Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

プロット変換で主客転換

2022-11-01 | 
承前)「可笑しな劇」の制作への反響は大きい。大絶賛もある反面、最も厳しい評がフランクフルターアルゲマイネ紙に載っている。書き手は、ミュンヘンやらヴィーンなどを担当している人だと思うがあまり知らない。特筆すべきは、ルイーズ・アドラーの歌唱だけだったとしている。

先ずは、アンドリュースの演出に駄目出しをする。抑々モーツァルトの「愛の学校」の複雑さの前提にあるものを唱えているようだが、全然分かっておらず、ゴムのペニスや壁の証明された精子の落書きやそれどころかドナベラの下着がそうだとは思われないとしている。抑々「コシファンテュッテ」は、学びと空の個人と政治におけるプロットの変換での主客の転換の作品であるとしている。それがミュンヘンでは、フリーセックス、覗き趣味、多婚への傾倒に矮小化されていたと、サドマゾなどとそこで描かれているものを挙げていく。そしてそれらが、BMWとの関係がそこで偶々出てきたに違いないがなとしながら、なにも寄与していないと断定する。

ここでもまた名前を挙げずにBMWが出て来て先のファイ氏が示唆していたことに繋がる。なるほど支配人ドルニーは前任者とは異なりスポンサーの資金援助を受けるために経理上に有利になることは積極的に行っている。これは驚きで少なくとも師匠筋のモルティエや捨て台詞を残して辞めるカムブレランとは異なりビジネスマンで、つまらないメディア制作までを売り払っている。これに関しても批判はあるのだろう。

しかし殆どの賢明な聴衆は一定の理解をして百も承知に違いない。勿論こうして文章化しておくことのジャーナリズムとしての重要性が存在する。まさしく、この演出への批判も全く同様であって、これまた殆どの聴衆にとっては周知のことなのだ。

更にザルツブルクのロイの演出とそれどころかエクサンプロヴァンスにおけるシェロー演出を比較に挙げる。そして、指揮が違うとまで言及していく。前者のマルヴィッツは分かっているが、まさか後者ってサロネン指揮か?

そして最近リリースされたというユロウスキーの指揮のべートーヴェンの二番を絶賛して、今回は全然違うとして、密月の時は終わり日常化して上手くいっていないとしている。

この人が音楽の現場から遠い人だという印象はここまでで受けるのだが、ユロウスキーにそうした大指揮者の指揮を求めているのは大間違いである。そして、風の三重奏をしてただの別れの曲などではないと、「デジーア」に付けたその勇気のあるペパーミントのアコードを吹かしてしまう恥を叱責している。

抑々になってしまうが、現音楽監督ユロウスキーの指揮にそこ迄の高い芸術を求めていいものだろうか。それはそこ迄のモーツァルトを今迄誰も指揮出来なかったことが問題なのであって、このようなレヴェルの作品にはこうした演出は役に立たずに拒絶されるべきだとしている。この制作が音楽劇場制作であることが明確化されないからこその誤解が生じているのかもしれない。(続く



参照:
Verführung und Versagen, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.10.2022
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
コッホ研究所会見に注目 2021-02-18 | 文化一般
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