ流行はあっても品質を下げる事は出来ない。何もかもが不可逆なのである。

彼らはきっと十五年ほど前にあった二マルクほどの味のないリースリングを寂れた酒場であおって、二日酔いに苦しみたいのだろう。



参照:
新極右翼親仁に学ぶこと 2009-01-26 | マスメディア批評
外人権利と依存する大衆 2008-06-10 | 生活
VDPプファルツへの期待 2008-01-07 | ワイン
Pfalz編・その2 (saarweineのワインに関してあれこれ)
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脛毛を撒き散らし葡萄踏み

2009-05-14 | ワイン
カタツムリを踏みつけないように歩いて、ローマ人の浄水道を過ぎると、ローマ人の葡萄の搾り場に出る。雑食砂岩の槽が段々となって、上澄み液が流れるようになっている。

壁に書かれた図解には一向に処女らしい美しい娘は見られず、むさくるしい親仁達が葡萄を踏んでいるので、写すカメラのアングルを調整した。

第一槽であの親仁達が脛毛を落としながら、もしや唾でも吐きながらモストを準備したかと思うとちっともあり難くない。沈んだ澱も更に汚らしく感じてしまう。

ウングシュタインのヴァイルベルクは、ケルト人のあとに進駐したローマ人によってワイン作りが始められたと言われる。そこでは今でも石灰混じりのローム土壌から分厚さのあるグランクリュ・リースリングが栽培されている。
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素性があまり知れない蝸

2009-05-13 | アウトドーア・環境
雨上がりのワインの地所を歩いたら、大量のエスカルゴに遭遇した。掻き集めれば直ぐに何人前ものそれが準備出来たであろう。

草を食べて緑色が強いのは良いとしても、バート・デュルクハイムからウングシュタインへの間の三つのグランクリュ地所ミヒャエルスベルク・ヘーレンベルク・ヴァイルベルクは、そのカタツムリの素性が知れるほど十分にエコ農業化が進んでいないであろう。
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雨に流れた朝食ピクニック

2009-05-12 | 生活
就寝前に翌朝を楽しみにしていた。ピクニックの朝食のつもりで、朝食のバターや野菜を切って詰め合わせていたのだ。先ず新鮮なパンを買って、山の中の駐車場の近くで朝食を摂り、一時間程歩いてから出かける予定にしていた。しかし、雨音で目が覚めてその計画はお流れとなった。それでもパンだけは確保した。そして出来たての煮豚や肉のはんぺんを買った。

昨晩は湯船に浸かり。シャワーマッサージをした。一番足に堪えていたのは帰ってきた直後で、一晩寝ると普通に歩けるようになっていた。そして湯船に浸かる沁みるような刺激を受けたが、上手く身体も解してくれたようだ。

通常の筋肉痛は、そこいらに残っているが、先週の岩登りの筋肉痛はそれに隠れて分からなくなっている。またこれで異なる筋力を使うと、また筋肉痛の場所が変わるのだろう。

最も都合の悪いのはそうしたものが蓄積してしまうことなのだから、上手く負担を解放出来ないかと考えている。
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効きが悪かったヴァイツェン

2009-05-10 | アウトドーア・環境
昨日は、初めて会の長距離ヴァンデルング会に参加した。12時間半ほどの行動時間でいくつもの谷を越えて戻ってくると63KMの距離となるというものだ。関西の山登りの輩には六甲山の全縦走として50KMを越える距離を歩くものがあるが、それと比べると最高到達点は300Mほど低いが、上り下りを総計すると登る高度差は大体同じぐらいになるだろうか。

朝四時に起きて、六時には歩き出したが、結果から言うと完遂出来なかった。数少ない五人の参加者の足並みが揃わなかったので、一人が落伍して結局20KM短縮された。それでも、爪を二つ真っ黒にして、水ぶくれにはならなかったが足に膨らみを作ってしまった。アルプス用の靴ではやはり硬すぎてスピードが出なかった。

偶々あと二人の男性参加者は185CMを越える長身であったために、普通に歩いてもやはり早い。すると此方は、歩数を上げるか歩幅を広げるしかない。前者は心拍数が上がり心肺機能に負担が掛かるので、やはり後者のために柔軟に足出しが出来る体や靴の柔らかさが要求される。途中の町に下りるときに果実を取りにやって来ていた70年代にヨセミテ経験のある毎水曜日の仲間に出会ったのだが、私自身の目標には体の柔軟性がなによりも求められるところである。

今回は心拍数を上げることはなかったが、歩き始めの靴の足の収まりが悪かったことや、心拍数が上がらないので逆に意識が朦朧とし出したことなど今までにない経験もした。普段から歩く癖を付けているお蔭で、足の動きが止まるようなことが無くなったのは成果であるが、上のような課題も見えてきた。

