プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ニューカム

2016-06-05 21:07:45 | 日記
1962年

「帽子は日本一大きい(39・5インチ)と運動具屋が驚く新調のユニホームに着替えたニューカムはナインと一緒にバスで球場入り。グローブをシリのポケットに突っ込んだニューカムは、ファースト・ミットを持ってまず外野を一周、キャッチボールもやらずに一塁で本多コーチのノックを受けた。そしてナインの注目をあびながら二、三度マスコット・バットを握って打席に立ったが、当たりはにぶく、ややりきみすぎた感じ。バッティング投手をつとめた井の球速に振りおくれて高いフライを打ち上げていた。このあと中堅を守り、与那嶺のノックを受けたが、さすがにボールに対するカンは鋭く、落下地点へ一直線に走る。「まだ疲れがとれずヒザがガクガクする」といっていたが、二度目の打席ではバック・スクリーンと右翼へ二本たたき込んだ。左打席に立って大きく開いた右足をベースに近づけるスタンスで、ステップは小さい。ときどき「いまのはストライクか」と捕手に聞いていたが、低目と内角のカンがまだつかめないようだった。しかし試合終了後、一度切ったライトをまたつけさせてバッティング練習をやるなど意欲的だった。またこの日のゲームについては「非常におもしろかった。ウチは点がとれなかったが、それにしても金田投手のカーブはなかなかよかった。日本の野球をみて大リーグのように経験がないにもかかわらず、非常にハイレベルにあると思った。選手もなかなかよく動く」といっていた。ピッチングは二十日の国鉄戦の試合中からブルペンでやる予定だ。

濃人監督 「一度にピッチングとバッティングをやらせるのは酷だ。ニュークがバッティングでポイントをつかんでから投手の練習をさせる。きょうも合宿で与那嶺と話したが、ニュークはきょうの試合で代打で使うといったらOKというし、一回くらいリリーフさせるよとおどかしてもOKといった。根性があるから本調子になるのも早いだろう」

石本コーチ 「ボールのカンがつかめないようだ。バットの振りはにぶいし、まだからだが重い。しかしフォームができているから一週間もして球に慣れれば期待できる」

ニューカムは大鵬にユニホームを着せたようなからだつきだ。下半身の発達はさすがでボールに対するカンはすばらしいものがある。あと三㌔ていど減量すればベスト・コンディションだそうだが、一か月前から練習していたにしてはまだ動きはにぶい。しかし外野をひとりで走ったり、積極的にノックを受けたりなかなかのファイトがあり、好感がもてた。これは職業意識に徹した大リーガーならではのことだ。ファースト・ミットとグローブを用意してきたのもどこでもやろうという意欲のあらわれとみえる。好投手が好打者の例にもれずニューカムの打撃フォームには欠点がない。脚力があり、オーバー・フェンスを二本も打ったのはりっぱだ。だがまだ疲れが残っているのだろう。腰の切れが悪く内角球のポイントがおくれていた。とくに低目のカンがつかめてないようだ。しかし本調子になればジャスト・ミートしただけでホームランになりそうな感じだった。
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初村義治

2016-06-05 20:22:57 | 日記
1962年

西鉄は十六日初村義治外野手(21)=1㍍76、71㌔、右投右打、柳川商出=を自由契約選手にすると発表した。

重松コーチ 「練習に参加しないため、どうしたのかと思っていたら、父親といっしょにきてやめさせてくれといってきた。なにか家庭のつごうがあるらしい」
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竹村一義

2016-06-05 20:04:46 | 日記
1974年

大洋時代の昨年、阪急へのトレードをいい渡されたのは巨人戦の最中だった。いつかは巨人戦に勝つことを目標にしていただけに、ショックだったという。「大洋時代はコントロールに気をつかいすぎてフォームが小さくなっていた。それに大洋では不要のレッテルをはられて一度は死んだ身。よーし、ダメでもともと。一丁どでかい勝負をしてやれとハラをすえたのが当たったんでしょうね」お世辞にもきれいなフォームとはいえない力投で「ボールがどこへくるかわからない」とベンチをハラハラさせながらも昨年は8勝、いまや押しも押されもせぬ阪急の若きエースだ。今年の目標は二ケタの勝ち星。プロに入って欲らしいものも出てきた。「野球がこんなにおもしろいものだとは思わなかったな。大洋での六年間、なんでいまのような気持ちにならなかったのかと、それが残念で・・・」日本シリーズにでて王、長島を迎える夢は捨てていない。「野球のボールをにぎってからまだ優勝の味を知らないんです。やっと今年はチャンスがやってきました」オープン戦では両リーグの完投一番乗り。それも巨人戦だった。「王、長島さんを抑えるコツもわかった」と自信はますますふくれる。
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カール・ピーターソン

