自分は普段幸せだな~と思っていることが多い。それは、食べものにも困っていないし、風雨をしのぐ家もあるからだ。
でも、人と一緒にいると、「あなたは不幸なのよ、バカなのよ、水準以下なのよ」と指摘されて、とたんに人並みじゃなかったのか!最低の人間なのか?と思わされるときがあるのだ。
このあいだ、身内(私の実姉)が我が家に来た時も、「どこに寝るの?」ときた。
5畳ほどの私の部屋の、布団が1枚敷ける床を指差し、ここだと伝えると、
えっ、こんな狭いところに寝られるの?ときた。
寝られるよ。
布団が敷けるスペースがあれば、人間は布団からはみ出して寝ないんだから、充分である。
ところが、相手は納得しない。これでは狭すぎる、なんとかしたほうがいい。
床に布団を敷かないでベッドを置いたらどう?
等とアドバイスする。
ベッドなんかおいたら、箪笥の引き出しが開かないよ。部屋もせまくなっちゃうし。
私がこれでいいんだから、とやかく言わないでもらいたい。
次には、ダイニングで、テレビはどこ?ときた。
目の前あるだろ?(見えないわけないじゃん)
そこには、14インチのアナログテレビがあるのだ。
そりゃあ、あんたの家にみたいに50インチだか60インチのテレビはないんだよ。
でも、これで充分映るから、何の不便もないんだよ。
いつも大きな画面のテレビを見ている人には14インチのテレビが見えない(テレビとは判別できない)らしいね。
そして、極めつけは、私の気に入っているゴーヤのカーテンなんだ。
細い実がいっぱいなっているんだけど、それについて、自分の庭の菜園のゴーヤはもっと立派な実がついた、と言っていた
そうでしょう。地面だからね。
私は別にこれでいいんだ。思ったよりもいっぱいなってくれたし、緑のカーテンで日よけになるという目的を達成でき、満足している。毎日ゴーヤのカーテンを眺めて、夕涼みをするのが、至福の時なんだ。
ところが、先日、実家の母と電話で話していると、「あんたのところのゴーヤは、ぜんぜんだめだってね」と母が言ってきた。姉から聞いたんだと言う。ベランダのプランターじゃどうしようもない。本当に残念でした。ご愁傷さま。のような口ぶり。
はあっ?、私はこれでいいんですけど。ゴーヤもたべきれないほどなんですけど、何がわるいのでしょうか????
自分が満足していることをけなされるのは本当に気分が悪いのです。
そういえば、私が気に入っているワンピースも、袖の形が悪い、洋服の選び方が下手、等と言っていたっけ。
私は、べつにこれで満足しているのだ。その服は、私の腕が太く見えるとのことだが、私は腕が太く見えてもかまわないのだ。袖の形が悪いとも思わないし、いちいち完璧は服を探して買い物に行くような暇はないのだ。適当な値段の適当なデザインの服が近所の店に売ってればそれを買ってくるのだ。
遠くのアウトレットなんかに買い物にはいかなのだ。
「私はみんなバーゲンなのよ。この服も5万円が1万5千円で売ってたの、安いでしょ」等と“貧乏”ぶりを強調しているつもりらしい。
私は定価5000円以下の服しかかわないので、アウトレットなんか関係ないんだ。
人と交わると、なんか本当にいやな気分になってしまう。
家を見た感想は、「わらっちゃうわね~」だって。
もうちょっとなんとかしたほうがいい、という。
娘には、「結婚相手を選ぶ必要がある」と諭していた。
どういう意味だよ、それ。
自分の世界にこもり、自分の世界に満足していたいよ。
でも、人と一緒にいると、「あなたは不幸なのよ、バカなのよ、水準以下なのよ」と指摘されて、とたんに人並みじゃなかったのか!最低の人間なのか?と思わされるときがあるのだ。
このあいだ、身内(私の実姉)が我が家に来た時も、「どこに寝るの?」ときた。
5畳ほどの私の部屋の、布団が1枚敷ける床を指差し、ここだと伝えると、
えっ、こんな狭いところに寝られるの?ときた。
寝られるよ。
布団が敷けるスペースがあれば、人間は布団からはみ出して寝ないんだから、充分である。
ところが、相手は納得しない。これでは狭すぎる、なんとかしたほうがいい。
床に布団を敷かないでベッドを置いたらどう?
等とアドバイスする。
ベッドなんかおいたら、箪笥の引き出しが開かないよ。部屋もせまくなっちゃうし。
私がこれでいいんだから、とやかく言わないでもらいたい。
次には、ダイニングで、テレビはどこ?ときた。
目の前あるだろ?(見えないわけないじゃん)
そこには、14インチのアナログテレビがあるのだ。
そりゃあ、あんたの家にみたいに50インチだか60インチのテレビはないんだよ。
でも、これで充分映るから、何の不便もないんだよ。
いつも大きな画面のテレビを見ている人には14インチのテレビが見えない(テレビとは判別できない)らしいね。
そして、極めつけは、私の気に入っているゴーヤのカーテンなんだ。
細い実がいっぱいなっているんだけど、それについて、自分の庭の菜園のゴーヤはもっと立派な実がついた、と言っていた
そうでしょう。地面だからね。
私は別にこれでいいんだ。思ったよりもいっぱいなってくれたし、緑のカーテンで日よけになるという目的を達成でき、満足している。毎日ゴーヤのカーテンを眺めて、夕涼みをするのが、至福の時なんだ。
ところが、先日、実家の母と電話で話していると、「あんたのところのゴーヤは、ぜんぜんだめだってね」と母が言ってきた。姉から聞いたんだと言う。ベランダのプランターじゃどうしようもない。本当に残念でした。ご愁傷さま。のような口ぶり。
はあっ?、私はこれでいいんですけど。ゴーヤもたべきれないほどなんですけど、何がわるいのでしょうか????
自分が満足していることをけなされるのは本当に気分が悪いのです。
そういえば、私が気に入っているワンピースも、袖の形が悪い、洋服の選び方が下手、等と言っていたっけ。
私は、べつにこれで満足しているのだ。その服は、私の腕が太く見えるとのことだが、私は腕が太く見えてもかまわないのだ。袖の形が悪いとも思わないし、いちいち完璧は服を探して買い物に行くような暇はないのだ。適当な値段の適当なデザインの服が近所の店に売ってればそれを買ってくるのだ。
遠くのアウトレットなんかに買い物にはいかなのだ。
「私はみんなバーゲンなのよ。この服も5万円が1万5千円で売ってたの、安いでしょ」等と“貧乏”ぶりを強調しているつもりらしい。
私は定価5000円以下の服しかかわないので、アウトレットなんか関係ないんだ。
人と交わると、なんか本当にいやな気分になってしまう。
家を見た感想は、「わらっちゃうわね~」だって。
もうちょっとなんとかしたほうがいい、という。
娘には、「結婚相手を選ぶ必要がある」と諭していた。
どういう意味だよ、それ。
自分の世界にこもり、自分の世界に満足していたいよ。