Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

運動可能になった週明け

2022-11-16 | 試飲百景
火曜日から右足の親指が調子悪かった。第二関節が捻挫したようになった。それから親指の付け根まで炎症で腫れた。二月の足の裏とは異なり、指だったのでその前の週にテューシューズの様なクライミングシューズを履いて足を酷使したからだと思った。その意味では複雑骨折というような危惧はなかった。しかし痛風が一番嫌なので気になったがその様な痛さではない。但し靴は前回と異なり履けたのだが、正常な歩行が出来なくなっていた。幸運にも週末から徐々に腫れが収まりだして、日曜日のワイン試飲会も足元は不自由なものの普通に参加可能だった。

月曜日にはマンハイムの会計士の事務所に出かけ、よりよくなったので走りに出かけた。通常の歩行は不自由でも健康の為に、先週の距離は先ず置いておいて、準備運動から歩みを進めた。坂を上るのが苦しかった。片足仕掛けれず、右足も外側で支えるだけだ。それでも何とか上り、今迄の最低ではなかった。但し下りはスピードを出せずに殆どワーストだったと思う。一週間ぶりによくやった。心拍数も苦しさの割には166までしか上がっておらず、今後の参考になるだろう。翌日になって足がどうなっているかである。なんとなく左足と異なり早く治る様に思う。

ワイン試飲会は、少なめの参加者であったが、グーツ―スリング、オルツリースリング、エルステゲヴェックス、グロセースゲヴェックスとVDPの方針に従って整理されたことから、選択は楽だった。

以前はグローセスゲヴェックス即ちグランクリュ「イムブロイメル」と称する地所「ブルガーガルテン」の中の塀に囲まれた一角からのリースリング、それに続いてそのエルステゲヴェックスが一つに絞られて、その下が整理されたオルツリースリング即ちヴィラージュ「ハールト」となっている。ここが以前は本当に町ごとになっていたが収穫量や土壌の性格からして整理した方が品質をあげられて、売り易いに違いない。

今回はオーナーにこの件に関して訊く時間はなかったが、その下のグーツリースリングの品質も含めて成功しているのではなかろうか。こうした昨年のワインではなく今年の収穫に関してケラーマイスターに尋ねたところ、日焼けなどで結構苦労したということで、振り返ってなるほどなと思う。どうしても纏めて量を出すとなると、悪い葡萄を如何に捨てて行けるか、樽を上手く合わせて行けるかであるから、こうした中規模の醸造所ではグーツリースリングをいいワインにするのが一番難しいと思う。そして、そのリースリングこそが地元のノイシュタットのレストラン等では最も地元のいいワインとして提供されるのだから、儲け頭でもあるのだ。一般蔵元価格0.75リットル10,60ユーロという事は七掛けとして7ユーロ、レストランでグラス一杯7ユーロで出せれば儲けが出る。

来月初めのオペラの新制作「魔女」のお勉強準備を始める。先ずは総譜もあったので落としておく。686頁程しかないので、それほど苦労はしないと思うが、一度も耳にした事がない曲なので、下調べから音源探し迄全く始めての事にぶつかるかもしれない。主役のアスミク・グリゴーリアンは週末まで東京なので、戻ってきたら管弦楽練習などをを通して、総稽古へと仕上げとなってくる。



参照:
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般
スキー宿をキャンセル 2018-01-09 | 雑感
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暗黒の歴史を払拭へ

2022-11-15 | マスメディア批評
大成功のベルリナーフィルハーモニカー米国ツアーからボストンでの一夜の演奏会評が出た。カーネーギーホールの二夜目に続くコルンゴールトの嬰へ交響曲をフィナーレとする裏プログラムの公演である。

先ず何よりも第二曲目のモーツァルトの協奏曲が終わった時点でスタンディングオヴェーションが起こったというのだ。珍しいことで、更にソロストのベネディクスバルグレーがイ―デッシュのクレズマー音楽をアンコールで弾いたことも珍しいと書いている。

このアンコールの意味を祝祷としたのはニューヨークタイムズで、ナチ時代の帝国管弦楽団とされたフィルハーモニカーの黒歴史を払拭すべく、こうして初めてのユダヤ人指揮者が率いて、コルンゴールトと同じように1930年代に父親がナチから逃れたコンサートマスターがソロを演奏して、ユダヤ人作曲家二人の曲を演奏した意味を伝える。

このコルンゴールトに関してはオーストリアとアメリカの音楽が、そして一曲目にはアメリカ人作曲家の曲が組み合わされて、またも一つの座標軸が開かれている。しかし、マーラーの交響曲への視座こそが、ユダヤ人ホロコーストを受けたそのアイデンディティーからバーンスタインによるルネッサンスの影響を如何に払拭するかがペトレンコの使命でもあったろう。

カラヤン時代にはナチとして米国では抗議運動が起こっていたのだが、こうして水曜日には今度はそのフルトヴェングラーの就任がトーマス・マンらの反対運動で為されなかったシカゴで今度は第七交響曲の演奏で為される。

ボストンではコルンゴールトの曲がメインで演奏されるとして懐疑もあったようなのだが、結果的には最後の音が終わるや否やのスタンディングオヴェーションとなったようで、張り詰めた期待に膨らむ会場の雰囲気で始まった演奏会が終わったとされる。その長く強い拍手が常連さんの大きな期待を満たすばかりか、新たな地平線へと導き、深く内省させた催し物だったとしている。

無二のベルリナーフィルハーモニカーのその力強い試みで、それは大きな音での総奏であっても、その聴者への効果があまりにも巨大である時もとしていて、それは平素聴き慣れている少なくとも大きな音だけは出せる指揮者の地元の交響楽団とは比較にならないことを案に告白している。コロナ禍で聴き逃したが、もし比較対象となるならばニュヨークフィルハーモニックしかない筈で、歴史的にはショルティ―指揮のシカゴ交響楽団しか存在しない筈である。ここに書かれているように、しかしである、その個々のアンサムブルの在り方が新たな地平線なのであった。同行者が驚いていたようなスパースターやデジタルコンサートホールでお馴染みの面々が吹いていたことが肝心なのではないのだ。有名無名問わずにどの様にアンサムブルしているかの問題である。

