プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

与田順欣

2016-06-07 22:48:24 | 日記
1966年

球の速さでは西鉄一。しかし一昨年の7勝をピークに足踏み状態をつづけている。敗戦処理となるとがぜん好投するくせに、クロス・ゲームでは打ち込まれるという精神面のもろさがあった。だが重松コーチは「たぶんキャリアが不足しているだけで気は弱い方じゃない。場数さえふめば必ず戦力になるだけのものをもっている」とシーズン中から口をすっぱくしていっていた。九月二十九日の小倉の東映戦で完封したのがやっと2勝目だった。重松コーチは「あれですっかり自信をつけた。もしゲーム数がまだ残っていたらことしは3勝程度ではすまなかったはずだ」という。だから与田にはこの巨人戦も公式戦の延長のような気持ちだったかもしれない。六回、田中勉と交代するまでベスト・メンバーをそろえた巨人打線を二安打に押え込んだ。帰りのバスに乗り込むとき、中西監督に「やっと一人前になったな」と肩をたたかれると、顔を赤くしてうれしそうにいった。「ええ、なんだか投げれば投げるだけよくなるような気がします」シーズンはじめとくらべてウエートが前にのるようになった。そのため持ち前のストレートがいっそう速くなったという。福岡市西新町のアパートには昨年暮れ、周囲の反対を強引に押し切って結婚した二つ年上の登子(とみこ)夫人(24)が待っている。一粒種の雅彦ちゃんも若いパパの顔がわかるようになった。しかもこの藤崎台球場は八代一高のころから何度もマウンドを踏んだ思い出の場所だ。与田がハッスルする条件はそろっていたわけだ。重松コーチは「九十点以上はやれる。球質が軽いので長打力のある打者には弱かったが、長島に対する攻め方など完ぺきだった」とほめていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高岡英司

2016-06-07 21:32:29 | 日記
1965年

ノンプロ富士鉄広畑の高岡英司投手(26)=1㍍72、68㌔、左投左打、福岡県東筑高出=の中日入りが六日内定した。同日午後、市内中区南外堀町の球団事務所に高岡から電話で入団の意思表示があった。正式契約は新宅とともに今月中旬同球団事務所で行われる。高岡の交渉権を獲得した中日は、柴田スカウトが四日姫路市の同選手宅を訪れ、二回目の交渉を行ない、条件を提示。高岡はこの条件を検討した結果、富士鉄広畑を円満退社し、プロ入りに踏み切った。高岡は昨年とことしの都市対抗で松下電器に補強されて出場、左腕からシュート、鋭いカーブを投げ分けるうまい投球を見せた。とくにことしは一回戦で優勝候補№1の大昭和製紙に完投勝ち。3試合、23回、安打17、失点4、自責点1、防御率0・39の好成績を収め、優秀選手に選ばれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボレス

2016-06-07 21:10:36 | 日記
1966年

近鉄に入団の決まった黒人選手、C・ボレス外野手(31)=1㍍80、79㌔、右投右打、元SFジャイアンツ、3Aタコマ=は一日午後七時八分、羽田着のPAA機で単身来日。同九時羽田発の日航機に乗りかえ大阪入りし、天王寺区の都ホテルに落ちついた。背番号は27。空港には山本球団職員が出迎えたが、ボレスはわかりやすいようにとバットをさかさに一本ひっさげてタラップをおりてきたところなど、なかなかのユーモリスト。しかし、話し方はおだやかで、外人特有のハデさは全然なかった。同選手は1962年、テキサス・リーグ(2A)のエルバソで89試合に出場。打率3割3分7厘、本塁打18本の成績をあげ、その年SFジャイアンツに昇格、19試合で3割7分5厘の打率を残した。38年タコマに落ち、39年は122試合で打率2割3分2厘、6ホーマーとふるわなかった。昨シーズンはコーチとしてタコマに在籍した。

ボレス選手「日本のプロ野球についてはジャイアンツにいた村上(南海)が頭のいいプレーヤーであることしか知らない。レベルがかなり高いとはみんなから聞いてきた。トレーニングはたっぷりやってきたので、あすからでも練習に参加できる。38年春のキャンプで骨折した右足首はもう直っている。開幕までにコンディションをベストにするのがいまの目標だ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川和男

2016-06-07 20:51:38 | 日記
1966年

糸魚川高・吉川和男投手(18)=1㍍77、73㌔、右投右打=の東京入りが六日きまった。東京は、第二次選択で同選手の交渉権を獲得したが昨年十二月二十七日、山田スカウトが新潟県西頸城郡能生町の吉川宅をたずねて最終的な条件を提示、その条件にもとづき六日、父親の藤次郎さん=能生水産高教頭=と吉川投手が話し合った結果、東京入りを承諾することになったもの。正式契約は、十日すぎに山田スカウトが吉川宅を訪問するときに行われる。同選手は三年になってから投手に転向したが、それまでは三塁手。二年のときから四番を打ち、足が速く長打力のある大型内野手として県内では注目されていた。東京としては本人も「三塁の方がいい」というので内野手として契約する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする