Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

小澤征爾による杮落とし

2024-04-15 | 
1986年10月30日のサントリーホール杮落とし公演中継映像を観た。ベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン以外で初めて外国公演で振った時だった。個人的には二日前の初日のブラームスを聴きに行った。

この生中継はラディオは録音をしたが、映像を観た記憶はなかった。会場の雰囲気が面白い。音楽評論家らも座っているのだが、一般の招待客らしきはいかにもカラヤンではないので不満な表情が隠せない。若い皇太子が来ているがその程度のものだったのだろう。小澤はそれぐらいにしか扱われていなかった。しかしその指揮は立派で、現在でも客演でこれだけ振れる人はいないだろう。

八艇のコントラバスの大編成でのシューベルトは当時のカラヤンサウンドを彷彿させる。それでもお客さんのウケは今一つだ。後半は昨年のペトレンコ指揮による初ツアー時と同様に「英雄の生涯」が演奏された。これに関しては当時の放送から違和感があった。今回、旧年中にペトレンコ指揮を1979年のカラヤン指揮に続いて聴いたこともあって、その問題はよく把握できた。

先ずは冒頭の「英雄の主題」の出し方からして問題があった。これはどのようなテムポを取ろうがとても勢い感が重要なのだが、三連符を三拍四拍で二分音符へのリズム取りが悪い。これが全てで、小澤に限らず如何に斎藤がシステム化しようともこれを上手に振れないのだろう。要するに律動によって音楽が流れないに尽きる。斎藤秀雄がこの曲に全てがあるといったのはそれをも含んでいたのかもしれない。

なるほど大編成での多層に渡る音情報を取り出すのは管弦楽団指揮技術の極地なのかもしれなく、実際に音響のプレゼンスを第一に演奏させている。同時にカラヤンの影響を受けてか、テムポルバートなどの歌い込みで、そしてそのフレージングを活かすために余計に拍子感が鈍ってくる。流石にカラヤンはそこがその芸術だったのだ。無関心なお客さんも知らずにその差を感じ取ったに違いない。そこが一般的に日本で謂われる「小澤指揮は内容がない」の内容なのである。

曲間に当時のカラヤン追っかけのおばさんと楽団員やマネージャーへのインタヴューなどがあるが、そこで「小澤は20年来の楽団の友達のようなもの」としていて、その友好関係の中で日本の指揮者へのそして独管弦楽団への称賛を期待したい。」と語っている。このことはペトレンコが執拗に繰り返し発言している昨秋の「英雄の生涯」のツアーでの成功と事前に語っていた「(ダイシンを)日本人が誇りに思う。」との発言に対応していて、この映像を確認していた可能性がととても強い。因みにコンサートマスターの安永は取り分けここではソロの準備をしていた様で上手に弾いていた。

急遽のツアープログラムだったからか、オーボエも前半は若手に任せていて後半だけロータ―・コッホが吹いている。そして、楽屋に戻ると誰を立たせるかマネージャーに確認している。下げた指揮台に楽譜を置きながら全く見ない格好をつけているのもカラヤン譲りで、更に劇場でも振っていない当時の新進指揮者にありがちなお馬鹿な態度を貫いていたからだ。

これは、新たに編集されて楽団のメディアとの共同制作となっているので、いずれハイレゾでDCHにアーカイヴ化されるだろうか。但しテープヒスの入ったアナログ録音で、映像もあまり良くないようだ。しかしサントリーホールは反射板の改修前は跳ね返りがなくて演奏はし難かったのだろうが、マイク乗りは良くとても素直に響いている。
Seiji Ozawa & Berliner Philharmoniker 1986 at Suntory Hall / Schubert: "Unfinished" Symphony

R.Strauss: Ein Heldenleben / Ozawa · Berliner Philharmoniker




参照:
カーニヴァル前に棚卸 2024-02-12 | 雑感
現代的過ぎた小澤征爾 2024-02-11 | マスメディア批評
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実行のプログラミング

2024-04-14 | 
承前)ブラームスの「ハムマークラヴィーアソナタ」が弾かれた。この曲をプロフェッショナルな演奏で生で聴くのは初めてだったと思う。このプログラムのモットーであった青年の息吹は今回の演奏だったからこそ全身に浴びれた。何故この曲がそれほど演奏されていなく、リヒテルなどの録音で聴かれていたかが明らかになる。

そういう演奏は本当に楽譜からその音楽を読み起こしていないと叶わない。要するにコンセプト通りに弾こうと思っても発想が現実に音としてならない。このピアニストが必ずしもブラームを得意としている訳でもなく、そのピアニズムに合致したわけでもないだろう。但しはっきりしているのは、ペトレンコ指揮でブラームスが演奏される時の様に余りにも浪漫的な響きというものを求めることなく、和声的な支配関係にも極力留意することで、その漸くブラームスの音楽が洗練されて響くことになる。

そうした浪漫性というのが、前半ではラプソディ―一曲に絞った訳だが、そのハンガリーのリトネロであるロンド形式のロ短調の作品79-1は情熱が燃え上がる訳なのだが、こういう曲は実際には後年の作品として事始めの曲でシューマンがブラームス自身が軽やかな技巧で弾いたとされたように、中々そのオスティナートの扱いなどよりその作曲家自身の演奏が聞こえる様でなければいけないやはり通も楽曲実践が要求される。
Brahms | Rhapsodie en si mineur op. 79 n° 1 par Alexandre Kantorow


そして、そこからのリストの二曲がこれまたそのクライマックスへの持って行き方やその浪漫性の形式としての実践は、例えば自由自在のトリフォノフなどの演奏に比較する迄もなく、よりその創作におけるその環境を実感させる。

そうした演奏実践がどこから来ているかというと、どこかで習ったとかということではなくてしっかりと最初から譜読みをして創作をつぶさに見ているということで、決してステレオタイプな演奏とはならないことに証明される。まさしくアルフレード・ブレンデルなどがベートーヴェンのソナタを自らの楽器を使って端から洗い出したような作業にも似ている。

つまりこうした本格的な演奏家にとっては、バッハでもモーツァルトでもリストでもブラームスでも、バルトークでもそこに最初から歴史の中にあるのではなく、再創造という知的で尚且つ職人的な作業が為されているということに過ぎない。

