若手劇団で、デビュー作で、いきなりHepホールで公演を行うなんて、もうそれだけで大胆。しかも、よくある派手で、わかりやすくて、楽しいエンタメではなく、地味な家庭劇。ひとりよがりスレスレのラインで勝負を賭けるのも、作り手の自信と若さの証明だろう。なんだかそれだけでドキドキするではないか。
一体これは何なのか、わからないまま、ストーリーが進んでいく。3つのエピソードが提示され、それが程良いところで融合してお話の本題へと、緩やかに移行していく語り口はなめらか。猫と男。だが、猫が主人で、男が下僕であるようだ。彼らが見守るのが、ある2組の家族。1組は若いカップル。DV男と彼に暴力を受けながらも彼を愛する女。もう1組は4人家族。夫婦と、2人の子供。大学生の兄と高校生の妹。だが、兄は味覚を無くしている。いろんなことに対して反応がない。家族は腫れ物に触るように彼を持て余している。
事故が起こる。DV男の車が大学生の兄とぶつかり、ふたりは死ぬ。いや、まだ死んでいない。轢き殺した男が死に、轢かれた男が生きる。事故の瞬間ふたりの人格が入れ替わるのだ。そこからお話が始まる。『転校生』の変化球。ただし、一人は霊魂になり、生きているほうに付きまとう。ふたりはひとりとして、それぞれの家族と接する。
こんなふうに書くと実に単純でわかりやすいのだが、芝居自体はそこから想起されるハートウォーミングとはいささか趣を異にする。居心地のよい芝居なんかではない。それどころか気持ち悪い。それは内容がではなく、芝居の展開のさせ方が、である。パターン通りにすると、わかりやすい展開になるのだが、敢えてモタモタした展開を選ぶようなのだ。それは台本の不備なのか、演出の拙さなのか、というくらいに作り手側の問題なのだが、それが僕には興味深い。
それが下手から出た真、っていうような意外性を発揮しているのだ。彼らのもどかしさが、この芝居に奥行きを与える。簡単には落ち着かないのだ。人格が入れ替わることで、今までの自分から解放されていく、というお決まりの展開に、作品が意義申し立てをする。と、いうような印象を受けた。
収まりどころの悪さ。もどかしさは、下手ということと同義だが、それが結果的に、この作品を単純さから救い、さらにはこの作品の後味の悪さを提起する。最後に主人公である兄の選択する、自分じゃない体で他人として生きていく覚悟(だって自分は引き殺されたのに、ひき逃げ犯として生きるのだ!)が、決してさわやかなラストではない。
落ち着きどころが悪いのだ。芝居の収まりの悪さが、なんだか後に尾を引く。それは、事故を起こして人を殺したのに、自分が死んでいくDV男にしても同じだ。後ろ髪引かれる。表面上はまるで何もなかったかのように、振る舞う彼らの周囲の家族もそうだ。事故で息子を死なせたのに、恋人がひき逃げで失踪しているのに。
作品全体の整合性という面では穴だらけなのだが、ここからは、簡単には、理に落ちないぞ、という作り手の覚悟が確かに伝わる。そこが好ましい。これは決して安易な芝居ではない。これは不遜で、十分に挑発的な作品なのだ。そこがなんだかうれしい。