勿論の事、より複雑なマーラーの交響曲七番にて、シカゴでそして近隣のミシガンにてそれがどのように批評されるか。週後半のお楽しみとなる。



参照:
Berliners and Petrenko Exceed Lofty Expectations, Joel Cohen, Boston Musical Intelligencer on Nov.14, 2022
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
そこから学べる音楽会 2022-11-11 | 文化一般
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ニューヨークタイムズの耳

2022-11-14 | マスメディア批評
カーネーギーホールでの三日間に批評がニューヨークタイムズに載っているようだ。プリントで14日付けらしい。一番興味深い記載は、初日よりも三晩目の方が大分よくなっているということである。

先ず初日のマーラーの七番について、六年前の前任者ラトル指揮が最後のアメリカ公演でのプログラムとしていたことから、それとの比較となる。そのラトル指揮は表現意欲満々で屡これ見よがしにまたは発し発しであったが、ペトレンコ指揮となると小柄ににこにことして反意欲のようで、透明さやバランスを整えることに重きが置かれていて、まるで小さな自由な非強制を求めて、まるで指揮台では自分自身の表現を敢えて犯すよりもやり易くするような指揮だったとなる。

ここまで読めばこの筆者ウールフという2015年から編集者で今年から評論となった人の見識が大体分かる。その音楽や演奏に関してのそれは可也限られている。しかし、その様な聴衆でも何を感じたかが我々の興味のありどころなのである。

その木曜日、特にその終楽章の運動性が、重量感である以上に構造の網目の表面の対比によって性格付けされているという事実が明らかになって、一楽章では潤滑油でのスムースさが特筆されて、スポーツカーがそのエピソード間の避けがたく、論理的な大きな差異にギア―チェンジしていたと書いている。

ここまで読めばこの筆者が音楽の藤四郎の、その綴り方自体が下手な編集者だと分かるのだが、それでもこの人の脳を通すとそうなる。

それでペトレンコは透明性を上げ乍ら、屡弦やブラスが被る管の内声を取り上げたりすると、二楽章で琥珀色の管の断片を点滅させて、オーボエとヴィオラの音を磨き、夜のそれを描くべく、ホルンのソフトな呼びかけは月光を呼び込むにはまだ強過ぎるとしている。

この記者がどこで何を耳にしているかはここ迄でよく分かる。

チェロもスケルツォで絹のようにしなやかで、ヴィオラも管の咆哮にフェードオフしていく、四楽章はまさに音色のスタディーであって、フィナーレはオズの魔法使いみたいだと書いている。

多かれ少なかれ、バイエルンの劇場楽団での評判の録音と同じだとしながらも、それよりも良かった木曜日の演奏会。しかしその旨味を失わないで演奏された土曜日に行ってとてもよかったと語る。その演奏は荒くはなっていなかったのだが、その作品の荒々しい、その特殊性は余計に強化されて、絹の柔らかさは其の儘にブラスの明るさもその儘、より激しく、密度を得た。交響曲全部を通してのまた各楽章でのその音楽的な効果がパワーとなって集約されたと書いている。

漸く、全体の流れがこの人にも呑み込めるようにななって来たようだが、細部に関してはまだまだ聞こえていないに違いない。



参照:
The Berlin Philharmonic Gives a Master Class at Carnegie, TheNewYorkTimes on Nov. 14, 2022
耳を掃除してチェック 2022-11-13 | 暦
カーネギーホールライヴ 2022-11-10 | 文化一般
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耳を掃除してチェック

2022-11-13 | 
本日は慰霊の日である。11月にある2日の万霊祭から水晶の夜とかの並びで暗い月の付き物だ。それゆえか知らないがまた街ではどんちゃん騒ぎをやっていた。祭りほどではないので問題はないのだが土曜の朝から地階ではバザーみたいなことをやっていて騒がしかった。足の故障で閉じ籠っていたので夕方になって始めて気が付いた。よそ者がどんどん入ってくるのでこちらは足を引きずり不機嫌な表情になる。嫌がらせに不自然な大咳を繰り返しておいた。でも以前と異なりコロナを怖がる者はそんなところには来ない。

序にニューヨークからの放送録音をチェックがてらに大音量で一部繰り返しで鳴らしてやった。また可笑しな評判が立つかもしれないが、それは仕方がない。こちらもドサクサに紛れて用を足せれば満足だ。

なによりも生中継放送の瑕疵を確認した。四楽章のマンドリンのところでの音飛びは明らかで、もう一つフィナーレの二回目のエピソードのところかでもう一度あった。生中継で気が付いたものばかりで、その他はやはり二回程舞台上での近接マイクが拾った雑音と一度は譜捲りの様な雑音、更に咳が一度ほどで修正するにしてもミニマムであった。演奏上の傷はリハーサルの音を録ってあれば修正できるのかもしれない。話題のセレナードのマンドリンの二拍目に入る鳥の鳴き声の正体は分からない。楽譜を見ても鳥笛が入る余裕はない。逆にコーダに掛けてのカウベルの音の鳴らし方が精妙に録れていて、あれは客席では音色としてしか聞こえなかったと思う。

ダイナミックスはやはり巨大でこうしたネット中継の圧縮したものでは到底適わない。120db以上は必要だと思われる。ハイレゾ音源しか無理であろう。また高音弦などに乗るサラサラのノイズ感も圧縮していなければ空気感若しくはマイクの特性として聞き取れる筈だ。この生中継サイトでは通常もオンデマンドで提供されるので、視聴者のコメントに「この演奏は二回三回と聞かないと駄目だからアーカイヴ化希望」とあったが、質が問われる。やはりこうしたエポックメーキングな録音なのでハイレゾでどこかでアーカイヴしてもらいたい。

こうしたチェックはヘッドフォーンでしか不可能であって、どんな遮音スタディオでスピーカーで鳴らしても、そうした耳による判断はそれ以外に方法はない。大音量で鳴らせば鳴らす程スピーカーの方も細かな音には対応できなくなり、ヘッドフォーンにそれも安物のイヤフォン程度の振動体の敏感さには到底及ばないのである。

プライヴェートでは全く殆どヘッドフォーンは使わないのだが、そうしたチェックとなると選択の余地が無い。つまり、このハイレゾ録音再生の時代になって、プロフェッショナルなそうしたスタディオモニターと全く同じ音を自宅で再生するのは万人にとって可能となっている。デジタルアナログ変換も変わりなく、精々使用ヘッドフォーンに準じたアムプの性能にしか差は出ない。それでも万人に手が出る価格で十分であり、それ以上には耳を掃除した方がいいぐらいである。