その点からもリストの演奏は、アラウのロ短調ソナタからポゴレリッチそしてブレンデルなども聴いているのだが、改めて見えてくる背景があってとても興味深い。それはトリフォノフが素晴らしい演奏をするのとはまた意味が異なる。要するによく考えられていて巧い。そして何よりも昨今のピアニストの様に音を割ることが全くない。それは大ホールでも変わらないだろう。

そこにそうした歴史的視座を踏まえたバルトークのラプソディ―がとても知的なリズム的な描き分けで演奏されるとなればそれだけで超一流のリサイタルである。この優れた一部修正されたプログラミングが実行される時がライヴなのである。



参照:
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
とても革新的な響き 2021-01-16 | 音
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声が聞こえる大きな手

2024-04-13 | 
隣に座ったおばさんが真央ちゃんのことを褒めた。小さな手でという称賛だった。恐らくとても感嘆を受けたのだろう。その時の優勝がカントロフだったんだというので知っているよと答えた。

カントロフは、勿論手も大きいだろう、そしてトリフォノフのように自由自在に弾ける人でもない、だからみっちりとレパートリーを作っていく人のようでその点ではブレンデルなどにも似て本格派である。そのピアニズムは全く違うのだが、その時にリサイタルで弾いてくる作品から十分に創作者の意思は伝わる。

先ず冒頭にヴァイヴのような棒を持って現れたのでなにかと思うとそのマイクを握って独語で出来ないからと断ってから英語でちょっとしたプログラム変更を伝えた。先ずこれで少し驚いた。その態度や喋り方がとても率直でそしてとても自然な感じで好感を皆に与えただろう。中ホールのインティームな感じも功を奏しているのかも知れないが、やはりその人の実物大の人間性だろう。芸術家というよりも職人的な誠実さがそこにはあった。

ブラームスの「ラプソディ―」の二曲目の代わりにリストの「オーバーマンの谷」ということで勿論三曲目に演奏する予定だった「雪かき」に続けた。するとそれにバルト―クの「ラプソディ―」作品一番が続くことになる。とても興味深い。聴者によっては様々な把握となるのだろうが、少なくともジャーナルを書く人にはとても多くの材料を与える。

可也拘りを見せる演奏でもあるのだが、自由自在に演奏する代わりに如何に本道を示すかの演奏で、そのピアニズムの基礎にはやはり中域の安定があって、そこから上下にずらして音を作っていくという事はしない。それによっての歌の安定感は抜群で、なるほどチャイコフスキーのコンクールなどではこういう演奏が尊ばれるのだろう。

それによって何がなされるかというとやはり楽器が満遍なく鳴ることで、まさしく今回最短距離で聴いた理由はそこにあった。色々なピアニストの身近で聴くことはあっても今回のような頂点に立つ人が弾く楽器が大振動するのを眼で身体で感じたのは初めてだった ― 要するにその当たりの世界的著名コンクールの優勝者程度とは意味が違う。それに一番近い振動では嘗てのブルーノレオナルドゲルバーというブラームス演奏でドイツで持て囃されたピアニストは小児麻痺の足でペダルを踏みっぱなしにするその時以来だ。それを殆ど使わないピアノで為していた。そして振動のストップが常時が決まっていた。

そのフォルテシモの入り方もペダルを踏む代わりにシークレットブーツの足踏みでがっつり入り、そしてしなやかに右手は被せたりとどこまでも透明感を失わずに一方中域部の歌の波が絶えないだけでなくて、リズム的な弛緩もない。そして後半は印刷されたプログラムの順番を入れ替えて、ブラームスのソナタ一番ハ長調を前に出して、「シャコンヌ」を待っていた耳を驚かせるのだが、彼の父親のヴァイオリンの様にとても骨子のある音がとても中庸で良い。祖父の代にロシアから南仏へと渡ったユダヤ人家庭だということなのだが、その音楽は全然悪くはない。リヒテルが演奏したブラームスが如何にも一面的な演奏実践であったことを考えると、独墺圏で拒絶される質のものでは全くなく、これ以上に二楽章のドイツ語の歌を弾ける独墺圏ピアニストがいるのだろうか?三楽章の若い息吹に終楽章の歌に魅了されるファンは少なくない筈だ。(続く)
ブラームスの作品一番ハ長調
И. Брамс, Соната для фортепиано №1 – Александр Канторов (Париж, 2023)




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何ごとにも事始め 2024-04-12 | 文化一般
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
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何ごとにも事始め

2024-04-12 | 文化一般
ピアノリサイタルのお勉強である。最初はあまり分からないプログラムだったが、調べ出すと可也興味深い。まだ時間があるので更に詳しく見ていくことになる。

流石に二回続けてのプログラム勘違いはないので詳しく見る。勿論演奏者の都合で変更することはあり得るのだが予定プログラムだけを見ていても演奏者のコンセプトが見えてくる。チャイコフスキーコンクールで二位の真央ちゃんを抑えて優勝したカントルフは、放送などでもちょこちょこと流し聴きするだけだったが、今回のプログラムに関連した制作録音などを聴くと放送では分からない演奏をしている。

そうしたマイク乗りが悪いのはどこから来ているのかも興味ある所でそれは実演を聴くことで判断可能となる。但しそのプログラムだけでなくてコンセプトは誤魔化しようがなく、明らかに語り掛ける聴衆層が違うというのは明白だ。抑々大コンクールで優勝しているような演奏家で大物はいない、更にこのピアニストの父親は一流のヴァイオリニストで、それを超えるなどというのは音楽史上殆ど皆無ではないかと思う。

父親の演奏も殆ど聴いていないのだが、印象としてはある程度定着していて、それ以上のものではないのだが、この息子さんの方にはより引っ掛かる音楽性が感じられるのは何故だろうとなる。プログラムの最後に音楽祭の今回のテーマであり、当夜のプログラムを「若者の行い」としていて、なるほどその一番にその書法の全てが表れている。その前にバッハをブラームスが左手の為に編曲した「シャコンヌ」で後半をブラームスで統一している。

