「終わり」から始まる80分ほどのお芝居は、もちろんラストで「始まり」を迎える。ということは、この芝居のなかにはなにもない、ということだ。なにもないものをずっと80分間みつめていくと、そこから「何か」が生まれてくる。そんな気にさせられる。ここには一貫したストーリーはなく、コラージュされるいくつもの断片は、ラストで集約されひとつに、はならない。ただ、そのまま、そこにとっ散らかったままで、放置されていく。
お話の「周縁」が綴られていくこのお芝居の「終演」が「終焉」になったとき、きっと本当の物語がここから始まるんだよ、という、ただそれだけのことが言いたくて、こんなにもまどろっこしい芝居を作る。こういうメタフィクションは珍しくはないけど、それをつくり手がちゃんと楽しめているからこれはこれでいいと思う。よくわからないまま、生きていくことと向き合う。
そして、生きていることって(たぶん、)そんなふうにして、回り道ばかりで、どこにもたどりつかないのが現実なのだ。それでいい。それがいいと、認めることができたとき、たった1歩の前進がある。成長だってあるかもしれない。
彼らはきっとそんな芝居を作りたかったのだろう。僕はこういうめんどくさいものって、とても素敵だと思うし、好きです。