昭和時代に五味幸助というオーディオマニアがいて一軒の家屋以上の投資をその作家活動などの収益からしていた人がいたが、その実は最終的には自身のナショナルかどこかの汎用の補聴器を通して聞いていたという笑い話がある。



参照:
カーネギーホールライヴ 2022-11-10 | 文化一般
携帯型DACの実力は? 2022-09-30 | 音
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来夏のツアーの予定

2022-11-12 | 
来年の夏以降の日程が出つつある。先ずはべルリナ―フィルハーモニカ―の夏のツアーのプログラムが分かった。初日は、レーガーのモーツァルトの主題による変奏曲とリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」、ツアーの裏プログラムはベルリンの一月定期で演奏され復活祭でも予定されてたシェーンベルク作曲「管弦楽の為の変奏曲」の前にブラームスのハイドン変奏曲、後半にベートーヴェンの八番である。

これのどちらかは11月の東京公演でも演奏される筈だ。どちらともいえない。なぜならば初日の「英雄の生涯」も既に復活祭で二回演奏されている。つまり初日は三回目の演奏で久しぶりにベルリンの聴衆もいい演奏が聴ける筈だ。しかしその後三回ぐらい演奏して全部で五回ほどの演奏になる。後者の方は、定期で三日演奏して、ツアーで三回とすると計六回程になる。どちらの方が数を重ねれば価値が出るかと言えば後者だろう。極東に持って行くと知れば全部で二桁ほどになるかもしれない。

これも今行われている米国ツアーと同じように聴衆を驚愕させる演奏となるだろう。それに比較すれば前者はカラヤンが得意とした曲であって今更カラヤン超えをアピールする必要などは毛頭ない。復活祭で聴けば既に超えている筈だ。「影の無い女」公演への練習曲のようなものだろう。

夏の音楽祭にはボストン交響楽団が来るようなのでこれは指揮者がネルソンズなので全く関心がない。アメリカからは夏のメトと秋のフィリーで十分である。更にピアノはトリフォノフが各地で弾きまくる。しかしこれも近場でリサイタルがありそうなので状況を見てみようと思う。秋には二日もフィリーとの協奏曲を買ったので合わせ物はそれほど必要ない。

その他ヴィーナーフィルハーモニカーなどのツアー予定も一部分かったが、相変わらず冴えない。それ以外では高齢者などが未だに予定表の中に名前を連ねているので、変更が当然の事ながら予定されている。以前のようにMeTooで降りてしまってヴェテランがそこに入るよりも急に興味深くなって出かけるという変更もあまりなさそうだ。

月曜日にフランクフルトから戻って来てから、右足の親指が捻挫したようになって、それが腫れて来て未だに走れない。前回は2月頃に左足をやったのだが、その時は場所が指よりも深かったので痛風を心配した。今度は反対側の足でより捻挫に近い感じだった。しかし腫れてくると付け根から奥に来た。もう一度痛風の可能性を疑ってネット検索してみるが、一般に言われるように風が吹いても痛いではない。浸からを入れられなくて痛いだけだ。前回は圧縮骨折の様なものを疑ったが、今回は捻挫系である。

怪我ならばそれ程は心配しないのだが、痛風とかなんかで食事制限がなによりも痛い。しかしビールは控えて出来るだけワインにしたいという気持ちはある。日曜日は試飲会である。ミッテルハールトのその醸造所にはコロナ前の2018年11月に出かけている。数年経っているので若干醸造などの条件が変わっているだろう。先ずは試してみないと現状は分からない。その意味で久しぶりなのは楽しみだ。



参照:
核レパートリーに組込み 2022-11-05 | 音
秋から来年を計画する 2022-06-19 | 生活
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そこから学べる音楽会

2022-11-11 | 文化一般
承前)夜中にニューヨークからのライヴを聴いた。流石にヘッドフォーンで聴いた。未明二時から四時頃に掛けては最も眠い時間帯である。数時間前にベットに入ったが寒かったので泡風呂に入ることにした。右足の親指の関節がフランクフルトから帰って来てから調子悪く、走るどころか歩行さえ不自由になっていた。だから風呂は良かった。これも夜更けなので水を流さずに静かに入っておいた。

放送が始まる半時程前からタイマー駆動にしてあった録音などを手動に切り替えて、サブのシステムも準備していたらギリギリになった。それでも問題なく聴視録音可能となった。先だ録音は全て確認していないが、悪くないと思う。

さて演奏の方は既に真夜中に批評を出していて、それを読む。アメリカの人のようで、現地の人の様に体験できていないのだがと、ペトレンコの音楽には多大なる関心を持っていて、様々なものを聴いているらしい。だから一般的に評価されるその指揮も外面的な効果を狙うものでなくて、抑制されてと書いている。そしてベルリナーフィルハーモニカーの演奏する一楽章から二楽章への大編成はそれだけでなくてソロが集まって受け渡しが魔法のようだと驚愕している。

これはここでもシカゴ交響楽団との比較で言及した点で、今回のツアーの一つの評価の焦点だった。しかしこれまたここでも言及していたフィナーレのロンド形式の音楽の在り方は批判の対象となった。つまり、ペトレンコの音楽と知られるオペラ指揮においても情感的にならない面があって、フィナーレが盛り上がらなかったという事である。そして想定通りにバーンスタイン指揮のマーラーではそうならずそれが好きだとまで述べる ― ライヴ放送サイトにはバーンスタイン指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの方が弦主体でいいとかコメントする人も現れた。

実はアルテオパーのフィードバックに感想を書いた。無記名だったので支配人であり元ベルリナーフィルハーモニカ―の芸術顧問からアドレスに個人的なメールを貰った。私が往年のショルティ指揮シカゴ交響楽団を顧みて、フィルハーモニカーは最頂点の管弦楽団だと書いて、ツアーの成功を確信しているとしたのだった。それに対して、ペトレンコや楽員と打ち上げの席で同様の感想が出たとあった。そして、カーネギーホールのサイトのリンクを張り付けていた。そこにあるヴィデオは、ペトレンコ就任の時に今後の楽団を語るものだった。