そして最初にこれまたブラームスの「ラプソディ」と称した系譜の二曲にこれまた民族音楽採取から入ったバルトークの作品1番の民族音楽とその芸術化書法へとこれまたそれに直接の影響を与えたリストの「雪かき」を挟むとなっている。

こうしたプログラミングは西欧人でもやはり玄人家庭出身の演奏家らしくてその基本的な教養が違うとしか思えない。勿論それを受け取る方にもそれなりな理解は求められるとなるだろう。だからハイデルベルクでのリサイタルの券の売れ行きが完売してしまう日本のピアニストよりも悪い理由というわけではないだろう。客層も市場も異なるという事はあっても、先ずそれ以前にこういう演奏家が今何をどのように演奏するのかという事だけで興味をもつ人はやはり通であろう。

少なくとも録音を聴く限り可也立派な演奏をしていて、決して大コンクールで優勝するだけの人ではないことは確かなのだ。個人的には関心の持ちどころは一体どれぐらいに楽器を鳴らせるのかとかは切符購入の時のありどころだった。

ブラームスのピアノをリサイタルで聴く機会は今迄殆どなかった。理由は分からないのだが、例えばブレンデル演奏などでも殆ど記憶に残っていない。CDではグールド演奏なども聴いてはいるのだが、今回初めてその作曲家の書法そしてその演奏家としての事始めへと関心が向かって初めて、自分自身でピアノを弾くならブラームスは欠かせないなと思い出した。これも音楽祭の冒頭にあったフーバー伴奏のゲルハーハーによる歌曲の夕べも大変影響している。



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とんだプログラム間違い 2024-04-11 | 文化一般
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
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とんだプログラム間違い

2024-04-11 | 文化一般
とんだ間違いをしていた。お勉強していた曲は演奏されなかった。チケットを購入した時には四重奏曲でないことは気が付いていたのだが。いつの間にかおかしな想像プログラムに変わっていた。そもそもなぜその二曲かを勝手に考えていたぐらいで、もう一つ納得してなかった。調性は見ていたと思うのだが、レクチャーで作品番号を聞いて意味が分からなかった。

19ユーロの安席を購入したのもその理由からで、それでそのパヴロハース四重奏団を聴いてみようという魂胆だったのだ。演奏家への結論からすると原稿の面子で、少なくとも技術的な精緻さではスメタナとヤナーチェックの四重奏団を凌駕していて、その奏法や音楽性も継承していた。より精緻という事は逆にそこまでの出来上がり方はしておらず、それでも音楽的な自由度でもブラームスや独墺系での問題点はあった。そこまで反発しなければ伝統を継承できないのかとも不思議である。

放送で聴いていてマイク乗りが悪い点も確認して、正しくそこ迄出来上がっていないからである。しかしアンサムブルととしては独墺系でこの水準に至っているのもあまりないのは当時のスメタナ四重奏団の出来上がり方とも理由は同じである。

お陰でヴィオラ二本の五重奏曲、それも晩年の作品111ト長調を聴けたのは良かった。興味深かったのは以前のヴィオラ奏者が合流していて現行のヴィオラ奏者とキャラクターが異なることである。

バイエルルにも習ったと書いてあるが、現行第二ヴァイオリン奏者も得難く、四人とも同じぐらいに音が出せるのも得難い。フランスのエベーヌ四重奏団のように四人ともその織物に編み込まれているのとは違うが、決して突出しない。その点では往路にも聴いていたピヒラー率いるアルバンベルク四重奏団のバイエルルが辞めた後の四人は可也で凸凹していて、ブラームスではその動機の扱い方などが、例えばペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのように浮き上がって来ない。とても定評があるのだが、現在ではその演奏は最早取れないと思う。

そして最初に演奏されたカプラロ―ヴァの弦楽四重奏曲作品8の演奏は見事であった。どれだけ演奏しているのかは知らないが、ヤナーチェック筋のブルーノの女性作曲家で、その音楽語法や発音がそのものなのだが、それを演奏するのを聴いて本場ものであり、やはり独墺の作品を演奏する場合とは決まり方が全く違うと感心した。

嘗ての四重奏団の演奏ではヤナーチェックの四重奏団はそこまでの魅力はなかったがこの人たちが演奏するのは聴いてみたい。スメタナ四重奏団のスカムパの薫陶を受けているようで、なるほどチェロが決して目立たないでもアンサムブルの要になっていて、第二ヴァイオリンとヴィオラの繋がり、ヴィオラとチェロの繋がりなど、これまた決して突出させない第一ヴァイオリンを下からがっちりと支えていた。

中低音が強かった四重奏団にはガルネリなどもあったのだが、此処ではヴィオラもソリスティックに小さめの楽器を鳴らしているようで、決して胴声にならないのも素晴らしい。その意味からもブラームスの弦楽曲にとてもいいのだが、仮に彼らによって四重奏曲が弾いていても同じ問題点が浮きより浮かび上がっていたの違いない。



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ドギマギで水浸し 2024-04-10 | 雑感
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
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ドギマギで水浸し

2024-04-10 | 雑感
前日になってドギマギした。ブラームス弦楽四重奏曲二番イ短調は記憶通りで、此処まで分かっている作曲家の労苦のありどころで、演奏者がそれを身を以て意識するかどうかは直ぐに分かる。その対位法的な扱いもどのように解決するかで演奏者の知能程度が分かる。

そのように上からの目線で初めて聴く四重奏団の腕を見ようと思ったのだが、知っているとと思っていた三番目の四重奏曲変ロ調調で挫けそうになった。これは創作家の又別の書法である。不覚であった。

資料を見ると1875年にハイデルブルクに近いネッカー流域で過ごして民謡などを採取した様であって、丁度マーラーの「不思議な子供の角笛」にも似た話しとなる。ラーデンブルクかどこか分からないが、演奏会前のレクチャーで話題になるのは間違いがない。

ネットで資料などを読んでいると名が出てくる先日もレクチャーで話していた教授は私の友人の大学では部下になるようなのだが、ブラームスの専門家らしい。自らも祖父はミュンヘンの音大の創始者だと自慢をしていたぐらいだ。

兎も角、残された時間で三番と同時にブラームスのソナタ一番の勉強も初めておかないと、金曜日に直ぐ近くで聴いて、こちらの表情も演奏家本人にみられる聴衆としては正しい判断を下さなければいけないと必死になる。