2016-06-05 14:57:04 | 日記
1961年

南海では二十七日午後大阪難波の球団事務所で元アメリカ3Aサクラメントのカール・ピーターソン遊撃手(31)の入団を発表した。かつてサクラメントにいたスタンカ投手の紹介で交渉を進め入団が内定していたが、入団許可がとれなかったため来日が遅れていた。同選手は二十六日午後十時羽田着のPA機で来日、二十七日午後二時半伊丹着の日航機で来阪した。右投右打、1㍍75、75㌔、背番号1。なおピーターソン選手は二十八日午前十一時から大阪球場で二軍といっしょに初練習する。

ピーターソン選手の話 「日本の野球はほとんど知らない。ただここ数年間に技術がすばらしく進歩したことは聞いた。どれだけ働けるかわからないが、チームの勝ち星に貢献したい。ポートランドは雨が多く練習も十分にできなかったが、体調だけは整えてきた。

鶴岡監督の話 「練習をみていないのではっきりしたことはいえないが、一塁とバッテリー以外はできるというのだから、内、外野のアナになったところに使ってみようと思っている。五番を打ってもらいたいんだが・・・。握手したときぐっとにぎられて痛かったから力はありそうだ。本塁打を7本打っているというが、日本の球場はせまいので倍くらいは打てるだろう」

カリフォルニア州ポートランド出身。リンカーン高卒。1953年3APCLサンチアゴに入団。57年3A級のバンクーバーに移り、サクラメントには59年入団。昨年は遊撃を守り一、二番打者として145試合に出場し打率2割5分7厘、本塁打7本を打っている。
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バウアー

2016-06-05 14:04:33 | 日記
1961年

東映フライヤーズでは二十四日3A級、ダラスのリチャード・メイバウアー投手(26)の入団を決めた。メイバウアー投手はオハイオ州クリーブランド市出身で1951年リーブランド・インディアンスに入団、1956年ニューヨーク・ジャイアンツに移り、二年在籍。その後マイナーに落ち、1959年から3A級のテキサス・ダラス・チームに所属、現在はフリーになっている。来日は三月中旬の予定。

東映・石原代表の話 「外人選手を取るとなればいろいろ細かい点で問題がある。はっきり決まるまでには三、四日かかるだろう。メイバウアー投手は速球とスライダーが武器と聞いているから、入団すれば相当活躍すると思う」
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稲垣博愛

2016-06-05 13:41:22 | 日記
1961年

ノンプロ新三菱重工名古屋の稲垣博愛投手(24)=1㍍88、63㌔、右投右打、愛知大出=は、さきに入団を勧められていた国鉄入りを決意、十七日午前九時十四分名古屋駅発の特急第一こだまで上京、国鉄と正式契約することになった。

国鉄楠見常務の話 「こちらの条件は伝えており、もし決心がついたら会社を辞めて上京するよういってある。本人が東京へ来ればそれで一挙に発展という運びになるだろう。紹介してくれた人の話ではコントロールがよくシュートがいいというので完投できなくても相当な活躍は期待できるだろうと思っている」

新三菱重工名古屋・斎藤野球部長の話 「ウワサには訊いていたが本人からまだ正式な話はない。東京へ行くというなら多分国鉄へはいるつもりなのだろう。こういうことは本人の意思次第で、とめても仕方ないと思っている。

三十四年愛知大卒業後、新三菱重工名古屋入り、オーバー・スロー投手で昨年夏の都市対抗では三位決定戦で日石をシャットアウトしている。
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マンコビッチ