そして、そこで今回マンドリンを弾いたアメリカ人のヴィオラ奏者が語っていたことに耳が止まった。そこで大事なことを語っていた。お客さんが一斉に立ち上がってスタンディングオヴェーションをするような指揮者や音楽ではなくて、徐々に拍手が盛り上がってくるような指揮であって、家路に語られ持続的にその意味に立ち戻るような学ぶ音楽をするのがペトレンコだというのである。まさしく今回のマーラーの交響曲にも当てはまり、そして翌日のコルンゴールトで終えるプログラムを考えるときに、何かの回答があるのに違いない。

上の支配人が意味したのもアルテオパーの聴衆に対する感謝もそこにあるということで、なるほど講義はあまり良くはなかったのだが、決して悪い聴衆ではないのは間違いない。
Kirill Petrenko & Berliner Philharmoniker: Dawn of a new era




参照:
一人称、二人称、複数! 2022-11-09 | 文学・思想
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
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カーネギーホールライヴ

2022-11-10 | 文化一般
ニューヨークとの時差は6時間のようだ。木曜日の20時にカーネーギーホールで初日を迎えるベルリナーフィルハーモニカー新シェフお披露目米国公演。九回かの本番で生中継があるのもこの晩のみとなっている。もう一度どこかで録って欲しいものである。

つまりこちらでは26時始まりとなる。一番眠くなる時刻だ。起きていても朝四時までが一番厳しい。やはりタイマー録音を設置してから一眠りしておく方が起きれるかもしれない。兎に角どうしても聴いておきたいのは、そこからの反響をはかるためで、一水向こうの評価はとても大切なのだ。本当は東京公演の方が早く予定されたのだが、それも流れて、米国公演も一度流れた。その時は「英雄の生涯」などがプログラムに入っていた。

今回は表のプログラムはマーラー交響曲七番のみで、裏のプログラムが新しい曲とモーツァルトのヴァイオリン協奏曲、そしてコルンゴールトの嬰へ長調の交響曲となっている。それはそれでコンセプト的に面白いと思うが、一日置いて二回カーネギーで演奏するこれは特別だ。

ベルリナーフィルハーモニカーのサイトに行くと今迄の米国ツアーに関しての記述がまとまっているのだが、その中に前回の2016年のサイモン・ラトル体制でのプログラムも紹介されていた。全く気が付かなかったのだがそれもマーラーの七番だった。そして前半にブーレーズの「エクラ」を入れていた。それで何となく記憶があったのだが、またもやペトレンコが前任者のそれを上塗りしてしまう。

それでも前任者のラトルは今でもとても後任者にキリル、キリルと感謝している。引き渡しのミュンヘンでの会談の時に腹を割って全てが話されたと思っていたのだが、ここまでとはと改めて思う。そこまでその当時に話して、その直後にもラトルに「人間的にワンダフルな人だ」と言わせるのはどうなのだろうと思う。

さて聴きどころは、先ずはフランクフルトでおやじが出て行ったり、お喋りシーの静止で邪魔された導入部から最初の主題がひとしきり終わるまでの和声の出し方である。十分にシャープさもあったのだが、もう少し整理され焦点が定まることで受け取る印象が変わると思う。それ以降は文句はなかったのだが、アゴーギクでのペトレンコの十八番のその運びの巧さが更によくなると思う。一楽章中盤から中間三楽章は全くいうことがなかった。あとはフィナーレロンドの運びがどうなるのか。実はもう一度楽譜を予習で研究しておかないと、よく分からない。マイスタージンガーのロンドとその間の繋ぎの入り方だと思うのだが、調べてみたい。

会場の音響に関してはペトレンコ自身もミュンヘンの座付き楽団と何晩か演奏しているので、恐らくサウンドチェック以上の練習もあってきっちりと合わせてくるに違いない。またいつもの放送の舞台脇では誰が喋るのかも興味がある。支配人のツェッチマン以外に誰が出てくるか。今回はマンドリンの米国人かもしれない。(続く

中継のネット放送:カーネギ―ホールライヴ



参照:
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
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一人称、二人称、複数!

2022-11-09 | 文学・思想
承前)マーラ―作曲交響曲七番はあまり理解されていない。なぜならば、技術的にもその内容的にも最も理解するのに困難な交響曲だからである。もちろんのこと幾多の解説がなされているが、釈然としない。それは演奏会前の小講演でもその事実が証明されるだけとなっている。ルツェルンでのそれをフランクフルトでの一時間半に亘る音楽学者のそれでも補強された。

講演者はシノポリの本などを書いている人なのだが、フランクフルトの音楽学者である。だから美学的な文献には目を通している筈なのだが、自身の仮説を紹介するに止まった。つまりそれ以上の学術的成果は未だにないという事だろう。要するに難しい。

哲学的な概念として、この創作にはショウペンハウワーがあり、それは八回現れるフィナーレ楽章のマイスタージンガーのファンファーレのヴァ―クナー繋がりでも証明されるというのである。勿論その本歌が過去のバッハなどへと通じるというのは当然となる。しかしなによりもその舞台となるヨハネスタークの雰囲気つまり夏至のそれがこのフィナーレの内容となる。恐らくそれは19世紀後半の自然観でもあって、更にそこから連なるものだ。

そこでも重要になる動きが、三楽章のヴィーナーヴァルツァーなどに表れるというものだ。一楽章の冒頭で欲しかったのはその動きの根源的な動きとしてのオールの回旋だった。そして、三楽章のトリオを取り巻く情景としてゴヤの描く1797年の「魔女の飛行」を挙げていた。しかしそれ自体への関係付けは為されなかった。

二楽章のレムブラントの「守衛」との関連に於いては、嘗ての修復される前の真っ暗の絵を思い浮かべるべきだというのは当然なのだが、それ以上ではない。しかし、ホルンの呼びかけに対してIch,Duそしてそれを受けるのがWirつまり一人称、二人称、一人称複数としたのは説明の仕方として結構優れていると思った。

繰り返すが、「スペードの女王」での手紙を読むヘルマン、寝付かれぬヘルマン、聖歌から教会を思い描くとその繋がりがあり、最初の兵隊ラッパから風の気配へと心理背景の説明ともなっている。