水圧が上がって、予想した通り地下のボイラーのタンクへの取水口が破裂したようだ。なぜか夜中から前夜の便器の浮きの水漏れ以上におかしな異音がしていた。地下が水浸しになっていたということで、お湯の配管から水が抜けていたのだろう。個人的には浮きの為におかしな異音を夜中にさせて修理の必要を迫られていた。

それを修理してシャワーでも浴びようと思っていたらお湯が出ていないことに気が付いた。そして再開を確認して、初めて浮きへのアクセスに至った。図示してあるものがあったのでそれに従った。なるほど配給管は見事に緑青を吹いていたが、ちょこちょこっと触って漏れが止まった。また問題になればいつでも直せることを確認して終えた。

水道もお湯も快適に出るようになってその水圧も安定してきた感じで、先ずは漏れも止めたので、此処に引っ越してきた当時以上に快適な水道環境となっている。なによりも当時は硬水だったのが、今はとても柔らかい山の水になっているからだ。この地域は同じ砂岩でも石灰の混合率がとても低い。玄武岩などはリースリングだけでなくて水にも決して悪くない。

復活祭からは日が経ったが、その時に購入したウサギの酵母無しのお菓子の写真を上げておこう。酵母無しのパンとは酸っぱくないパンとも聖書に書かれている祭りのパンにも通じる。



参照:
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
色々とお試しの季節 2024-04-08 | 生活
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流しに網を掛ける

2024-04-09 | 雑感
今週は二回のブラームスの夕べである。曲目は二種類の弦楽四重奏曲に作品一番のピアノソナタ、中期のラプソディ―二曲である。弦楽四重奏曲は馴染みがあるのだが、ピアノ曲はあまり知らない。そこでお勉強の質も変わる。

抑々二回の演奏会に行こうと思ったのは日程もあったが、小さな会場で良い演奏家の演奏を聞ける機会だからである。作品を聴きに行くとかいい恰好を言っても、有名無名の演奏家に拘わらず、それゆえに良い演奏がなされる可能性がない限りは出かけない。

大管弦楽団などはその音響を浴びに出かける人も少なくないようだが、十代の時代からそれ程その価値は見出せなかった。だから既に名録音などの揃った名曲演奏会などは殆ど行ったことがなく、今後とも出かけることはないと思う。

それでどの様に演奏家にも興味があっても、楽曲に関心をもたない限りは態々出かける動機付けが生じない。先ごろ亡くなったマウリツィオ・ポリーニなどが直前にしかプログラムを発表しなかったことも若干疎遠にした理由であった。

作品をお勉強するがてらに、徐々にこうした演奏をするのだろうと過去の実況録音などから予想する。チェコの四重奏団のハース四重奏団はシュヴェツィンゲンの音楽祭のそれを聴いても巷の評価のようにトップクラスとは確認できていない。勿論その流派からスメタナやヤナーチェックやスークやその名を冠したような名四重奏団との比較になって仕舞う。

ピアノはフランスでの演奏会中継からブラームスのヴァイオリンソナタに付けたものを聴いたがヴァイオリンがあまり良くなく今一つ印象が纏まらない。詳しく聴くしか方法はないかもしれない。

ダージリンと同時に発注したのが、キッチン流しのサイドの笊である。オリジナルのプラスティックが数年で割れたことから、その後大きな茶こしなどをおいていた。主にコーヒフィルターとか水気のあるものを其処で水切りして、場合によっては食事屑などを干していたのだが、どうしてもその網なども汚れて、黒カビが生えやすくなっていた。まさか茶こしを新規に替えても仕方がないので、代わりのものを探した。アマゾンで使えそうなものがあった。引っかけて使うのだが大きさは都合がよい。但し引っかけるだけなので上手に使えるかどうかは疑問だった。

実際に設置しようとすると引っかけフックが弱くて、下を向いてしまうので、下の方をゴムで浮かすことにした。重いものは入れられないが平素の使用にはそれで十分な筈だ。新ためて周辺を清掃したので、そこにヌードルを流し込むことも可能なのだろう。ともなくステンレスなので、清潔には保ちやすい。

夏場にそこで何かを冷やすぐらいに清潔であるかどうかは分からないが、一先ず気持ちがよい。朝から蛇口から水が垂れていると思ったら、市中の水圧が可也高くなっていて、今迄気が付かなかったトイレの浮き迄緩んでいる。週末に短く断水があったので明らかにポムプの水圧を上げたのだろう。市で一番高いところに住んでいるような身分なので、それからすると水道屋が忙しく、市には電話の問い合わせがひっきりないと思う。



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色々とお試しの季節 2024-04-08 | 生活
流量をも整えるノズル 2023-06-30 | 生活
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色々とお試しの季節

2024-04-08 | 生活
土曜日は夏日和になった。朝9時過ぎには車外温度計が20度を超えていた。走っていても背中がじわじわ暑くなった。帰って来てからもTシャツ以上のものは着ていない。週明けには摂氏30度近くになるようだが、直ぐに賛3度ぐらいまで冷えるらしい。次に走る時は新しいショーツを使うことになるか。

ベットのシーツ類も替えた。これで六月ごろに盛夏のものに替えるだけである。気持ちよく眠れる。衣料虫除けも新しいものに替えなければいけない。

ブルーレイを他の方法で再生しようと思って、コピーしたものを使うとLinuxでも再生可能となっていた。一年以上前に作ったので何ゆえにか忘れていた。要はコピー保護があるので通常のVLCでは再生されない。しかしコピーしたブルーレイROMからは再生できるのだ。これでLinuxで問題なく再生可能となる。つまり、コピー保護のついているブルーレイも一度解体して仕舞わないと使いにくいのである。前回は更にハードディスクの場所が36GBも消費するので一枚一ユーロでも50GBのROMを焼いたのだった。

さて、今回も同様にやろうとしたのだが、上手く行かない。この間にMkMkvという平素使っている映像ファイルに変換する無料ソフトが有料になっているようだ。コピー保護の関係のようだが、基本的にはブルーレイのコピーは全く問題がない。しかし、それではLinuxで再生出来ないので不便になる。対処策は幾つかあり得るが、最悪モニターコピーでMkv化して仕舞えばアーディオも若干のアップサムプリングで、映像は適当で構わない。そもそも音楽ファンにとっては映像なんて付け足しでしかない。但し映像と音声がづれるのは困るだけだ。音楽劇場作品を如何に大画面で本番擬きで観ても何一つ体験にはならないということだ。

