先日、電車の中で向かい側に座っていた大学生が読んでいた本が気になった。
それは、夏目漱石の「思い出す事など」という随筆である。
私も学生の時に一応、夏目漱石の文学作品を研究した。しかし、授業では小説しかやらなかったので、この作品の中身については記憶がない。
1つ苦い経験がある。就職試験の時の面接で、短大では「夏目漱石を研究している」と話した。「どんな作品を読んだか」と聞かれたので「全部読みました」と答えた。そうしたら、面接官が、「書簡や日記も読んだのか」と聞いて来た。それで、ぎょっとして「いいえ、日記などは全部は読んでいません。小説は全部読みました」と答えた。
この時に受けた会社は、入社試験に落ちてしまった。
日記や書簡は、はたして「作品」なのか???文学評論も「作品」なのか???
その点は疑問にのこるが、「全部読んだ」と答えたのはまずかった。
で、この「思い出す事など」は、あきらかに「作品」である。しかし、記憶がない。
おもな小説を理解するための手段として、その背景となる日記や書簡、あるいは随筆などを読んで参考にしたと思うが、随筆自体を精読したことはないのだ。だから、ほとんど記憶がない。
そんなわけで、気になってこれがどういうものなのか、目を通してみた。
この作品が書かれたのは、1910年から1911年にかけてのことだ。なんと101年もたっているとは驚きである。当時、朝日新聞に連載されたものだそうだ。100年もたっているので、今は著作権も切れて青空文庫に入っている。
夏目漱石は1910年6月に胃潰瘍を悪くして、東京の内幸町にある胃腸病院に入院していたが、8月に伊豆の修善寺に転院した。そこで8月24日に大吐血を起こして、死にそうになった時期があった。
この随筆の最初はそのころのことが書かれている。
ちょうど、夏目漱石が生死をさまよっていたころに、東京の胃腸病院の院長が亡くなっていたことをあとで知らされた。それから、同じころ、ウィリアム・ジェイムズという哲学者も亡くなった事を知った。漱石は、時期を同じくして、生死が分かれ、自分が生き長らえたことを、深く受け止めている。
この亡くなったジェームス教授(ウィリアム・ジェイムズ)の弟は小説家(ヘンリー・ジェイムズ)である。
漱石の9月23日の日記には「午前ジェームスを読み了る。良い本を読んだと思う」とおぼつかない文字でしたためてあった、とのことだ。
原文
「教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記をしらべて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読みおわる。好い本を読んだと思う」と覚束ない文字で認めてある。名前や標題に騙されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩をなげ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。」
私が、電車の中で、「思い出す事など」を読んでいた学生を見たのが、偶然にも9月23日であった。
彼らは、下田行きの電車に乗っていたが、この本に関係する文学散歩であれば、修善寺に行くのがよさそうだ。もしかしたら、その日の夜は修善寺に泊まったのかもしれない。
「思い出す事など」を斜め読みして行くと、大雨が降った話が出てくる。奇しくも彼らが泊まったと思うその日の夜と翌日、伊豆は大雨だった。
原文の一部分
「雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆まさかに下くだる筧かけいの竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂ものうく室へやの中に呻吟しんぎんしつつ暮していた。人が寝静ねしずまると始めて夢を襲おそう(欄干らんかんから六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。」
まあ、物事を関連づけすぎているかもしれないが、宿に泊まった学生たちは、こんな感じを味わうことができたかもしれない。
この随筆は、意外に長いし、意外に難しくて、途中からは文字の上を目が素通りし始め、今夜はついに読むのをやめた。
いつか、ちゃんと読んでみよう。
それは、夏目漱石の「思い出す事など」という随筆である。
私も学生の時に一応、夏目漱石の文学作品を研究した。しかし、授業では小説しかやらなかったので、この作品の中身については記憶がない。
1つ苦い経験がある。就職試験の時の面接で、短大では「夏目漱石を研究している」と話した。「どんな作品を読んだか」と聞かれたので「全部読みました」と答えた。そうしたら、面接官が、「書簡や日記も読んだのか」と聞いて来た。それで、ぎょっとして「いいえ、日記などは全部は読んでいません。小説は全部読みました」と答えた。
この時に受けた会社は、入社試験に落ちてしまった。
日記や書簡は、はたして「作品」なのか???文学評論も「作品」なのか???
その点は疑問にのこるが、「全部読んだ」と答えたのはまずかった。
で、この「思い出す事など」は、あきらかに「作品」である。しかし、記憶がない。
おもな小説を理解するための手段として、その背景となる日記や書簡、あるいは随筆などを読んで参考にしたと思うが、随筆自体を精読したことはないのだ。だから、ほとんど記憶がない。
そんなわけで、気になってこれがどういうものなのか、目を通してみた。
この作品が書かれたのは、1910年から1911年にかけてのことだ。なんと101年もたっているとは驚きである。当時、朝日新聞に連載されたものだそうだ。100年もたっているので、今は著作権も切れて青空文庫に入っている。
夏目漱石は1910年6月に胃潰瘍を悪くして、東京の内幸町にある胃腸病院に入院していたが、8月に伊豆の修善寺に転院した。そこで8月24日に大吐血を起こして、死にそうになった時期があった。
この随筆の最初はそのころのことが書かれている。
ちょうど、夏目漱石が生死をさまよっていたころに、東京の胃腸病院の院長が亡くなっていたことをあとで知らされた。それから、同じころ、ウィリアム・ジェイムズという哲学者も亡くなった事を知った。漱石は、時期を同じくして、生死が分かれ、自分が生き長らえたことを、深く受け止めている。
この亡くなったジェームス教授(ウィリアム・ジェイムズ)の弟は小説家(ヘンリー・ジェイムズ)である。
漱石の9月23日の日記には「午前ジェームスを読み了る。良い本を読んだと思う」とおぼつかない文字でしたためてあった、とのことだ。
原文
「教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記をしらべて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読みおわる。好い本を読んだと思う」と覚束ない文字で認めてある。名前や標題に騙されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩をなげ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。」
私が、電車の中で、「思い出す事など」を読んでいた学生を見たのが、偶然にも9月23日であった。
彼らは、下田行きの電車に乗っていたが、この本に関係する文学散歩であれば、修善寺に行くのがよさそうだ。もしかしたら、その日の夜は修善寺に泊まったのかもしれない。
「思い出す事など」を斜め読みして行くと、大雨が降った話が出てくる。奇しくも彼らが泊まったと思うその日の夜と翌日、伊豆は大雨だった。
原文の一部分
「雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆まさかに下くだる筧かけいの竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂ものうく室へやの中に呻吟しんぎんしつつ暮していた。人が寝静ねしずまると始めて夢を襲おそう(欄干らんかんから六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。」
まあ、物事を関連づけすぎているかもしれないが、宿に泊まった学生たちは、こんな感じを味わうことができたかもしれない。
この随筆は、意外に長いし、意外に難しくて、途中からは文字の上を目が素通りし始め、今夜はついに読むのをやめた。
いつか、ちゃんと読んでみよう。