抑々講演者が指示す楽譜例とその書き込み、更に音楽辞典に載っている様な四度の下降とかそうした基本的な音楽分析とこうした印象の説明との接点が説明されていないからである。要するに全く音楽的でない音楽学者で、更に美学的な解説にも哲学的な解説にもなっていなかった。但しアカデミックなサーチ情報をこちらからも一望できたのがよかった。

もう一つ重要な視点は、改宗したマーラーにおけるカトリズムからの恐らくニッチェに繋がる、特にここでは「ツァラストラはかく語りき」に繋がると思われるが、その近代性でありながら、同時に「黒いロマン」をキーワードに使ったのは混乱を招くのではなかろうか。まさしくそれは「スペードの女王」そのものであったのだ。

こうした文学的な把握で以て、この交響曲の全体像が把握できるかどうかが問題である。三度と三全音に依って減七でその不協和が語られていても、その構想が説明無しには語るには及ばない。それを納得させるだけの演奏がなされていなかったという歴史的な背景も影響しているのである。(続く



参照:
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
漸く見えて来た闇の陰陽 2022-11-07 | 音
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歴史的な瞬間にいること

2022-11-08 | 
フランクフルト行は大変な成果だった。なによりもコンサート経験の中で最も優秀な管弦楽団を聴けた。夏のツアーのベルリナーフィルハーモニカーから大きく前進していた。敢えて完成とは言わない。先ずはカーネーギーホールからの世界に向けた生中継の準備は万端だ。それを確認しただけで毎年開かれる壮行会演奏会の中でも取り分け価値があった。

音楽的に詳しくは改めてとなるのだが、指揮者キリル・ペトレンコがネット会見で語った言葉が現実化していた。ルツェルンよりもそのアンサムブルの在り方が洗練されていて、取り分けマーラー交響曲第一楽章ではもはやその機能性としてあの歴史的な衝撃を与えたショルティ―指揮シカゴ交響楽団演奏会のマーラー交響曲五番としか比較のしようがなかった。一楽章が終わってベルリンからの生中継の様に子供でなくて一斉に拍手喝さいが来るかと思うほど心臓が早鳴りした。

あの時の前半にモーツァルトの交響曲が大編成で演奏されて、そしてマーラーの演奏の衝撃は一生忘れないほどの強烈なものだった。その当時、カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカーやムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハーモニカーなどの演奏会が引き続いていたのだが、比較しようのない機能的な大管弦楽の音だった。

当時は日本でも交響曲五番よりも一番「巨人」がより演奏されていて、九番などよりも人気がなかったのが中期の三曲の器楽のみ交響曲とされるものだった。しかし、当時の衝撃はその曲故にではなかった。勿論真面に演奏するのが難しかったので演奏されなかったところに完璧な演奏がなされて、尚且つ不快な音響が鳴り渡り、耳を塞ぐしかなかったのである。ミドルティーンに不快な音響と思わせるその針金のように刺さる高弦と乾き切った低弦、そこに透明感を以て各声部が出入りする。しかしそれが所謂アメリカン配置とされる上手からチェロがそしてヴィオラ、第二、第一ヴァイオリンと扇上に広がる配置で合わされていくのだった。そしてその背後には強力なこれまた乾いたブラス陣が居座った。

今回のベルリナーフィルハーモニカーの成果は、そうした大音響だけの価値などではなくてアンサムブルの有機的な絡み合いがまさしくこの交響曲の真価を示していた。こうした方向に進むことは実は昨年のスーク曲の演奏で明らかになっていて、実は夏のツアーではまだそこ迄の練習が出来ていなかったことを証明している。その難しさは格別であったので、今週木曜日の「本番」には更なる真価を聴かせてくれることを確信している。

その意味からは、絶頂期にあったアムステルダムのコンセルトヘボー管弦楽団の様な弦の繋がりが、木管から金管に広がって更に打楽器へとアンサムブルを為していることが手に取る様に聞こえた。

所謂独伝統的配置とされる第一、第二ヴァイオリンが手前に対抗して位置して上手からヴィオラ、チェロそして背後のコントラバスとなる配置のアンサムブルの複雑さが全て解決されている形となっていた。今迄の大管弦楽団演奏会での経験からして最早脅威であって、昨年のスーク作品のそれを越えていた。

それを確認する為だけにも大枚を叩いたのだが、こういうエポックメーキングな時にカーネーギーホールまで飛ばなくても160ユーロぐらいでそこにいれるというのは幸運以外の何ものでもない!



参照:
オール回旋からの主題 2022-11-06 | 音
新管弦楽音響への道程 2022-08-30 | 音
人生における省察の日 2021-09-09 | 音
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漸く見えて来た闇の陰陽

2022-11-07 | 
やっぱり面白い、交響曲七番。漸く懸念のスケルツォへと戻る。マーラーが導入から一楽章を書き上げ三楽章スケルツォへと、その創作思考過程が分かればしめたものだ。勿論すぐに証拠を出せるような分析が出来る筈がない。精々もう一度細かな構造を自ら探るぐらいしかない。

これは先日のエンゲルのインタヴューで以外に参考になった。なぜならば名指揮者ズビン・メーターが先生のスヴァロフスキー教授に習った様に、先ずは厳密な「腑分け」するの真っ先かと思っていたので ― 実際にロスでそのようにチェックしている若いメータのヴィデオが残っている ―、それならばと感じたのだった。勿論楽譜にある音をなんでもいいからキーボードで叩けば確認できるという指揮者修行をしている訳でもなく、生憎指が十本しかない平凡な人間には無理だ。

そこで登場するのが裏の手、これは録音監督をしていた人に習ったのだが、その人は元々ピアノの人なので、総譜を見ても自動的にピアノ譜に変換してしまうようだ。それで音が足りている、間違っているかをチェックする。これはとても役に立つ。

それに習って楽譜を見るとなるとどうしても頭を左に傾けて、右手を上に左手を下にの形にして、音楽を読むことになる。それで何が変わるかというと、日本などではよく書かれているようだが縦の線、横の線というような如何にも少なくとも基軸が交差するので分析的に聞こえる音楽の読み方とは違ってくる。