劇場での席選びもそうで、特別なエコーがあるなど視覚と聴覚に差異があるのがもっとも具合悪いので、遠ければ遠いだけの体験が叶う。寧ろオペラなどは天井桟敷の人々に囲まれるぐらいの方が迫真感が伝わって強い体験が可能となる。劇場体験とはそういうものである。

今年最初のアスパラガスを食した。いつものように買った屑を今回はバター味で牛肉と炒めたのだが、あまりクリーム煮になっていなかったので味が薄かった。次回は中華にするかもしれないが、その次はもう少しいい味にしたい。リースリングに合わせた結果であった。

先月に北海道からお土産で頂いたレーズンの入ったバターサンドに残っていた最後のダージリンを淹れた。1月19日に250gを発注して、毎晩のように淹れたファーストフラッシュだった。13ユーロで10週間ほどで消費した。高いか安いかはなんとも言えないのだが、煎茶がなかったので頻繁に淹れた。香り味ともにビオ農業風で自然な感じではあり飽きは来なかったのだが、続けてもう一度というほどの魅力はなかった。そこで今回は同程度の予算で100グラムのものを発注したが、倍の美味さであるとは全く思っていない。適当な価格でこれというものが見つからなかったので、それ程悪いものではないだろうという期待でのお試しである。少なくとも数週間は試せる。



参照:
Velvetの風合いの響き 2023-01-08 | 音
舞台に合わせた音楽演奏 2024-04-07 | 音
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舞台に合わせた音楽演奏

2024-04-07 | 
週末に発注したニールセン作曲「マスカラーデ」のブルーレイが届いた。ミュンヘンのペトレンコ体制での最も成功した制作「死の都」以来二枚目のディスクである。それ以外の初日を観た「ルル」などもネットに落ちていたコピーしか持っていない・

ざっと流してみての印象は映像も綺麗でフランクフルトの劇場制作映像としては秀逸かもしれない。録音もハイレゾでしっかりとあの新しい劇場のドライで余り美感の無い音が綺麗にとらえられている。

その公演は初日と楽日に出かけていて、最後の時にはカメラが入っていた。だから終演後の拍手などがチグハグデいま一つ分からなかった。一番空いていそうな夜のそれが入っている感じがする。楽日迄撮っておいて何故もう少し盛り上がりのあるものが編集されて繋がれていないのか。廉く仕上げただけならナクソスクワリティーだ。

映像で初めて気が付いたのは二幕で、HiFi装置から流す時にはブルーレイ無料ソフトの関係でウィンドーズPCからキャストで飛ばすので映像がずれる。殆ど音だけを聴きながら作業していると、今一つ指揮の音楽の出方が冴えない。それを時差の無い映像をモニターし乍ら聴くと、その差が明らかだった。つまり指揮者のエンゲルはこちらが考えていたよりも遥かに舞台と音楽をシンクロさせていることが分かった。無声映画に合わせるのと殆ど変わりがない。それと違うのは舞台を練習の間に音楽にも完璧に合わせてきている事だろう。

なるほどペトレンコと賞を別けた「ボリス」において、舞台がなかったら引用したネヴスキーの新曲を全然違うように振るといったのはこれだと分かった。なるほどペトレンコも演出に合わせて指揮を変えると話していたが、飽く迄もその音楽を守る為に事故があっても処理してくる。

つまりエンゲルにおいては舞台に合わせることから映像が合わないと違和感があるような音楽になることもあるのがよく分かった。ペトレンコは事故処理でどこ迄も音楽の価値を失わない手当てをする。

一幕、三幕は本人が語っていたようにリズミックなドライヴで進行するので、どんな指揮者でも動きとのちぐはぐはあり得ない。しかし二回も観ておきながらそこまでは認知できなかったのは、エンゲル指揮を二十年ぶり以上で観ることで判断する要素があまりの多すぎたからだと思う。

当然のことながらどのような音楽作品をどのようなコンセプトでどのように演出するかで演技と音楽のシンクロの細かさも全く異なる。演出に口を出さないというが、実際に稽古となると音楽的に合わない所は議論で合意を得るのだろう。抑々あまり音楽的な配慮の無い演出家ではとんでもないことになるか、音楽に合わせて舞台進行演技指導を修正出来ない事にはお話しにならない。

その点、このクラッツァーの演出はコンセプトととしてもとても立派であり、昨年のテムペルホーフの「メデューサの筏」に指揮者との協調作業として成功に導いたのは間違いない。
Trailer zu »Maskerade« von Carl Nielsen | Oper Frankfurt

Teaser zu »Maskerade« von Carl Nielsen | Oper Frankfurt




参照:
言葉不要の高度な表現 2021-11-16 | 音
スポーティな仕事とは 2024-03-05 | 音
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風光明媚な独逸の心象風景

2024-04-06 | 
(承前)ブラームスが何故オペラを作曲しなかったかはよく話題になる。夏のテュッツインゲン滞在中にミュンヘンの作者を訪ねて検証していたりするのだこれという結論には至らなかった。しかしそこでハイドンの主題と弦楽四重奏曲の一番と二番を作曲している。当時の日記にはティロルに続くカールヴァンデルからの帰りの山の天候の情景が印象として認められている。各地の美しい情景に旅情を抱く人には中々ドラマは書けないのかもしれない。

交響曲四番の三楽章でのハ長調主題は「マイスタージンガー」のそれから影響されているようだが、そこにト長調の対抗主題が。シュタインバッハ版のコメンタールを改めてみると、やはり作曲家のイムプレッションが表れているようなところが多い。それはここではピアノに対してその繰り返しにはピューを書き込んだりしていて、その空気を伝える。以前ミュンヘンでの演奏時にも言及したのだが、同様の繰り返しのフォルティシモに対して繰り返される時の脱力などが書き込まれているのはその直後のシンコペーションが繰り返される時の意味合いを示している。つまり主題におけるドイツ的な響きに対置している。それは、先日言及した当時の軍楽隊の管楽合奏が進歩したことに背景があっただろう。そしてその音響は必ずしもピラミッド型の和音主体ではなくて、対位法的なあっちこっちへと主題が移されることにその主旨がある。