今回の催し物も毎月のそれのように新聞で公募されていたのであるが、結局新たな参加者どころか期待していた者も参加しておらず、如何にもこうした挑戦をする者が少ないかと思わせた。秋には合わせて累積高度差2500M距離50KMを走破する会があるのでこれもよい機会と狙っている。

昼食のレヴァー団子にクラウト5ユーロとビールは身体に水のように沁み込んだが、クリスタルヴァイツェンはガスが多いのでやはり身体に溜まった。その後は、暑くアルコールは飲む気がせず炭酸割ジュースとした。最後の残りを勧められた梨入りのチーズケーキにコーヒーも大変美味く、帰ってからもあまりアルコールを飲まなかった。一体健康なのかどうかは分からないか、麻酔効果を求めてアルコールを飲まないようになったということでもありこれはこれで健康的なのだろう。

それでも谷の途中でラインヘッセンとプファルツの境の地域のワインを試飲した。ノイシュタットの職業学校の一期生の娘達が依頼を受けて広報活動をしているのである。その場所柄からつまりその土壌からどのようなワインが出来るかは重々承知していて興味はないのだが、強制剤として無料で口を濡らすのも悪くはない。一口だけヴァイスブルグンダーを試した。香りが大変強く、明らかにある種の醸造方法を使用しているなと思わせた。その冷んやりとした喉越しが良かったが、流石に直ぐに化けの皮が剥がれた。その残糖感でアルコール度も上げた醸造の裏が見えた。因みにこのワインは州の銅賞を獲得していたが、今やワインはそのクラス別けでなく、そもそも商品種別が異なる。そのような商品を現代のドイツワインとして楽しむのは、職業学校の娘の美しさで満足する気持ちと変わらないであろう。そうしたものを、文化というのか美というのかの、美意識の問題なのである。

そう言えば前夜に訪れたアルペン協会支部の月例会で、「一杯しか飲んでないのか?」と何時もの飲兵仲間に言われたのでその真意を訊ねると、「そりゃー63KMは 駄目だ、ビールが足一本分しか効かないから」と言われた。
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パン屋の総合点数評価

2009-05-10 | 料理
朝の散歩の前に買ったブロッツェンである。最近購入できる物の中では最上級域に達している。94点ぐらいはいっている時がありそうで、もう少し観察してみる必要がある。
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初夏の朝の森の散策

2009-05-09 | アウトドーア・環境
初夏の朝の散策の一時。違う店でパンを取りに行くついでに森を散策した。朝八時には約束があるので、それまでに戻って来なければいけない。

逆算すると三十分つまり三キロ近くはじっくり歩ける。流石に一台も人影も全く無い森の中の駐車場に車を停める。谷に下りるのではなく、平坦な林道を奥へと進む。朝の強い陽が差し込む森に、半袖の腕に冷たい気体が満ち溢れ、ゆっくりと漂っている。空腹を覚えながらも朝の清々しい陽射しが嬉しい。

それにしても二十年近くも住んでいながら、これほど身近にこれほど素晴らしい森林歩道があったとは思わなかった。森が深く美しいことは知っていたが、車で通る谷間は光が薄く、湿り気があってあまり気持ちが良くないのだ。

だからこうして山の稜線の上に車を停めて歩き出せる所は気持ちが良い。同じ道を行き帰りするだけなので面白味はないと言っても、それを補いあまりある美しい森の風景である。

松などに並んで、白樺の幹が朝日を跳ね返す光景は、恰も日本の上高地から明神池辺りへの空気感に近い。とても空気が軽く、日の光もそれに近い透明感がある。朝の誰もいないこの時間が楽しめるだけでもおとくである。
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良酒に休肝日など要らない

2009-05-08 | ワイン
火曜日には一滴もアルコールを口にしなかった。特に体調が悪かった訳ではないが、特に欲しくなかったのである。

アルコールを飲まないことで、肝臓が休まって、俗に言う休肝日がとれて体調が良くなったりすっきりとした気分になるかと言えば、そのような事は一切無いのである。

嘗ては、休肝日の明くる日は酒疲れのようなものから醒めて体調がよかったのだが、今や飲んでも飲まなくても全く変わらないのである。何時も冴えているのである。なぜ前は酒疲れがあったのか、その理由は判らないが、少なくとも現在の方が質の良い酒を適量飲んでいる感じはしている。だからあまり休肝日に拘らないようになって来ている。

実際は判らないが兎に角酒が残らないから美味く、美味いから残らないのである。そして、美味い酒を飲むためには厳選した酒を家で飲むから、外で飲むよりも健康で安上がりなのである。
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病が癒えて再び喉に埃が