第七交響曲の総譜を見ていてやはり音符が多いと思った。五番も六番も多いのだが、そのシステムの段数があっても同じ音や和音を重ねて散らしているだけならばそれ程多いとは思わない。それこそ直ぐにピアノ譜化して仕舞えるように感じるからだ。でもこの曲は違うところが多い。なによりも楽器間での主題の受け渡しが普通に頻繁に行われていて、更に重ねられると音色が発生するので、勢いグラデーション化する。迂闊だったのは二つ目の夜の歌のセレナードであったり、楽器の受け渡しがシェーンベルクなどの所謂音色旋律とされるそれとは別に重ねられていて、耳で聴きとって認知するにはあまりに複雑すぎるのだ。

そもそもこの交響曲の中心に夜の影があって、実際に短調のトリオが位置して、そこに至るまで闇が最初にあり、光が生じている。それが作曲の過程となっている。様々な文献があって、様々な解説があり、そして様々な演奏記録がある。

試しに幾つかの名録音を摘まみ食いしてみた。ショルティ指揮シカゴ交響楽団の最も機能的に高度な管弦楽団を強い支配の指揮が導いているのだが、何よりも簡略化が起きていて、各声部が強調される傾向があって、それは何よりもアメリカン配置の楽器配置でのバランスの融通が無く、最大問題は拍の差異の扱い方だ。指揮が最も精密な筈のブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏は流石に各声部が浮き上がるのだが、やはり端折りが多く声部が絡む所も無駄にされている。シカゴ交響楽団を振るアバド指揮では構成のテムピ設定やダイナミックスなどが適当に処理されていて、欧州的な主題の扱い方はいいのだが、なによりも長短の和声感が不協和的に塗りつぶされていて、やはりアンサムブルの組み方の準備があまり出来ていない印象を受ける。もうこれは今回センセーショナルな結果しか残されていない。



参照:
オール回旋からの主題 2022-11-06 | 音
核レパートリーに組込み 2022-11-05 | 音
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オール回旋からの主題

2022-11-06 | 
承前)第七交響曲の作曲過程は興味深い。先ずフィナーレが先行して創作されて、中間の夜の音楽を書き、最後の第一楽章となっている。ルツェルン音楽祭でもこの冒頭楽章は最も聴き甲斐があった。実際に作曲家は七転八倒していたのが伝えられている。最も知られるエピソードは導入部となっていて、1910年に手紙に本人がアルマ・マーラ―に書いている言葉が有名だ。

「ドロミテへといつものことを繰り返すまで、この夏も無駄になったと諦めて帰宅しようとしたとき、君は、帰宅の意思を知らせなかったので、クラムペンドルフで待っていないということで、ボートに乗った。そこでオールの一掻き目で、導入部の主題が思い浮かんだ。その四週間以内に第一、第三、第五楽章を完成させたんだ。」。

オールの回旋はとても興味深い運動だと思うのだが、それに見合うだけのユニークな導入部となっている。ゆっくりとアダージョとしか記入されていないのだが、テノールホルンと低弦の付点動機、これが四分の四でと、今回の演奏では特にベルリンでは早急な感じを与えた。ここが大きく印象を与えたと思われる。ルツェルンでは音響に合わせることでより音楽的な解決法が取られて、それはその動機のリズムの扱いにも大きく影響していたと思われる。

久しぶりに改めて直弟子のオットー・クレムペラー指揮の名盤を鳴らしてみたのだが、やはりこの一楽章においては正しいテムピ設定をすることと、そして四分の二拍子の扱い方が重要だと実感する。ペトレンコの指揮で若干弱拍において拍が喰われた感じがするのもこの曲の演奏の困難さだと分からせる。ベルリンでは若干それがとっかかりなく進んでしまったような感じがしたのもその音響故であったろう。その点でルツェルンでは取り分け第一楽章が優れていたのは、その後のこれまた音響も異なるロンドンのアルバートホールからの中継でも伺えた。やはりアンサムブルが合わせ易いというのはとても重要になるのだろう。

テムピの正しい出し方はそのもの分割されたリズムを刻む能力で、ペトレンコの指揮においての拘りが、この曲においてとても厳格さを増している。そうすることによって初めて弦と管の主題の受け渡しや重なり合いが本来の効果を生じるのであって、ペトレンコ指揮の真骨頂である。だから曲が聴者に良く入っていなくても、そこから生じる音色の多彩さは折からの会場の音響によってそれどころか照明によって視覚的にも多大な効果を上げた。

米国お披露目ツアーに先駆けて、キリル・ペトレンコがネット会見で語ったこと、つまりベルリナーフィルハーモニカーの特徴として「美しく、巨大で透明な弦」を挙げつつ、そこに「木管、金管、打楽器を組み合わせて大きく透明性と軽みのある」音響を目指すというのはまさにこの曲の特に一楽章によってその方向性が示されているということなのである。

この第一楽章におけるその長短調からの光と影そしてその攻防はそのような音響でしか表現されないものであったことをバーンスタインのルネッサンスでのマーラー演奏の伝統のまたショルティ指揮シカゴ交響楽団での大管弦楽団演奏の頂点を築いた本場米国に今後の可能性と同時に指し示すことになるだろう。(続く
Mahler - Symphony No.7 in E minor (Solti)




参照:
水風呂で「覚醒」を促される 2010-07-19 | マスメディア批評
お友達の輪の序奏部 2022-08-29 | 雑感
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核レパートリーに組込み

2022-11-05 | 
玄人筋がマーラー作曲第七交響曲に閉口している。幾つかの問題点は考えられるが、所謂こうした大きなメディアに何かを書いたり発言したりしている多くのジャーナリストは、従来のメインストリームで仕事をしている物書きばかりで、芸術的先端で何かに触れている人たちではない。だから、各々の経験や知識で纏まった印象を持てないとして苦情している。

改めてベルリンの初日の録音を聴いてみた。傷はあってもやはり画期的な演奏になっている。ロンドンでペトレンコ指揮ミュンヘンの座付き楽団での同曲を演奏した節、ベルリナーフィルハーモニカーは調印していたペトレンコと早くこうした関係になりたいと語っていた。その成果は改めてとなるが、細かなところをもう少し磨いていくとより全体像が表れてくるかどうか。

兎に角、フランクフルターアルゲマイネ紙も、翌日にベルリンの地元の交響楽団を指揮者エッシェンバッハが、泣き笑いでお客さんが求めていた音楽をやってくれていたのとは対照的に、ペトレンコ指揮のフィルハーモニカーは余りにもりっぱなマーラーを演奏して、最早この曲は博物館的な価値しかないのではとしている。

言葉を変えれば従来のマーラー像をとなるのだが、それが商業的な音楽で同時にエンタティメントを示すことを含意している。当然の事ながら先端の芸術は広範な聴衆には理解されない。それをしてマーラーのそうした新しい美への追及で当時の市民を震撼させたのだが、最早それが蔵入りするのではないかとしている。

今回のプログラムの意図は、まさしく就任以来同時代のリヒャルト・シュトラウスやベートーヴェンなど所謂独墺の核レパートリーとされるものにこのマーラーの七番を置き据えるというものだ。最近は屡語られているように、嘗てのベルリンの新興の交響楽団にとっては後期ロマン派の終結とも思われるマーラーの交響曲はその殿に置かれてもよかったのだが、そのようにならなかった。

戦前の歴史を転換するのはナチが政権をとってからで、それまではドイツ音楽の核とされていたメンデルスゾーンなどが排除されて、当然の事ながらマーラーの伝統も途絶えて仕舞っていたらしい。しかしそのような外的な要因を排除してもこの七番が主要レパートリーとしてフィルハーモニカーによって演奏されていたとは思われない。

シーズン後半にはシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」がベートーヴェンの八番交響曲と共にプログラムに組まれているのだが、これは恐らくその次のシーズンへとも繋がっていくのだろう。フルトヴェングラー指揮で旧フィルハーモニーで初演された曲であり、この七番交響曲の次に核となっていくに違いない。

先ずは、週明けのフランクフルトでの壮行演奏会から始まる米国ツアーでそれを認識させることが出来るのかどうか、そこが注目されているのでもある。一体シーズン開催演奏会でベルリンで演奏されたその反響と批評の数々を経て、これから起こる状況が、今後どのように認識されて、正しく位置づけされて行くのだろうかと訝しく思うところなのである。
ルツェルン音楽祭での演奏後の歓声、LUCERNE FESTIVAL, Kirill Petrenko, Berliner Philharmoniker, Mahler Siebte



参照:
夜の歌のレムブラント 2022-10-22 | 音
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般
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積もり重なる落穂

2022-11-04 | 
落穂拾いである。来週7日(月)のアルテオパーでのベルリナーフィルハーモニカー米国ツアー壮行会の席をグレードアップした。マーラー作曲交響曲七番で大きな成果が期待される。既に夏のツアーではルツェルンの優れた会場でそこそこの音響で聴いた。しかし、今回は米国のカーネギーホールでの10日(木)初日演奏生中継に先駆けた最終的な調整となる。それなり以上の演奏が期待されるところで、夏のツアーから更にどれ程進化させて来るかが聴きどころだ。

特に米国の聴衆にとっては、バーンスタイン指揮のマーラー演奏のルネッサンス更にショルティ指揮における近代管弦楽団演奏の頂点との比較となり、就任披露のペトレンコにとってもそして大管弦楽団の今日のあり方を問うベルリナーフィルハーモニカーにとってもそこでの反響はエポックメーキングとなる。言及した様にそれにふさわしい演奏となるのは既に確認している。

その為にもこちらのしっかり聴きたいと思っている。既に手ごろで決して悪くない席を確保していた。しかし、今回も各種の定期演奏会シリーズに組み込んであったので、本当に欲しい席は出ていなかった。その中でアルテオパーの長年の常連さんとして最も価値の高い席を選んだに過ぎなかった。

今回は長い売り切れから直前になってお零れが幾らか出た。最終的には十数席出るのだろうか。勿論個人的には、最初に出ていたところを買い足す必要もなく、それ以上に価値のある席しか必要ない。そこで零れてくる席を観察していた。雰囲気からすると各々の定期演奏会などをやっているところから定期会員割れのような席が出ていた感じだった。予期していた招待席はまだこれから出るのかもしれない。

ハムブルクでのエンゲル指揮ポーランド国立放送交響悪団の演奏会もほぼ完売に近い感じだった。一時はそのエルフィーの入券が容易になっていたようだが、今でも大交響楽団演奏会となるとモダーンな音楽でも人が入るようだ。ベルリンでのフィルハーモニー演奏会前の予行演習のようなものだが、興行的には成功している。演奏は放送されればと思うので少し調べていたら、夏のエアルでのブラームス連続演奏会の練習ヴィデオなどが出てきた。観た記憶がなかった。出かけなかった初日のブラームスの交響曲一番の様子も少し出ていた。音の印象は翌日の二番、三番よりラフな感じである。但し「アルトラプソディ」の音はとても興味深い。やはりエンゲルは歌物が上手いなと改めて思う ― 交響曲のフレージングに関しても歌詞のそれが参考になったようだ。

カメラータザルツブルクの奏者へのインタヴューで苦心点などが語られていて、特に弦楽奏者の注意点が列記されていた。そこではコンツェルトマイスタリンに招かれたカタリーナ・シュライバーの思惑は語られていなかったが、折衷的な楽団なのでその辺りはフルート奏者の話しにも表れていた。しかしやっぱりなんといっても興味深かったのはエンゲルが、三つの狙いを挙げて、一つはヴィブラートの制限的装飾的な使い方、もう一つはそこからポルタメントに繋がる表現、そしてもう一つフレージングについて語っていたことである。ブラームスだからヴァ―クナーの様な長い大きな弧を描くようなフレージングではなくて、短いものを重ねて山を作っていくというところだった。勿論その様な短いそれは嘗てのガーディナー指揮のフランクフルトの連続演奏会でも同じだったが、明らかに考え方が異なると理解したので、それだと合点がいった。



参照:
エリカ薫る夏の草原の風 2022-08-05 | マスメディア批評
一先ずガラガラの席を 2022-11-02 | 雑感
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賞味期限を早める試み

2022-11-03 | 文化一般
承前)「音楽劇場とはなにか」とタグをつけた。今回の新制作「コシファンテュッテ」にはそれが明確にされていないと書いた。それでもダポンテの台本からすれば二百年以上後の現在に舞台が移されていて、オペラ愛好家には「読み替え」とされる。しかしそれは音楽劇場が意味するものとはまた異なる。大きな意味で「レジ―テアター」つまり「演出劇場」となるものだろう。