四楽章でのパッサカリアでのその音楽がどのようになるのかは既に昨夏の「ハイドンの主題」で馴染みであるが、こういう音楽こそ音に語らせることが重要になる。ブラームスは「ハイドンの主題」においても連弾などの楽譜も有名で、今もそれが演奏されることもある。

冒頭の動機に対して、友人のハンスリックが二人の争いと表現した様であるが、それは管弦楽による音色がないピアノによる演奏となればそうした骸骨しか描けないであろうとある。それも一理あり、それゆえに戦後はベルリナーフィルハーモニカーでもカラヤン指揮で豪勢な管弦楽の音色で一気に一つの大きな流れのように演奏された。勿論そこには渦や停滞などもあるのだが、この楽曲でもっとも重要な動機の扱いなども聴きツ屈すような聴衆は端から相手にされていなかった。それゆえに世界中の巷迄ブラームスの交響曲が録音を通じて流された状況が拓けたのだった。

しかし、キリル・ペトレンコ指揮によってその初演へとその主旨が立ち帰られることで、2021年にティロルでエンゲル指揮カメラータザルツブルクがやったような息吹の音響は求めようがなくとも、少なくともフルトヴェングラー時代にはブラームスの交響曲がこうした大交響楽団で如何に演奏されたかのその音響へと遡ることは可能となった。

ペトレンコの中共デビューとなる五月の上海大演奏会で、昨秋の極東公演同様に「英雄の生涯」と並んでこのブラームスの交響曲四番がメインレパートリーとして取り上げられている。東京より古く西洋音楽を受容してきた土地で、ブラームスの作品の音来のその意味が広く上海の聴衆に伝わるか。カラヤン時代の影響を受けずにはあり得なかったであろうが、より戦後日本などよりもその真髄に迫れるのではないだろうか。



参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音
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必要な構築する時間

2024-04-05 | テクニック
些か疲れた。先ずはタイヤ交換に出かけたついでに新車の話をすると、既に納期が延びていて予定していた夏には入りそうにない。すると車が無事動いたとしても車検切れがあり、例え既に発注していて納期が遅れたとしてもその警告金もあり場合には罰金も問題になるので急ぐ必要が出てきた。発注して仕舞えば少々の納期の遅れなどは先方のせいにもできるので先ずは急いでとなる。愈々待ったなしで、ここで投資しないことには意味がなくなる。

車の運転は少し眼を効かせれるようになってきたので。コロナ以前の水準に戻って来た感じがする。少しはキビキビと運転が可能になって来た。だから余計にスピード超過が直ぐに修正可能な新しい車があらゆる意味で身を護る。頭もいたいが急ぐしかない。

さてなによりも疲れさせてくれたのは音楽専用のLinuxミントが壊れたことだ。理由は先日の留守録などでキャッシュが一杯になっていたのを強制終了など繰り返していたからで、先ずはログインできなくなった。そこで100%占有から消去作業しているうちに、通常のシステムを読み込まなくなった。

読み込んでも安全モードのような塩梅で、裏で回していればようやく遠隔操作が可能になるという程度だった。正直余りにも複雑なシステムを構築していて、再構築するのに何週間かが掛かるので、そのような時間も無い。折角リースリングのグロースゲヴェックスで身体を温めたのだが、それも冷えて仕舞った。余談ながら復活祭が終わった日に久しぶりに入浴で、結局三月は暖房も入浴もなしに過ごした。如何に節約できただろうか?

結局リカヴァリーでも直らなかったので、開いたプラットホームの中で不要なユーザーのパスワードなどを消去した。それで一挙に元に戻った。本ユーザー名は問題がなかったのだが、どうもそれと三年になるSSDへのパスワードが指定されていて、それが普段使用のログインパスと異なっていたことが悪さしたようだ。

最初のインストールの時に訳も分からずに指定していたパスである。同じシステムに二種類のパスなどは使うべきではない。

直接には日曜日の「影のない女」初日中継放送をVLCでもMP3として流しっぱなしで6時間程録音していたので、それを編集する為にAudacityで開いて、編集、今度はそれを32Bit浮遊WAVにしたからだ。素材の400MB程が十倍の4,5GBになった。それはそれでも96kHzにして再生録音しているものよりもまだ小さい。

これで分かるのは保存しておくにはMP3からFlacにした形で、それを再生する為にどのようにアップサムプリングするかである。MP3は256kbsでもやはり音が固い。SWR2のAACはやはり魅力的で、上手に録音しておくと再生状況が変わってもやはり聴きやすい。

どうせハイレゾではないので原音再生とはいかないのだが、アップサムプリングでの録音はそれなりの価値がある。これからは旅行先ではVLCでのFlac化が一番使いやすいようだ。Linuxでも同じように可能かどうかは試してみなければ分からない。SSDの1TBも安くなったので先に購入してそろそろ準備して先に新システムを時間を掛けて構築しておかないといけないかもしれない。使い古しのPCを貰う予定もあるのでそれで構築か。



参照:
眠りに就く前にUBUNTU 2022-08-21 | テクニック
ワークステーション仕舞 2021-09-20 | 生活
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無意識下の文化的支配

2024-04-04 | 文化一般
承前)ドラマテュルーギに関して琴線に触れる音楽と言及した。作曲家シュトラウスがフィナーレのクライマックスでヴィーナーヴァルツァーを使ったことに矛盾しないか。ヴァルツァーはエレクトラの死に至って聴者の琴線に触れるのか?