2016-06-05 12:29:00 | 日記
1962年

大毎入りが内定していた2A級リトルロック球団のフランク・マンコビッチ(登録名マニー)投手(25)=1㍍88、83㌔、右投右打=は、十七日午後東京スタジアムで宇野監督、杉下コーチが立ち会い、最終テストを受けた結果、入団が決定した。契約は後日行われる。同投手はこの日フリー・バッティングで山内、八田を相手にストレート、カーブなど約三十球投げた。長身からオーバーハンドで投げるストレートはかなり威力があり、山内は「ストレートは速いようだ。それに落ちる球がいい」八田は「球質はディサより軽いがコントロールがあり、いけると思う」といっていた。

宇野監督 「球も速いし、だいじょうぶ、使える。まだ練習不足で十分な力は出していない。オールスター戦以後に使うつもりでいる」

大毎に入団するマンコビッチ投手は田中コーチといっしょに二十五日午後四時半ごろ東京スタジアムにある大毎球団事務所をたずね、契約する予定だったが、オールスターのため福岡にいっていた松浦代表が所用でこなかったので契約は二十六日にもちこした。

マンコビッチ投手 「背番号などはまだきまっていませんが、私が希望するのは来日したのが十三日の金曜日だったので13番がいいと思う。キリストの国ではとくにいやがる曜日だが、私は逆にエンギをかつぐ意味でとくにそうしたいと思っている。私の武器はスライダーだ。10勝くらいはあげられる自信がある」
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田村純樹

2016-06-05 11:03:10 | 日記
1961年

新入団の杉本(倉敷工)鈴木(豊橋工)田村(広島・神辺高)の左腕トリオは藤村コーチの自慢の一つ。田村は1㍍78で広島の投手陣のなかではずぬけて大きい。藤村コーチは「二、三年先の選手ばかりだが、こんな大型の投手を育てるのはコーチみょう利につきる」と手ばなしの喜びよう。この田村が紅軍のスタート投手になり、3イニングを2安打におさえて無失点。速い球をズバリ、ズバリと投げ込んでいた。外角の球はシュートしていたが、これはどうやらナチュラルらしい。森永、西山らが面くらっていた。「またクセ球が出てしまった。高校時代からこうなんです。外角に流れて落ちてしまうんです。スピードがあったって?左手の中指の血マメがつぶれたので思う存分投げられませんでした」藤村コーチが「高校を出たばかりのものは、はじめての試合ならカチコチにあがってしまうんだが、ヤツは平気の平左だ」とおどろいたようす。一回内角の球を佐々木に右前安打されたときもケロリとしていた。門前監督も「いいことは度胸があることだ。技術的にはまだまだこれから、フォームもぎこちないが・・・」とこれまた度胸にすっかりほれ込んだようだ。高校一年生のときは軟投投手だったが「右打者が多いのに軟投では・・・」とスピードをつけるため人一倍走ったりピッチングをやった。高校三年になってからスピードで勝負できるようになった。いまは高目にストレートを投げておいてドロップで料理するまでになった。藤村コーチがつきっきりでウエートをのせて投げるようにコーチしている。目標は別にないが、鈴木、杉本君に負けたくない」そうだ。趣味は映画。65㌔、背番号46。
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益川満育

2016-06-05 10:18:26 | 日記
1974年

こんな殊勲な益川をかつて見たことがない、とチームメートが口をそろえた。けんかマスといわれた暴れん坊。投げやりな性格は宿命的なんだ、とカゲ口をたたかれたイタリア系アメリカ人を父に持つハーフ。広岡守備コーチは広岡二世に育てようと外野手から遊撃手にコンバートした。「絶対にものにしてみせる。ボールへの一瞬の判断、機敏性、リズム感・・・。どれをとっても内野手の中で群を抜いている」と肩をたたいてくれた広岡コーチに、益川の熱い血が燃えた。「広岡さんに命を預けた」躍起になった湯之元キャンプ。休養日をすべて返上しての連日の特権志願だ。1㍍81、77㌔の大型遊撃手がプロ入り三年目にして誕生だ。守備範囲の広さと鉄砲肩は、すでに先輩・東条を抜いている。課題になるのはバッティングだが、沼沢コーチは「パンチ力がある。中距離ヒッターのタイプだが、常時出場させれば2割5、6分は打てるだろう」と、夜の素振りでこちらも特訓中だ。興国高校時代、夏の甲子園で優勝したときの四番打者。近大(中退)-ノンプロ日本熱学でも常に四番を打ってきた。この輝かしい球歴が益川の随一の誇りだ。
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岩上江笠・山本重政