「読み替え」とは舞台設定を主に現在に移植するもので、作曲家が生きた創作時期に重ねるものは一般的な演出手法であって、「読み替え」としての抗議は最早起きないスタンダードなものとなっている。なぜならばその対象とされる上演作品の多くがその様に「読み替え」をしなければ創作者即ち作曲家の意思が汲み取れない古典となってきているからである。

例えば楽匠ヴァ―クナーが舞台祝祭劇「指環」において、同時代の資本主義の問題点を神話を舞台に描きながら、その演出には数えきれないギャグを挟んだように、そのもの同時代性を以て具象的な芝居で今日の劇場空間に何らかの世界を描けるという事はあり得ないのである。

そうした「読み替え」で目されるのは、劇場の聴衆が若しくは舞台の演者らがその芝居を体感できるかどうかである。例えば台本中の貴族が行う所作によっての意味合いを現在の我々が同様に感じ取り、それによって感情移入さられるかどうかが問われている。

さて、先の批評で問題視されたのは、そこで肝心な主客転換が演出的にも音楽的にも起きていないという事だった。所謂ドラマテュルギーにおける裁定となる。そこを読み返してみれば、教えと教えられるの間で「啓蒙」されるというそのものこのオペラ作品の本来の意志であったろう。勿論今日の我々はその時代には生きてはいない。その様な個人と政治も存在しない。これは、音楽的に批判されたペパーミントのアコードの不在にも繋がっている。

当然の事ながら演出は、そうした現実を認識させつつ、それでも作曲家の音楽からの本質を提示することが目的となる。評者は、どうも半世紀前にベーム博士が指揮したような正確さと丁寧さを求めている様なのだが、既にその当時演出面においては舞台上のマリオネット化が進んでいた。要するにオペラとしての効果を失いかけていたことになる。

オペラとしての効果を失うという事は、舞台作品として作曲された音楽を音楽会形式で演奏して同じ効果を生むという甚だ創作の世界から遠のくような結果となり、愈々その音楽作品のエンタメ需用化へと一気に進むのである。勿論その創作の純音楽としての瑕疵が明白になり若しくは賞味期限切れの時の流れを進めるのみとなる。

そこで音楽劇場としての概念が有用となってくる。最終的な目標は、名作とされる古典作品を今日に現実感を以て蘇えさせることにある。我々にとって重要なのは、貴族の性の不道徳観を描いて啓蒙思想を知らしめることでもなどではないのは当然である。創作意思を認知しながら、その創作の場に近づきたいのである。それは劇を創作するという意味においては嘗ての作曲家の狙いははっきりしていて、まるで考古学の様にその過程をなぞって行くことが目標となる。音楽劇場はそれを如何に前提となる劇場効果の中で提示することが出来るかでしかない。(続く)



参照:
紙一重の読み替え思考 2022-09-17 | 文化一般
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般
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一先ずガラガラの席を

2022-11-02 | 雑感
メトのバーデンバーデンでのガラ公演の席を確保した。来夏の事なのであわてることはなかったが、おいしい席は先ずは手を付けておいた方がいい。席の幾つか違い位は固定しておらず、昨年と今年では少しずらしている。昨年試してみたよりも少しでも良いと考えるからだ。勿論オペラ公演と演奏会では視界も音響も変わる。しかし、共通した面もあって、特に視角などは変わってくる。

以前からそれ程システマティックではないのだが、色々と二十五年間程で試しているので、外れは流石にない。そうして常連さんは色々と分かっているので価格は安いほど旨味が多い。どこの会場でも劇場でも其れらしき人が何処に座っているかの見極めが出来るならば通であろう。フランクフルトのアルテオパーはより常連で今迄で一番通っている演奏会場、だから分かっている。但し試していない席もある。コロナ前に初めて舞台奥を試してみたのだった。その時の写真は席選びの時に結構参考になる。

最近も初めての会場に出かけることもあり、また最善の席選びには写真を参考にする。それで多くのことが分かる。特に一度でもそこに足を踏み入れたことがあるならばそれ程予想を外すことはない。

さて、メトのガラコンサートのプログラムは、コロナ期間中に中止になったものから若干モデイファイされている。それでもジョイス・ディドナートはコロナ中の「冬の旅」に続いて、ベルリオーズからを歌う。後半のネゼサガン指揮幻想交響曲は余分であるが、予定のあったヴァルキューレ一幕と三幕よりはましではなかろうか。もう一夜は、後半にあの話題のオテロのラッセル・トーマスがルネー・フレミングと共演、前半は三曲でよく似たものだ。まず手始めとしてはそれで十分ではなかろうか。

我々が期待するのは今後定期的に訪れて、舞台上演をしてもらうことだ。年間三オペラ舞台ぐらいが限度として、新制作二つに、引っ越し公演一つぐらいか。ロシアからの引っ越しがなくなる代わりにニューヨークからならば最高であろう。合唱団が高いだけで、あとは何とかなるのではなかろうか。来年の様にザルツブルクの前に入れていくしかない。

もう一つは、秋のヘンゲルブロックではもつわけがないので、来年復活祭デビューのエイムぐらいにフランスバロックオペラフェスティヴァルをやらせればよい。ロシアからの観光客もいいのだが、もう少しフランスから来て貰えばよいのではなかろうか。バロックオペラの会場として広すぎるかどうかは若干微妙であるが。

先日購入しようかと考えていた席は、ボックス席の二列目であった。これも最低価格なのでそれほどひどくない席ならばと、場所や向きなどを嘗ての写真を調べて、ああでもないこうでもないと考えていた。屋根のついたボックスの二列目だから最低なのだが、それでも一列目を経験したことから、ある程度は想定可能だった。但しそこで隣で聴いていた婆さんとラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカーでの第九が喧しいとなった。金属質の音が強調されていた。演奏自体の問題もあるのだが、やはりそうした音が強調されるというのは特別な条件ではあり得る。舞台から近くとも二列目で奥となると尚更なのだ。幸い通常のバルコンで同じ価格で購入可能となった。



参照:
25周年記念の祝祭劇場 2022-10-27 | 文化一般
週明け朝一番の電話 2022-10-25 | 生活
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