シュトラウスはミュンヘンの音楽家であって、ヴィーンの作曲家でもない。若い時の作品は赴任地のベルリンなどで初演されている。今回の新制作のプログラムには、それでも南ドイツとヴィーンの間には政治的に思われる様な境界はなかったとなる。つまり、メンデルスゾーンからシューマン、ヴァ―クナーへの北ドイツのプロテスタンティズムにおける新ドイツではなくて、伝統的な庶民的に変遷された文化として、ボヘミヤ風やヴァルツァーなどが18世紀三分二経過時において ― 即ち三月革命後となる ―、南ドイツの朴訥とした芸術として特徴化したとなる。その典型にブルックナーの交響曲などがあって、作曲家自らが「ハーモニーレーレ」としてその意固地な古典的な形式に拘ったことが冗談めかせて語られる。

当然のことながらたとえ南ドイツのカトリック圏であろうとも高度な芸術が琴線に触れるように単純には創作されない。このホフマンスタールのギリシャ劇の舞台はフロイトが出てきたヴィーンであるとあったが、ミュンヘンの作曲家ゆえにその巷のヴァルツァーがヴィーン文化の意匠として、そしてアルペンホルンがオーストリア帝国アルプスのその谷の意匠として使われたとなる。

改めてこの楽劇の設定を考えてみよう。ギリシャを舞台にした古代劇である。フロイトの時代のヴィーンで、そうした社会の深層を、人々の無意識下を描くための設定を1900年にヴィーンで学位をそれによって認めたホフマンスタールが定めた。そこにその文化圏で日常意識されていない深層の文化が描かれるとなれば、ミュンヘンのリヒャルト・シュトラウスが試みた様な音楽的なアイデアがその帰結となる。つまり作家との協調作業でのその主題は決まった。そこで初めて如何にどのような音楽的な素材でどのような書法で描くかが定まる。

因みに今回の上演でペトレンコ指揮ではヴァルツァーの意匠はとても限定的で示唆的にさえ響いた。そもそもこの楽劇においては、後年の楽劇「影のない女」同様に最初のアコードから最後まで登場しない殺された王アガメノーンが劇場空間を超自然に支配する ― 「影のない女」のカイコバートに相当。

その存在は、舞台上に現れないだけでなく、自我を支配する。フロイトの分析の通りである。そのニ短調の動機がどのような支配をしているかである。既にエレクトラの動機を支配している。そのような支配が必ずしも意志として働いているばかりではないので、嘗てのアリアオペラのように、そうした心情が歌い込まれるわけではないのである。つまり聴者がそこで共感したりするものではない。

一般的にこの楽劇がシュトラウスの作品の中でも最も感情移入の叶わぬものでそこが上演回数も甚だ少ない原因となっているのかもしれない ― 作曲家自身が創作の頂点であったと認めるところでもある。(続く)



参照:
ヴィーン風北独逸音楽 2024-04-03 | 音
浪漫的水準化の民族音楽 2024-03-30 | 音
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ヴィーン風北独逸音楽

2024-04-03 | 
承前)ブラームスは北ドイツの音楽家なのかヴィーン風なのか。これは現在進行中のハイデルベルクの音楽祭で更に問われる。しかしそこにはっきりしていることは既にあってハプスブルクの帝国体制の中でのグローバルであって、北ドイツのハムブルク出身であったことだ。ライプチッヒを中心とするドイツ楽派とヴィーンのそれが、奇しくもバーデンバーデンでの復活祭ではリヒャルト・シュトラウスという南ドイツの音楽家によって新たに問われることになった。それは決して奇遇ではなく音楽学的な関心が集まっているからに違いない。

復活祭のフィナーレに指揮者キリル・ペトレンコは、少なくとも2017年からブラームスの演奏実践として試みていた前々々任地であったマイニンゲンに残る初演の再現を現在の管弦楽団を使ってのそれを今回達成した。ミュンヘンの歌劇場でのドライな音響の中での余りにも仮借の無いその交響曲四番の響きはより洗練されたしかし抽象的な意思として再現された。金曜日の初日に比較してその修正などの影響もあるのだろうが、それ以上に楽団の方も旅行日の力の抜けた一寸した旅行気分で特徴的な鋼のような高弦もコンツェルトマイスタリンのリードでより柔軟なアーティキュレーションも功を奏したに違いない。

所謂前記のシュタインバッハの校訂版に準ずる細部に関しては、幾つかは気が付く細部があった訳であるが、記憶のどこかに残るそれを逐一取り出して校訂版のそれやらを確認していかなければいけない。しかしそれ以前にそれによって受けた全体的な印象の方が言及する価値があるだろう。

先ずは金曜日に比較し復活祭月曜日のマティネーの演奏では、特に一楽章における書法はより音化されていた。それがどのような音楽的な感嘆に至るかは、そのコーダーの盛り上がり方だけでは測れないものがある。美学におけるアポロンとディオニソスとされる人間における二面性は、パンの笛とアポロンの竪琴の音楽勝負としてギリシャ神話として象徴される。ブラームスのこの交響曲が音楽歴史の中でその存在意味を輝かせるとすればその二面性の統合にある。その創作意思は明らかだ。

それらが主題間の対峙となるヘーゲル流の交響曲の形式に、後期浪漫派とされるブラームスのネオクラシズムの試みの中では、一方では厳格でよりミニマル化された三度と六度による動機の扱いとして、その一方でその交響曲の伝統を担ったヴィーンのまたはハプスブルク帝国内でのあるいはビーダ―マイヤー風とされる民謡的な要素として対峙させられる。

二楽章におけるアンダンテのe-gの三度にfが詰められたドミナントとなるフォリジア旋法とされる音階は古代的であると同時に東方的であったりユダヤ音楽的となるようだ。ハンスリックがエレジーとしたとしたとあるが、副主題の如何にもブラームスの浪漫とされるものの実体であろう。ここでもその歴史的なグローバルな視線は明らかだろう。

しかし、ここまでも前回ベルリナーフィルハーモニカーの演奏で聴いたカラヤン指揮ではたっぷりとした管弦楽の音色によって、そうした歴史的な諸相は塗りこめられて、ドイツのロマンティックな作曲家のステレオタイプな交響曲として世界に複製芸術としても鳴り響いたのだった。ライヴでもそれを裏切らない鉄壁のサウンドとして再生されたのだった。(続く)



参照:
ハルマゲドンの巨匠現る 2023-08-12 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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吟味すべきCPは如何?

