肝心な世田谷美術館の展示についてです。
といっても、正直なところ、運転が目的なので、展示が目的だったわけではありませんでした。駐車場が空いているためには、むしろ展示内容は人気がないほうがいいのです。
私にとっては、展示はなんでもいいのでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/05/61a08c76dbcc31dc83b49a63c522642d.jpg)
でも、よかったですよ。
今日やっていたのは、「フェリックス・ティオリエ写真展」です。
写真展なんてめったにいったことはありません。19世紀末、ビクトリアリズムの写真家ということで、かなり古いものです。まるで、フランスの絵画のようでした。しかし、昔は今のカメラと違って、大型でセットや調整に時間がかかり、一口に写真を撮るといっても、現代の様にシャッターを押す以前に、いろんな手間をかけなくてはならなかったので、並大抵のことではなかったのでしょう。まだまだ機械の性能も未熟なものだったようです。しかし、そんな時代にもかかわらず、目を見張るような写真ばかりでした。
絵に見る肖像画と同じように、写真の肖像もすごいものですね。それに、当時存在した動物や人間の表情が、とても現実的と言うか、味があって存在感があって、「ああ、生きていたんだなあ」と、何か胸がいっぱいになるような写真が多かったです。
今はもう影も形もないけれど、確かにそこに存在したんだという証拠です。それは、絵ではなく写真ですから、現実ですね。
時とともに過ぎ去って消えてしまう生活や活動。そのはかなさがよけいにすばらしさとなって光るような気がします。炭鉱で働く労働者の姿とか、レースを編む夫人とか。
現代だったらどうなんだろう。パソコンの前で働く労働者の姿は光り輝いて写真や絵画となるのだろうか。スーパーやコンビニ、ファストフード店で働く人たちもきっと絵になるはずですよね、同じ人間なんだから。電車の中で携帯に向かう人々っていうのは、味のあるものなのかな?同じ人間なんだから、味が無くちゃ困るじゃないかと思うけど、どうなんだろうなあ。ゲームに夢中になる子供とか、そういうのって、奇異なものとしか描かれないような気がします。心温まったりはしないような・・・。
昔と今を比べると、ちょっと複雑な気分かな。今も世も、すばらしくありたいですよね。
このフェリックス・ティオリエと言う人は、14歳くらいで父親を亡くし、10代から働いており、20代になってから写真を学び、37歳くさいでリボン工場の仕事を辞めて、写真集の仕事に携わり、それから写真の道に進んで、53歳くらいで世に認められたようだ。(記憶が違ってたらすみません。)最初は、画家の画集を手掛けたりして、絵を写真に撮るということをしていたようだ。だから、写真も絵画のようだったりする。考古学にも貢献したらしい。
彼の孫たちの写真は、農村の子どもとは違って見るからに服装もきちんとしていて、育ちがよさそうな感じだった。生活に困ることはなかったようだ。
興味深いのは、写真機の会社(?)からの手紙であり、機材のガラス板について、取りあえず送るが、開発中であり、それは性能がまだよくできていないので、お代はいらない、等と言う内容のものがあった。ティオリエは、イギリス製ではなく、ドイツ製のガラス板に良いものを見つけたようであり、そのことについても手紙がある。ドイツは進んでいたのかな。
写真というものが、機械を使うものである以上、その性能が作品を左右することはいうまでもない。となると、新しい機械を開発することにかかってくるし、それをどう使いこなすか、という試行錯誤が、写真家と写真機を作る会社とによってなされていたというのがよくわかった。
今日展示されていた写真は、本人が発表したものではなく、子孫が発見して世に出したものなのだそうだ。
1900年のパリの万博で建築物を作っている最中に写真や、地下鉄工事の写真など、藝術作品というよりも、報道や記録としての意味のあるものもあり、非常に興味深かった。
この展覧会は、今日が最終日であり、たまたまこれが見れたのもよかったなと思った。
といっても、正直なところ、運転が目的なので、展示が目的だったわけではありませんでした。駐車場が空いているためには、むしろ展示内容は人気がないほうがいいのです。
私にとっては、展示はなんでもいいのでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/05/61a08c76dbcc31dc83b49a63c522642d.jpg)
でも、よかったですよ。
今日やっていたのは、「フェリックス・ティオリエ写真展」です。
写真展なんてめったにいったことはありません。19世紀末、ビクトリアリズムの写真家ということで、かなり古いものです。まるで、フランスの絵画のようでした。しかし、昔は今のカメラと違って、大型でセットや調整に時間がかかり、一口に写真を撮るといっても、現代の様にシャッターを押す以前に、いろんな手間をかけなくてはならなかったので、並大抵のことではなかったのでしょう。まだまだ機械の性能も未熟なものだったようです。しかし、そんな時代にもかかわらず、目を見張るような写真ばかりでした。
絵に見る肖像画と同じように、写真の肖像もすごいものですね。それに、当時存在した動物や人間の表情が、とても現実的と言うか、味があって存在感があって、「ああ、生きていたんだなあ」と、何か胸がいっぱいになるような写真が多かったです。
今はもう影も形もないけれど、確かにそこに存在したんだという証拠です。それは、絵ではなく写真ですから、現実ですね。
時とともに過ぎ去って消えてしまう生活や活動。そのはかなさがよけいにすばらしさとなって光るような気がします。炭鉱で働く労働者の姿とか、レースを編む夫人とか。
現代だったらどうなんだろう。パソコンの前で働く労働者の姿は光り輝いて写真や絵画となるのだろうか。スーパーやコンビニ、ファストフード店で働く人たちもきっと絵になるはずですよね、同じ人間なんだから。電車の中で携帯に向かう人々っていうのは、味のあるものなのかな?同じ人間なんだから、味が無くちゃ困るじゃないかと思うけど、どうなんだろうなあ。ゲームに夢中になる子供とか、そういうのって、奇異なものとしか描かれないような気がします。心温まったりはしないような・・・。
昔と今を比べると、ちょっと複雑な気分かな。今も世も、すばらしくありたいですよね。
このフェリックス・ティオリエと言う人は、14歳くらいで父親を亡くし、10代から働いており、20代になってから写真を学び、37歳くさいでリボン工場の仕事を辞めて、写真集の仕事に携わり、それから写真の道に進んで、53歳くらいで世に認められたようだ。(記憶が違ってたらすみません。)最初は、画家の画集を手掛けたりして、絵を写真に撮るということをしていたようだ。だから、写真も絵画のようだったりする。考古学にも貢献したらしい。
彼の孫たちの写真は、農村の子どもとは違って見るからに服装もきちんとしていて、育ちがよさそうな感じだった。生活に困ることはなかったようだ。
興味深いのは、写真機の会社(?)からの手紙であり、機材のガラス板について、取りあえず送るが、開発中であり、それは性能がまだよくできていないので、お代はいらない、等と言う内容のものがあった。ティオリエは、イギリス製ではなく、ドイツ製のガラス板に良いものを見つけたようであり、そのことについても手紙がある。ドイツは進んでいたのかな。
写真というものが、機械を使うものである以上、その性能が作品を左右することはいうまでもない。となると、新しい機械を開発することにかかってくるし、それをどう使いこなすか、という試行錯誤が、写真家と写真機を作る会社とによってなされていたというのがよくわかった。
今日展示されていた写真は、本人が発表したものではなく、子孫が発見して世に出したものなのだそうだ。
1900年のパリの万博で建築物を作っている最中に写真や、地下鉄工事の写真など、藝術作品というよりも、報道や記録としての意味のあるものもあり、非常に興味深かった。
この展覧会は、今日が最終日であり、たまたまこれが見れたのもよかったなと思った。