君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

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川口由一さん インタビュー 美しき人生の全う

2018年11月27日 | 自然農川口由一の世界

美しき人生の全う

川口由一さん インタビュー 2018.9

 

八木 装飾について、どのような心の動きでそのようになるのか、川口さんの見方をお聞きしたいのですが。一つには人の身体のところで爪に色を塗るとか耳に穴をあけるなど、そういったことはどのように感じられますか。

 

川口さん それは自分の身体の内に宿している魂や心や精神や思想や哲学や芸術性、あるいは宗教性を美しく養って決して醜悪に落ちることなき人間性の成長を成すべくのことではなくて、身体を表面的に飾ることでしょう。そのことによって自己顕示をする、自己足らんとする、自己主張する、そうしたことは飾ったものに依存していることになりますね。依存しているということはしっかりと自立せずに人としての成長を怠り、そこに逃避しているということにもなります。やがては枝葉で力をつけて依存の裏側の支配に変わることにもなりますね。他を支配するという在り方、生き方に変化することにもなって、人の正しい道からはずれることになり不幸に陥っていくことにもなります。こうした装飾は真の美意識からもはずれたものであって、例えば桜の花にピンク色のカラーを吹きつけるとさらにきれいだと思い考え、野の草に緑のペンキを塗ったり模様をつけたりしたくなるのと相似たことですね。人間も自然そのもので与えられた身体が最も美しいのに、そこに何かつけ加えるわけでしょう、それは最善の在り方からはずれておりマイナスになります。身体そのものが美しいのですから、そのことに気付かないと残念です。心身ともに健康体であれば美しくて爪はきれいであり、不健康になれば爪は波打ってくるし色は紫色を帯びたり輝きがなくなったりします。身と心の健康を維持し損ねることなくさらに育っていかないといけません。その人に美しい情緒や輝きを発するのは内なる人間性からです。爪にいろいろの色や発光色を塗るというのが最近多くなってきていますが、身を飾る場合、そっと添えるのであればその人のその時の彩りとなって生かすことになりますが、だんだんエスカレートしている今日は極端に色濃く多く厚く異常になってきていますね。美しい人間性の発露を基として真に美しい装飾で、素敵で、立派な人間性の高い優れた魅力のある人とならねばなりません。装飾したことによって人としての程度の低さや俗っぽさを現わすことにならぬようにいたさねば残念なことになります。ふさわしくないあらぬことをして納得するとか、安心するとか落ち着くとか、そうしたことになるのは装飾したものに依存しているのであって本当に残念です。綺麗な耳に穴をあけて負担をかけるとか、人として大切な美しい肌に直接何かを描き込むなどは、かけがえのない健康で綺麗な肌のところに生きている人間の美しさを失くすことになります。もちろん大切な生体を傷つけ損ねることになります。そうした行為に走らず心の平安を得ることが大切です。多くは自己不信からくる付け加えであり装飾になっているのですね。与えられた肉体を尊いものとして大切にしながら人間性を養い育ち成長してゆくことによって、自ずからに信が入るものであって美しく心豊かになります。観る目を養い持っている他者からも豊かな美しい人に見えるものです。基本のところからはずれている姿は寂しい姿でもあり、我を見失っているゆえのあらぬ執着は当人が最も心安まりません。もっともっと刺激の多いものを求めるようにもなっていきます。お金に依存する、物質に依存するということにもなり、その依存が顕著になってますます不幸に陥ることになると大変です。他をも自らをも損ねることにもなります。なんとも素晴らしい肉体を与えられているのに。さらに素晴らしい人間性を養うべくのいろんな感覚や感情、視覚や聴覚、触覚や味覚を、あるいは智力能力や察知力、夢想力、行動力、成長能力、審美眼や芸術力、真の美を好み表現するセンスを与えられているのです。それらを正しく大いに豊かに働かせて真の美の創造、創出、そして真の幸福に、美しい人生の全うに至るものでありたいですね。本当にすぐれた美しい人に育つべくの生き方、在り方でないと取り返しのつかない残念な人生、淋しい不幸な人生に陥り一生を終えることになります。

 

八木 何よりも与えられているいのちを大切に真善美に生きるよう心がけたいと思っていますが・・・。

 

川口さん そうですね、大切な基本となる心がけであり生き方ですね。そのうえで真善美に執着せず、解放されたなかで美しく、善なる日々を、真なる誠の日々を生きたいですね。執着心が曇りとなりますので要注意です。真の人に成る、善なる人に成る、美しい人に成るというのは、内なる心のこと人間性のことであり、そのように成長して真善美に生きることが大切です。そのためには真、善、美への執着に落ちない境地を得て宇宙に一人美しく立ち美しく生きる強さがいります。美に執着することなく解放された状態で、真なる人に、善なる人に、美なる人に、一人で宇宙に立って真に善に美に生きないといけないのですね。相対界を超えて絶対界に立つ、宇宙を得る。そのことによってとらわれのない自由のなかで人としての真に正しい道を生きることができます。真に美しい人生を創出することができます。宇宙を得た境地、美醜・善悪・真贋の相対する境地を超えて、絶対の境地を体得して、人間性の成長、崇高なる精神、聖なる霊魂魂魄に養い育って、存在の根底から依存することなく美しくある、真である、善である、すぐれた人に育ってすぐれた仕事をする、役目・天命・使命を果たせる人に成る。真にすぐれた人間に育ち生きて、一度きりの今生、このいのちの根底より人として納得する生き方をしたいですね。心平和で心豊かで心美しく心楽しい人生でありたいですね。

 

八木 絶対なる境地を体得するよう育つには、何が最も大切でしょうか。

 

川口さん 一人で生きることの強さ、人の道を明らかとしてはずれない強さ、絶対世界における相対世界に存在する我であることを悟り知って、相対世界で自と他の別に落ちて対立したり、孤立したり、争ったり、競ったりせずに一体の境地、絶対の境地の体得と人間性の成長に向かって励むことが大切です。誰しもが成長できる人であるのですから。絶対の境地は人本来のところなのですから。最も生きやすいところ、曇ることなき明るく楽しいところなのですね。

 

八木 川口さんに初めてお会いした頃、その当時50代の川口さんは何ものにも依存せず一人でしっかりと立たれておられることを感じました。そのような在り方にたどり着かれたこれまでの生き方についてお話しを聞かせてください。

 

川口さん もちろんこれらの境地のこと、絶対界における相対界のこと、生まれてきた私たち人間も相対界の存在である等々のことは、少年時代、青年時代は正確に認識していませんでした。僕は生まれながらの農夫で、田んぼに立つというのは宇宙自然界生命界に身をおいて、すなわち宇宙空間に身を置いて一人で作業をするわけでしょう。一人で営む、一人で仕事をする、一人で時の流れとなって作業を行なう、一人で生きる日々でしょう。そうした日々のなかで養われたのだと思います。それと人としての本来の正しい道でのことですが、僕は他を支配するという行為行動力は元々少なくて好まない性質であり、枝葉のところで自分を主張するとか、あっと言わせるとか、反対に他に依存するとか生きることから逃避するとか、そうした行為行動に走らなくて、なんとか必死で生きてきたと思います。年重ねるにつれてさらに救われるべく取り組んできました。なぜそうなってきたのかを省みると、心の底から本当に納得し気持ちの落ち着く在り方をしたい、後で悔いの残らない在り方をしたいと強く思うようになっていきました。少しでも道から外れた在り方をすると悔いが残り心が暗くなるのです。そんな状態になると心が落ち着かず安堵しないのでした。

 

 また少年時代に父が入浴中に心臓が止まって突然死んでしまい、冷たくなり死臭を放ち土中に埋められました。生と死のことは何もわからぬいまだ幼い僕に゛僕もやがて死ぬんだ゛という事実をつきつけられて、強い深い不安と怖れに襲われとりつかれるなんともつらい日々となり、なんとか不安と怖れから救われたい思いが強くなったのです。同時にいまだ幼い僕は生きている間に生ききりたい、育ちたい、人として正しい道からはずれるとなんともつらい、淋しい、悲しい、つい我を見失ってしまう、僕は何なのかわからない、こうした不安と不幸に落ちないためにいかにあれば良いのか、我を治めて正しく生きるに欠かせないことがある、その強さを養いたいとの強い思いから境地のことを考えるようになったと思います。人本来の正しい人の道を明らかとし、実際に答えを生きることの強さと本来よりの絶対の境地の必要さ、絶対の境地の体得が欠かせないと気付き取り組んできました。そうしたなかで少しずつ少しずつ救われてきました。

 

八木 幼い頃から心が救われる生き方を求められ、一人で田畑に立つことで一人で生きる強さを身につけてこられ、さらに納得のいく人生へと日々実践されての今の川口さんなのですね。とてもよくわかりました。それでは続けて、成熟にむけて大切なこと、老年期あるいは人生を全うすることについてのお話しをお願いいたします。

 

川口さん そうですね、その年齢に応じての全き在り方があるのですね。自然界の多くは、例えばお米はその時期時期を自ずから全うしているのですが、人間の場合はそこからはずれるでしょう。はずれないように生きないとだめなのにはずれてしまう。もちろん乳幼児期ははずれることがないのですが、青年期、壮年期、老年期になるとはずれてしまうのですね。その時期時期を全うする生き方や、人本来の道からはずれがちな人間であることを自覚することが必要です。その上でその年齢におけるあるべき在り様を明確に認識する。人の道を全うする、いのちの道を全うする、それでいてその年代に応じての生き方を全うする。例えば老年期に青年期のような生き方になればだめですし、あるいは老年期に乳幼児期のような生き方は絶対だめでしょう。心は少年のようなおさな心の純粋さを持っていないとだめですが、具体的な生き方においては、その年代に応じての生き方がありますね。ところで、老年期は人生において最も成熟した年代で、最も多く生きてきた年齢になっていますから、最も成熟した人としての姿を現す中で、それぞれそれぞれの仕事や役目、使命、天命を果たしていかないといけない時期です。自分の人生にとって、家族にとって、地域にとって、国にとって、人類全体にとって、老年期を全うしての役目は大事なことです。欠かすことのできない老年期を生きる人々の働きです。老年期は老年期の全き姿を生きることは、当人にとっても人類にとっても是非に必要です。老いての執着に陥ってはいけないし、逃避してはいけないし、道から外れてはいけないし、いのちの道、人の道から外れないで、全うしなければなりません。ところで正しく生きるのはいずれの年代も容易ではありませんね。老年期においても人の道、いのちの道、我が道を全うするのはなかなか容易ではないですね。ところが、先ほど話しましたお米ですが約七か月の一生、老年期に入るほどに成熟し絶妙に生ききって一生を全うして死に至ります。完結です。その結果、多くの善き美しい真のいのちをたくさん育て上げているのです。お米は三千~四千、四千~五千と新たないのちを産み育てあげて一生を全うします。いのちからのいのちの実りが、次のいのちであってすごいですね。人もまた人としての実りを、成熟した人生の結実を果たして当然なのですね。


八木 ところで画家の横山大観さんは壮年期には素晴らしい作品を描かれていますが老年期には衰退した淋しい姿を見せておられるようです。大観さんは老年期にいかにあられたら良かったのでしょうか。

 

川口さん 横山大観さんの青年期はいまだ真の我に至らず育たずの作品ですが、壮年期の中期から後半期には人としても芸術家としても育たれ、美しい情緒の色濃い絵を描かれています。ところが老年期に入ると作品に生命が宿らず情緒も枯れ、気力も衰退した作品になりますね。作品はその人の姿、大観さんの人間性そのものです。次の機会に人としての年齢を追っての生まれ出づる作品を観てゆきたく思います。

 

八木 はい、楽しみにしております。それでは、人のそれぞれの時期について全き在り方を示していただけますか。

 

川口さん 胎児期、乳幼児期、少年少女期、青年期、壮年期、老年期、死期、に分けて、全き在り方、人本来の正しい在り方、幸福に至る在り方、救われる在り方、心平和で生きることのできる在り方・・・を考えてみます。

 

 全時期いずれも100%他に生かされ100%自分で生きなければならないのですね。他力100%自力100%です。その上で自他の別を超えてその時その時、その時期その時期を生きる。そして死に運ばれ死に至る。日々の生活の生きる基本となる食べて排泄する、住居する、寝る・・・等においては、乳幼児期は最も他に依存度多く他に助けられてのことです。やがて少年少女期、さらに青年期へと成長と共に依存は減少し、自立力が養われて、自立の割合、自立の程度が増していきます。やがて壮年期に入るころには自立して我が道、人の道、いのちの道を得て、人生における役目・使命・天命を生きて全うしてゆきます。大きな大切な働きをするなかで少しずつ老年期となり、老年期の役目、務め、天命、使命を生きる日々の後半には衰えが始まり、死期が近づくにつれて再び他に依存、他に助けられてのことになります。この自ずからの依存はいのちの営みから生じることであり、老年期の後半における全きことです。手助けも見守りも当然自然のことです。これらの時期の運命を認識し受け容れて、その時期時期を全うせねばなりません。もちろん全うすることができることです。乳幼児期はお母さんのおっぱいを自力で飲み、自力で消化吸収し、自力で抱かれ、自力で安心に至って心身共の成長を成していきます。受ける側の幼児も与える側の母親いずれも自ずからであり当然のことであり、その時期その立場を全うして生きています。いのちある者、人として生まれてきた者の運命をあたり前に自然に生きているのです。生まれて来ることも育つことも老いていくことも死に行くことも運命を全うしているのです。あたり前に自然にです。生育も老いも男に生まれくるも女に生まれくるも自ずから然らしむる運命を生きて全うです。その上で時期時期の全き在り方を考えてみます。