2024-04-02 | ワイン
2024年復活祭が終わった。マティネコンサートは来年の第九でバーデンバーデンでは終るので、それ以外の曲では今日が最後だった。前夜戻ってきたのは予定通り21時過ぎだった。

先週の余りもののパエリヤをオーヴンで温めて、ヴァイツェンビーアと開けてあったグランクリュ「イ―ディック」シュペートブルグンダーの2007年物で軽く済ませた。翌朝のブラームス部交響曲四番は「エレクトラ」に続いて重要視していたからだ。そして来年は演奏会は第九の二回しか振らない。新制作「マダムバタフライ」の三回の上演とその二回の演奏会で万事休すとなる。

それもあったので特等席の空いていたところに座ってみた。この欧州最大級のオペラ劇場の音響がよく分かった。前回ご招待の時は庇の先ぐらいのところで最上席ではなかったのでオーナー席も試してみた。

結論からすると劇場音響で可也デットだった。それでもミュンヘンの劇場よりは福やかかもしれない。ザルツブルクよりは素直だろうが、奈落でのバーデンバーデンの祝祭劇場の美点はあまりなかった。

前夜の「エレクトラ」の楽日でも試してみようかとも思ったのだが、やはり一番いいような席はスキスキではなかった。オーナー席に座ると直ぐに係員が来るようでその点は管理が出来ていた。ベルリナーフィルハーモニカーはいなくなるので最早関係はないのだが、最低価格席の良い席と比較しての差は視覚以外ではあまりない — 価格差で六倍ぐらい。

結局最終日は6時過ぎに目を覚まして、7時過ぎまでベットにいて、8時過ぎにシャワーを浴びてで、9時過ぎには出発した。復活祭月曜日で殆ど交通もなくブレーキも殆ど踏むことなく、10時過ぎに祝祭大劇場車庫入れとなった。

昨年は最終日にヘロヘロになっていたのだが、今回は大分楽だった。やはり「影のない女」と「エレクトラ」での疲労度が全然異なるという事だろう。それは音楽家にとっても同じことだったろう。それだけの価値があったということになる。

「イーディック」はビオデュナミを信仰している独高級ワイン協会会長の地所からのものだが、2007年はそれ程特別な年度ではなかった。そして最初から若干獣臭い味覚が特徴だったのだが、流石に50ユーロ程のものだけにまだ弱ってはいなかった。色は少し落ちてきていいるようだが、ヘナヘナにはなっていなかった。同じ価格でブルゴーニュの有名地所のものと比較すればどうかということになる。

石灰土壌で基本的にはミクロクリマなども似ているのだが、やはり葡萄が違う。上の劇場の座席の価格やその価値がどうかを吟味するのにもよく似ていて、そこまでのコストパファーマンスがあるのかどうかだけである。

最終日などのことでザルツブルク引っ越しのことをどうしても考えるのだが、その公演日程や滞在日程などが問題になる。



参照:
原発警備強化の物的根拠 2016-03-26 | ワイン
春の息吹を注ぎ込む 2024-03-26 | 音
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音響のドラマテュルギー

2024-04-01 | 
承前)新制作「エレクトラ」千秋楽を観た。文字列は初日と同じ感じがしたのは同じ席から見る光の加減だろうか。はっきりしているのは中日は撮影用に入念な演技をさせていたことで、初日と楽日は同じような印象だった。カメラは中日と楽日が同じように入っていたので、中日が映像で楽日の音声をはめ込むのだろう。

主役のシュテムメ以外は千秋楽が圧倒的に音楽的に頂点だった。何よりもベルリナーフィルハーモニカーによる管弦楽が私と同様に内容を漸く把握して来ていた感じで明白な表情が付けられていた。やはりの往路の車中ではベーム博士最後の制作録音を聴いていたのだが、分かれば分かるほどほど見事な演奏で、テムポ感はゆったりしているが恐らく現存する最高の制作映像である。ゲッツ・フリードリッヒの演出も悪くはない。

何が素晴らしいかというとやはり音楽が語る内容であって、漸く三回目の公演でペトレンコ指揮で語りだした。なるほどミュンヘンの劇場で振っていたならば最初からその効果はあったのだろうが、それでもフィルハーモニカーの様なダイナミックスを活かしてのポリフォニックな演奏は不可能だったろう。

その点でも昨年の「影のない女」以上にフィルハーモニカーの利点が表れた制作だった。同時に「サロメ」、「エレクトラ」、「ばらの騎士」の三代表作をどのように捉えるかでは南ドイツからのヴィーンへの視点の有無がある。その意味からも効果的に鳴らされたヴィーナーヴァルツァーはオーストリア国籍でヴィーンで学んだペトレンコがベルリンに根付かせた伝統になるものだった。この点に関しては今回のこの楽劇の内容としてとても重要な議論であるので、再考する。勿論来シーズンのオープニングにもってきているブルックナーの交響曲五番に深く関わっている。

既に言及したように、なぜフィンランドの小澤の天才性には比較に為らないが踊りの上手い指揮者が独墺圏では相手にされないか。そして端から歴史の中に組み込まれない意味のない作曲をしているのか。それは、楽劇「エレクトラ」の楽譜をハ長調に統一して仕舞えという西洋音楽への基本的な不理解がそこにあって、奇しくも金曜日に続いて最終日の月曜日にはシベリウスの協奏曲がなんとブラームスの前に演奏される。まさしくヴァ―クナーガラとこうした曲が音楽祭のプログラムになっていたのかのそのコンセプトが明らかになる。

序ながら、多くの日本からかのお客さんが集っていた。団体さんも入っていた。そして最後の音と同時に拍手が炸裂したことに驚いていた様子が聞こえた。上の中欧と北欧における西洋音楽の長短和声の差異以前に、その音響の受け取り方に明らかに差異があるという事だろう。

頻繁になされる右脳左脳の差異に通じるのかも知れないが、なぜか日本の好楽家は音楽を聴いて涙する。情感に触れるのだろう。そして音楽劇場というのはそうした情感を如何にドラマとして展開するかにその目的の全てが傾けられている。要するに音楽が琴線に触れるとかいうようには創作されていないのである。それならばどのように音楽劇場作品が創作されているか、この楽劇「エレクトラ」はそういう意味からもとても価値がある作品に違いない。(続く



参照:
浪漫的水準化の民族音楽 2024-03-30 | 音
聖金曜日からの不信感 2024-03-31 | 暦
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