(承前)ベルリンのフィルハーモーからの中継を見た。デジタルコンサートホールの無料クーポンを使っている。ミュンヘンの座付管弦楽団のヨーロッパツアーの一つの山として開かれたものだ。ボンでの演奏会との相違は後半のチャイコフスキーの五番の代わりにシュトラウスの家庭交響曲が演奏されたという事だろう。この演奏会に関しては改めて書こうと思うが、その番組の中で通常は挟まれる指揮者のインタヴューの代わりに管弦楽団の宣伝映像と今回の演奏旅行中の映像と、そしてボンでPVのためにコンサート生中継したドイツェヴェレによるインタヴュー映像が挟まれた。
興味深かったのは中堅ヴァオラ女性奏者へのインタヴューで、この楽団の特徴を述べるところだった。それによると、「多くの古いドイツの楽団のように音出しが遅れることと、その音色が比較すると明らかに暗く、口当たりがよいぐらいだ」という事だ。最近ではポーランド人の指揮者マレク・ヤノフスキーが「そのような特徴は無くても良いこと」と溢していたようだが、彼女に言わせると「気を溜めた感じのように合わせることで音のパワーに繋がる」という事らしい。
前半二曲目のフランク・ペーター・ツィンマーマンをソリストに迎えたバルトークの協奏曲は、ボンでは会場の音響のゆえに鳴りが悪かったのだが、少なくともベルリンのマイクロフォンは上手に捉えていた。アンコールのバッハの無伴奏が示すようにこのヴァイオリニストはユリア・フィッシャーのように充分に新しい世代ではなくて、その音楽は古臭い。それ故にか余計に伴奏をという風に聞こえるのだが、それはそれなりにベルリンでは演奏回数が重なってスリリングな競演となっていた。
今回ボンでの演奏会を経験して、またベルリンでの過去のアーカイヴを繰り返して視聴して、キリル・ペトレンコが演奏会指揮者として示したその特徴は、先ずはそのプログラム構成にあって、あの運動量の多い指揮は頸椎を痛めるだけでなく一回の演奏会においてもメリハリを付けなければ不可能な行為であるという事で、管弦楽団にとっても同様に要求されるという事だろう。シュトラウスはチャイコフスキーほどでは無かったからか、バルトークでの追い込みの激しさはベルリンでは顕著で、あの後に休憩を挟んでチャイコフスキーのスリリングなそれを持ってくるのは難しく、全体のドラマトュルギーと実質的な集中力などのマネージメントが重視されたとなるか。反対に、チャイコフスキーが控えている中では前半の可能性が変わってくるという事であり、これはミュンヘンからの生中継があるのでそれで確認できるだろう。
歴史的な管弦楽演奏会の実践、少なくとも職業指揮者が出現してからのそれではそのようなプログラミングや時間配分などのマネージメントが存在していたのではないかという思いと同時に、そうした現実的な興行的な実践以上に芸術的な関心が沸き起こった。これについては期間の残っているクーポンで他の映像などを見乍ら更に考察しよう。
ボンでのコンサートで指揮者が登場するなり、隣の孫娘と一緒の婆さんが呟いた「ちっちゃ」、そして休憩後にチャイコフスキーの第一楽章が終わって「興味深い」と呟いた。私はこれらの素朴な反応を聞き逃さなかった。こうした反応の積み重なりが一同のスタンディングオヴェ―ションに繋がるのだ ― 勿論ベートーヴェンハレの平土間は椅子を並べているだけで、舞台にも起伏はないから前で立たれるとほかにどうしようもないのだが。(続く)
参照:
楽譜から響く管弦楽サウンド 2015-06-24 | 文化一般
寂しき春の想いなど 2016-04-06 | 雑感
興味深かったのは中堅ヴァオラ女性奏者へのインタヴューで、この楽団の特徴を述べるところだった。それによると、「多くの古いドイツの楽団のように音出しが遅れることと、その音色が比較すると明らかに暗く、口当たりがよいぐらいだ」という事だ。最近ではポーランド人の指揮者マレク・ヤノフスキーが「そのような特徴は無くても良いこと」と溢していたようだが、彼女に言わせると「気を溜めた感じのように合わせることで音のパワーに繋がる」という事らしい。
前半二曲目のフランク・ペーター・ツィンマーマンをソリストに迎えたバルトークの協奏曲は、ボンでは会場の音響のゆえに鳴りが悪かったのだが、少なくともベルリンのマイクロフォンは上手に捉えていた。アンコールのバッハの無伴奏が示すようにこのヴァイオリニストはユリア・フィッシャーのように充分に新しい世代ではなくて、その音楽は古臭い。それ故にか余計に伴奏をという風に聞こえるのだが、それはそれなりにベルリンでは演奏回数が重なってスリリングな競演となっていた。
今回ボンでの演奏会を経験して、またベルリンでの過去のアーカイヴを繰り返して視聴して、キリル・ペトレンコが演奏会指揮者として示したその特徴は、先ずはそのプログラム構成にあって、あの運動量の多い指揮は頸椎を痛めるだけでなく一回の演奏会においてもメリハリを付けなければ不可能な行為であるという事で、管弦楽団にとっても同様に要求されるという事だろう。シュトラウスはチャイコフスキーほどでは無かったからか、バルトークでの追い込みの激しさはベルリンでは顕著で、あの後に休憩を挟んでチャイコフスキーのスリリングなそれを持ってくるのは難しく、全体のドラマトュルギーと実質的な集中力などのマネージメントが重視されたとなるか。反対に、チャイコフスキーが控えている中では前半の可能性が変わってくるという事であり、これはミュンヘンからの生中継があるのでそれで確認できるだろう。
歴史的な管弦楽演奏会の実践、少なくとも職業指揮者が出現してからのそれではそのようなプログラミングや時間配分などのマネージメントが存在していたのではないかという思いと同時に、そうした現実的な興行的な実践以上に芸術的な関心が沸き起こった。これについては期間の残っているクーポンで他の映像などを見乍ら更に考察しよう。
ボンでのコンサートで指揮者が登場するなり、隣の孫娘と一緒の婆さんが呟いた「ちっちゃ」、そして休憩後にチャイコフスキーの第一楽章が終わって「興味深い」と呟いた。私はこれらの素朴な反応を聞き逃さなかった。こうした反応の積み重なりが一同のスタンディングオヴェ―ションに繋がるのだ ― 勿論ベートーヴェンハレの平土間は椅子を並べているだけで、舞台にも起伏はないから前で立たれるとほかにどうしようもないのだが。(続く)
参照:
楽譜から響く管弦楽サウンド 2015-06-24 | 文化一般
寂しき春の想いなど 2016-04-06 | 雑感