 

 乳幼児期は一人立ちできない未熟期であって依存する、助けてもらう、任せる、甘える・・ことが乳幼児期を生きる全き姿です。ところでいかなる年齢においても他との関係において、問題が生じるものです。乳幼児期においても、乳幼児の都合、思い、願い、事情が内なる心からも肉体からも生じます。母親、父親、祖父母や他の家族の事情や思いや願いや心や肉体から生じるものも当然あり、両者の事情から乳幼児も辛い思い悲しい思い不満や残念な想いや不安や恐れや閉ざされている思い、圧迫される状態等々、限りなく生じているはずです。認識せずしてそうしたことが存在のなかで生じており、感じる能力、察知能力を与えられているゆえに人としての心の内における苦労を日々事々においてしており乳幼児も取り組んでいます。もちろん反対のうれしいこと、ありがたく思うこと、よろこび、しあわせ、心平和、安心、あるいは善なる意欲や智恵や美しい情緒の調べを乳幼児も得ています。こうしたことも生きていく上で必要な智力能力を養い、人として成長してゆくことになってゆくものであり、年齢に応じて時期に応じて、夫々に応じて必ず行っているものであって、゛今を生きている゛゛時期を生きている゛゛自分を生きている゛ということです。こうしたことも゛全うしている゛ということになります。乳幼児期、あるいは体内における胎児期においても、当然一人で存在の根底から必死に生きて胎児期を全うしているものであって、この時期を全うして日々に育っています。

 

 やがて少年少女期に至りますが、この時期にはすでに生きるに必要な智力能力と幸福の一生を生きるべくに欠かせぬ人間性の基本となる智情意を中心として総合的に育つべく取り組み始めています。認識と意識を越えたところから、あるいは認識や意識を通して思い考え思索し少年少女期を生きています。もちろんいまだ自立に至らず両親祖父母や大人たちに依存したなかで自立に向け成長に向けてこの時期を全うしているのであって、親は、大人はこのことを承知したうえで、親として役目、務め、使命を行ない、見守り育て、手を貸し、共に生活し、共に生きていなければなりません。いまだ未成人の少年少女にとっては、親として大人としての全き在り方、生き方が必要になります。やがて少年少女期で年重ねるなかで、自我に目覚める、自我を自覚する、自分を意識する、認識する。さらにいろいろのことに生きるなかで出会い経験をして、意識して自立へと育ちゆく年齢に入ります。自我というのは無数にある他に対しての自分という位置づけの自覚と認識と、宇宙自然界生命界における自ずからなる分としての位置づけの認識と自覚、この二つの面での自我の目覚めです。もちろん宇宙自然界における分の認識はまだ少しで薄いものですが、無意識裡ではあっても内には感じ持っているものです。そして多くは自己本位の自分、他の確かなる存在から生まれる自我の目覚め自覚の始まりです。出来る限り多く広く深く確かなる自我の目覚め自覚確立への作業がこの時期においても全き在り方です。もちろんいつの年代にも重要な思索であり全うする作業です。

 

 そして青年期です。青年期の全きを生きるなかで混沌、混乱、暗闇、うす明かり、自信、過信、自己らしくなる、自己をすっかり失う、迷路、邪路、・・・・、等々、真の自己確立、自我の目覚めが小我に陥ったり、小我を超えて大我、真我へと育つ要素も身につき、自己本位の小我がさらに我執に落ち、執着深くなって偏執狂の不幸へと衰退するところから離れて、すぐれた人格に育ちゆくべく取り組むことが青年期の全き生き方、重要な在り方です。青年期を全うしないと壮年期へと全き人として進むことはできません。善悪、真贋、美醜の別を明らかとし、我が内なる人間性においても別を明らかとして、醜悪贋から離れて真の人として育ちゆくことのできる道を得ていかなければなりません。青年期を終える頃には、人の道を明らかとして自ずからの人間性を養いつつ、我が一生の道を見出さねばなりません。農に携わるのか、教育者になるのか、政治家としての一生にするのか、治療者として病人を助ける道を選ぶのか、あるいは芸術家、宗教者、諸々の生きる基本となる生活に欠かすことのできない職人さん、・・・・今日まで生きてきた中から自分の資質を知り、好む仕事を明らかとして、我が道を得る時期です。やがて壮年期、40代に入る頃です。

 

 この壮年期の前半は、我が道における分野の本質を明らかとして、平行して存在している、生きている、生かされている、この舞台である始めなく終わることなき無始無終であり果てなき広大無辺なる宇宙生命界をよく観つめ、宇宙の実相実体、最も身近な地球の実相実体、同時に微小(ミクロ)なるいのちの実相実体を明らかにする思索、追求も欠かせません。我れを知り、人類を知り、存在するすべて、現象界相対界の実相実体をも知ってゆくことがやはり大切であり欠かせない重要なことになります。人生の後半に入る青年期からのやるべきことであり、壮年期、老年期、死期へと生きている間もやり続けることが必要であり重要なことです。そのことによって、いのちの道も明らかとなり、我が道、人の道と共に得て悟り、大人となり成人してのよろこびの人生、意義深い人生、生きる意味を悟る人生ともなります。役目、使命、天命の全うともなります。壮年期前半は精神的要素も多く働き育ちゆく日々であり、肉体も最も大いに働く年代です。

 やがて壮年期後半に入るにつれて最も肉体も精神も深く厚く高く聖にして美しい善なる真なる働きを実践できてゆく年代です。かように生きることが壮年期、全盛時の全き生きる姿です。やがて少しずつ老年期に運ばれてゆきます。生まれること、育つこと、花咲き実ること、次のいのちを産み育て上げること、そして成熟すること、老いること、死ぬこと、いずれも同一なるいのちの営みから生じるできごとです。育つこと、成熟すること、老いること、死ぬこと、生まれること、みな同じ営みからのことなのですから、いのちの世界は本当に摩訶不思議、そのようにしかならない存在であり、そこにおける今日であり、明日であり、昨日だったのです。宇宙現象界におけるすべての姿形を現わしているもの、地球も月も太陽も無数の星々、そして無数の生物・無生物、現象界に存在したもの、今後存在するものすべてしかりです。すべてが同じ運命における生の期間でもあり、死に運ばれる今生なのです。そしてそれぞれ与えられている生の期間は過不足なしで、絶妙に生きて全うできるいのちとして生まれてきており、人は人として100年前後の時空間を幸福によろこびに平和に楽しく生きることができる生命体として数十万年、数百万年前に誕生してきたのです。無目的に自然に。宇宙に存在するすべてが誕生も日々刻々の変化も死も無目的なのです。こうしたすべてを有らしむる宇宙本体も無目的の存在です。なんともすごい世界に誕生してきた私たち人類も無目的の誕生であり、やがては無目的の死でありますが、完全絶妙に生きて幸福に平和に全うすることのできるべく誕生してきているのですね。

 

 老年期は一生の最後となる時期です。精神、霊魂、魂魄、心の底、いのちの根底から人として立派に豊かに大いに育たねばなりません。その成長によって最も豊かに心平和に喜びのなかで、宇宙における他のすべて、生かされ生きる舞台である地球環境・自然環境とも、他人とも、他国とも、他民族とも、さらには宇宙本体とも対立することなく和して争うことなく損ねることなく依存することなく、平和に、個々がしっかり自立して生き、弱きを、いまだ若き幼き未成人を、不幸な環境に生きる人を助け、不足するところには足りているところ余っているところから補い、生かし生かされての人としての在り方・生き方を、日々生きている人間社会、宇宙における人類であるよう整え、説き、示し、導き、先導する在り方が、老年期の役目、使命、天命であり全き在り方、生き方、そして生きている姿です。老年期を生きる男女の全き働きは当人はもとより人間社会に欠かせない重要なものです。母親のおなかに宿った胎児期から、老年期、死期に至るまで正しい人としての道を願い求め、実現、実践してゆく日々となれば、その当人が即救われます。一人一人が真に救われることによって、多くの人たちと共に救われる日々となり、やがては人類社会が平和な社会となってゆきます。

 

八木 いのちの世界における人の一生について、美しき人生の全うにむけて、それぞれの時期時期の生き方を明らかにしてくださりありがとうございました。

 


お話し 自然農実践家指導者 

川口由一さん

 

インタビュー 編集 

八木真由美



 

自然農田にて 川口由一さん 2018 秋

 

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