2009-05-07 | アウトドーア・環境
三週間振りの岩登りを終えた。これでなんとか豚インフルエンザ紛いの病が癒えたと自己認定してよかろう。

思った以上に筋力は衰えていなかった様だが、体重が少しだけ落ちたのか前より身が軽く、その分体力は落ちているような気がした。いつもの通りだが疲れた。とてもではないが、ナイトライフに町へ出かける気力はなかった。

一向に大きな飛躍は望めないが、可也色々な体の動きが出来るようになってきた。それでも苦手意識のあるオーヴァーハング気味の内面登攀は、体の柔軟性にも問題があるのが分かってきた。体の柔軟性は子供の時からあまり無いようなので、昔から苦手なものは苦手なのだ。どうしても凹角の内側に足で立たなければいけないとすると、上半身は荒川イナバイワーのように後ろに反れる方が見通しが利いてやり易い。同じような状況は、傾斜の強い壁にて作業をするときも同じである。ただでさえ猫背気味ではなかなかこれが上手く身につかない。

そのように小さな子供の特に女の子の柔軟性を見ていると、どうしようもなく感じる。十歳程度の少年に何年やっているかと聞かれて35年ほどと答えてもあまりピンと来ないだろう。しかしそれ位の少年になると既に柔軟性に欠けているのは自らがその間経験していたことで証明済みである。しかし、子供のようにこちらは頑張りが利かなくなっているのはここ十年ほどであり、基礎体力を徐々に上げて行くしかこちらは処方が無い。

喉に埃を吸い込んだようで、今度は炎症を起こしたくないのだが、どうなるだろうか。
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アップライトのテークオフ

2009-05-06 | 生活
なにやらコンプレッサーのような音がする。工事かと思った。広場で今更何をするのかと思って、皿を洗いながら窓の外を見ると、全長二十メートル以上もある「くの字」のクレーンの腕が動いている。一気に空中遊泳している黒い箱は古いアップライト型のピアノであった。

垣根を越えて、庭を越えて飛び廻っている。
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自由主義者の戦後社会学

2009-05-05 | 文学・思想
役割理論で有名な社会学者ラルフ・ダーレンドルフについてユルゲン・ハーバーマスが書いている。80歳の誕生日を記念して先日行なわれたオックスフォードのセイント・アンソニーカレッジでの祝賀会に際して投稿している。

社会学上の難しい話であるその解釈や業界事情はいざ知らず、こうしたスター学者の業績を僅か数行にて纏めた部分に目を奪われたので転記する。

「工業社会における社会層と社会紛争(1957)」、「社会的人類(1961)」、「社会と自由(1961)」と今や古典となった論文において、既にその後頑固に追い詰められる独自のこの自由主義者の思想を形作る定理が含まれている。

その一つの目の定理は、ルソーに対抗させてカントとマックス・ヴェーバーを扱いながら、その実はマルクスが標的にされる。 ― 社会的不公平は、一義的に所有の不均衡に因るのでは無く、規範に沿った社会的行動が制裁によって強いられる必要性に因るのである。その制裁は、支配構造の副産物的なものであって如何なるそのような社会においても内包されるものである。

その二つ目は、古典的社会主義に対して向けられていて、市場流通を自由のメカニズムの中心に置く。 ― 国民における法的公平は、機会の均等として最前線にあるべきもので、部分的なものとされるべきではない。つまり、個人の可能性の実現は、紛争状況において、社会的不公平の負荷以上に重要となる。

兎も角もデュルケムが全く忘れ去られること無く ― 我々が大なり小なり合理的に選択する事の出来る多様な可能性において、その社会許容が縮小するとき、その社会連合は破綻する。

こうして話者を疎ましく思わせた論陣であり、その世代の話題へと本筋へと迫って行くのだが、現在総選挙への運動が始まった連邦共和国において再び社会経済や節度が叫ばれるとき、話者は次ぎのように力説している。

ダーレンドルフは、ドイツの問いかけは、国民的で社会的な問いかけであって、自由を愛する民族の自由主義的で民主主義的な問いかけではなかったのだと、ドイツ人を懇々と諭した。そしてまた左派自由主義は、ドイツ国家主義を引き継いだ両面性を持って衰退した。

もちろんここまで読むと、彼のハーバーマスの言わんとしている事から、その成果としての先のワールドカップドイツ大会で示された自信に満ちた連邦共和国民のパトリオティズムを思い浮かべないものはいないだろう。

その根源には満ち溢れる自尊心とそれを齎す教育があり、その一方世界には未だに支配構造における制裁が社会規範を制する社会や社会層が存在して、そのような教育すら存在することの忌々しき意味を考えなければいけない。