2016-06-05 09:49:48 | 日記
1962年

近鉄は十八日午後三時から大阪阿倍野の球団事務所でノンプロ丸善石油の岩上江笠(こうりつ)投手(24)=兵庫県立八鹿(ようか)高、立命大出=と、立命大山本重政投手(18)=兵庫県立社高出、文学部一年中退、1㍍79、78㌔、右投右打=の入団を発表した。背番号は岩上58、山本12。岩上はサイドスローの変化球投手。高校時代に連続9三振(兵庫県高校記録)一試合18三振(同タイ記録)を作っている。立命大では東田(近鉄)とバッテリーを組み三十二年秋、三十五年秋の優勝に貢献した。昨年卒業のとき巨人軍からさそわれたことがある。山本は上手投げの速球投手。社高二年のとき夏の兵庫県予選に完全試合(対小野工)を記録した。今春立命大に入学、春季リーグ3勝4敗。別当監督の熱心な勧誘で中退したもの。両投手とも同日パ・リーグから公示された。

別当監督「いつもファンに満足してもらう試合をするためにはいまの投手陣では苦しい。岩上、山本はどちらも球威がある。さっそく練習に参加させてこまかいところを見る。結果がよければ十九日からの阪急戦(西宮)でベンチに入れるかもわからない」

岩上投手「立命大のときからお世話になっている江田スカウト(前大洋)のさそいで入団した。大学卒業のときからプロへ行きたい希望はあった。からだの調子もいいから自分なりにやっていける自信はある。球速がつくように心がける」

山本投手「大毎、阪神、阪急からも話はあった。新球場のできた大毎に魅力はあったが、母が在阪球団をすすめたので近鉄に決めた。熱心に話をしてくれた別当監督にもうたれた。外角直球が武器だが、プロ野球はオープン戦しか見ていないのでどこまでやれるのか想像がつかない」
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佐藤博

2016-06-05 09:23:35 | 日記
1974年

荒川監督がご当所登板に「楽な場面で投げさせたい」と細かい配慮。試合の決着がほぼついた九回、八番中原全から始まる1イニングのリリーフだった。二死から阪本に中前安打を許したものの、落差の大きいカーブと持ち前の外角速球を主武器に高橋博を三振にうちとって、まずまずの投球内容。日立ファンの拍手を浴びた。日立製作所時代、主戦投手をもじって酒仙投手と異名をとった名うての酒豪。キャンプでの禁酒令には顔をしかめていたルーキーが、日立市へ移動した前夜、さっそく夜の古巣へカムバック。わずか一時間と物足りない酒宴だったが、それでも日立銀座の裏町でグイと杯を傾け「久しぶりに気分よく飲みました」無名だった酒田商時代、だが、その重い球質に大洋が早くも目をつけていた。日立製作所に入社してからメキメキと頭角をあらわし、四年間の通算成績は45勝7敗。昨年夏の都市対抗では、エースとしてチームをベスト4へ進出させた。過去大洋、ロッテがドラフト指名したが、会社が手放さず、ようやく今季ヤクルトへ念願のプロ入りがかなった。

巽コーチ「球威はあるが、まだかなり時間がかかる。バックスイングが大きすぎるフォームをただいま改造中。マウンドでりきむクセがあるので、それが重い球質を殺している。速球より落差の大きいカーブが面白い」

周囲の目 1㍍85、84㌔の体格に、日本ハム・中西監督が「まるで相撲取りやな。ボールは重そうだ」と目を奪われた。体重をうまく乗せた無理のないフォームからズドンとくる速球に荒川監督が「開幕からローテーションに組み入れる」とキャンプで、早とちり。同じ日立からヤクルト入りした先輩渡辺孝は「スタートさえあやまらなければ・・・」とあと押しする。
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