久々に芝居を見てシビれた。劇場に入った瞬間からこれは本気に芝居だ、ということがビンビン伝わってきた。まず、舞台美術が素晴らしい。この狭い空間に的確に必要なものがちゃんと乗せられている。そこからはここで忌まわしいできごとが起きる予感がひしひしと伝わってくるのだ。通夜が行われているのは、ここではない。桐野家の父親の死から始まるこのドラマの舞台は、家の裏手に立てられたプレハブの前。ここは本編の主人公である義男の部屋だ。ペンペン草が生えている。宇治川の堤防沿い、家の裏手で、ここにすでに父親よりも先に死んでいる息子が帰ってくる。正面からではなく、この芝居は背後からここで起きたできごとを描こうとする。そして、これは幻のお話である。幻のように消えていった少年の想いがこの作品のすべてだ。
とても静かな芝居だ。時々猫が車にはねられ死んでいく音がここにまで聞こえてくる。義男の部屋の前。離れに建つプレハブの小屋。そこですべてのお話は展開していく。義男は学校になじめない。というか、世界と折り合いをつけかねる。自分が性的マイノリティであることを認めきれない。自分の性情を受け入れてもらいたい。だけど、そんなことは不可能だ。誰にもカミングアウト出来ないまま、悶々とした日々を送る。たったひとりの親友にすら、ちゃんと言えない。姉だけはわかってくれているみたいだけど、鬱屈とした想いをはき出す術もなく、生きていた。そんな高校時代と、死者として帰ってきた今の時間が交錯する。
芝居は、通夜の席を抜け出してきた親友である透との再会から始まる。これはこの2人の少年たちの友情物語だ。そこに彼らの周囲にいる2人の少女が絡んでくる。(義男の姉とその親友)そして、これはある家族の話でもある。
両親を演じる織田拓己と秋津ねをの存在感のなさが、とてもいい。子どもたちの前に立ちはだかる存在であるはずなのに、そうじゃないのだ。自信なさげな立ち居振る舞い。本来ならこの役は大柄で、威圧感のある役者が演じる方がわかりやすい。だが、この芝居はわざと、そういうルーティーンを踏まない。彼の小ささの前で、義男はそんな父に立ち向かえない。ねをさんが演じる母親も優しいだけで、存在感がない。彼女の所在なさげな姿がとてもいい。この作品はわかりやすい図式から限りなく遠いところにある。
猫を助けようとして、死んでしまった姉。戦場で拉致されISに殺された弟。(イラクでのシーンがすべて暗転で描かれる。彼の出国から死までを暗転だけで見せる。その3分間がとても長く感じられる。あの息苦しさ!)ふたりの子どもたちを続けて失った夫婦。そして、今、死んでしまった父親。3つの死をたったひとりで受け止める母親。だが、この芝居はそんな悲惨な事件を描くのではない。
ここで起きたことは、なかなか明らかにされない。でも、とても静かに小出しで、語られていく。彼らの物語は、それが何なのかを描くのではなく、彼らの心のざわざわしたものを、提示していく。これはストーリーを見せる芝居ではない。この場所と、家族の姿をゆっくりとみつめていくことで見えてくるもの。それを描く。義男の焦燥、姉との関係。学校での立場。父との確執。透とのこと。そんなささやかな日常の風景こそが描きたかったものだろう。
身の置き場をなくした少年が、ひとりのカメラマンと出会い、外の世界にあこがれを見いだす。彼の暮らす狭い世界と、ここではない広い外の世界の対比。写真は彼を変える。化粧をすることが、彼に勇気を与える。浴衣を着て透と手を繋いで、花火大会に行きたかったこと。果たせなかった約束。死んでいくことで、ようやく自分の望みを叶える。その心象風景が魂の旅として完結する。異国での拉致監禁殺害という遠くでの出来事も含めて遠くからこの狭い世界を照射する。その距離感がおもしろい。