参照:
Jahrgang 1929 von Juergen Habermas, FAZ vom 02.05.2009
知性に劣る民を卑下する美徳 2009-04-06 | マスメディア批評
未だ覚醒しない兄弟との確執 2009-04-19 | 歴史・時事
独・ユダヤ・シナ・日本の愛憎 2009-04-14 | 歴史・時事
シネマよりもテアタァーだー 2009-04-26 | マスメディア批評
情報の洪水を汲み尽くす阿呆 2009-04-12 | マスメディア批評
受け継がれるモラール 2008-07-23 | 文学・思想
脱構造の日の丸の紅色 2007-12-12 | マスメディア批評
「南京事件を描いた映画「ジョン・ラーベ」の日本公開を求める署名 」
ジョン・ラーベ  (高樹のぶ子のSIAブログ)
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アスパラガス牛ステーキ

2009-05-04 | 料理
アスパラガスの残りをロースステーキに合わせた。皮を剥いて細切りして、肉汁で炒めて、茹で汁で少し煮て、ミルクを加えただけであるが、かりかりとしてなかなか良かった。次ぎはもう少し上手く出来るだろう。

ワインは、A・クリストマン醸造所の上から三番目、下から二番目のSCと呼ばれるピノノワールである。2007年産の独特のドイツのシュペートブルグンダーには珍しい獣臭さというか独特のバリック風味があるようで、白ワインのニュートラルな味覚に比べて個性が強い。

リースリングとシュペートブルグンダーではヴィンテージによる個性の出方が可也違うのは当然として、2007年産は大変面白いピノノワールの年度であって、2003年のゴージャースな年、2005年のバランスに対して熟成の仕方はどうなるのだろう。現時点では、寝かしてみたいシュペートブルグンダーである。
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イリアスの発想の転換

2009-05-03 | 文学・思想
午前中は熱っぽいだけで、咳が出ないので大分楽であった。咳が出て堪らなかったのは、ガレージを掃除した1995年だろうか?あの時は二月ほど続いて、癖になると言われた。今と同様脳震盪気味になったのだ。1993年産のヘアゴットザッカーの味は覚えている。それを戸外で飲んだ1994年の夏の天候も覚えているが、1995年のそれはあまり覚えていない。今年と似ているのかもしれない。兎に角、花粉だけでなく綿のついた種が飛び廻っている。目の痒みは相変わらず酷くはならないが、天気が良くなるとやはり咳が出て来るようだ。

熱っぽかったので、森の散歩を断念して、バルコニーで本を読むが、どうもこれもあまり身体に良くない。小一時間、久しぶりにラオウル・シュロット著「ホメロスの故郷」を開く。あまりにも内容が多岐に渡っていて、著者の講演会やホメロスの展示会に行けば行くほど興味の対象が広がってきて収拾がつかなかったのだが、やっとここに来てと構え方が分かって来たようである。言語学的な考察や意味論的な捉え方を含めて、現代文明を大気圏外から観察できるような視座に気がついてきた。多極主義の視点は其処にあると合点する。

一寸した発想の転換が必要であり、其処に至る作業は知的で学術的な思考を必要とするが、一度それを会得してしまうと、文明の歴史への視座を自由自在に泳ぎまわれるようになるのだろう。ギリシャやそれ以前の不思議な言葉などに違和感が解消されないながらも漸く本質的なところが見えてきた。繰り返すが発想の転換である。それは特に欧州文化の中でオリエンタルな源流へと遡って行く時にめくるめくようなタイムスリップが用意されているようで、こうした著作作業自体がとても人類の文化活動の粋と思わせる所以である。

現在のトルコ東域が扱われていると、どうしてもあのコメディー映画「メルセデス・モナムー」をどうしても思い出してしまうような貧困な想像力しか持ち合わせていないが、なるほどあの映画「メルセデス、わが愛」のラストシーンの大破するSクラスの痛烈な文明批判を理解するには、なにもPKKと行動を共にする必要はないのである。要するに現代文明への視座を自らの束縛から放つことは、表層的な多文化主義や白痴的な修正主義とは甚だ異なる将来への解決点を用意しているとみるべきである。

啓蒙主義者なら無知は悲劇というかもしれないが、無智はまだまだこれから新たな発想に至る可能性がある幸福に違いないのだ。


追記:パンを買いに行く時に車のラジオが作曲家ヴォルフガング・リームが仕事場でオペラ二ついての語りを毎週の音楽のインタヴュー番組としていた。やはり劇作家ボート・シュトラウスがテーマとなっていた。



参照:
出稼ぎ文化コメディー映画 2008-02-14 | アウトドーア・環境
欠けて補われる存在 2008-09-28 | 文学・思想
多極性文化土壌を求めて 2008-09-23 | 文学・思想
想像力を働かせろ! 2008-07-07 | 文学・思想
序 トロージャンの不思議 2005-03-17 | 数学・自然科学
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