プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

米沢武

2016-06-09 22:55:09 | 日記
1965年

東映が交渉権を獲得していた明大・米沢武一塁手(22)=1㍍84、80㌔、右投右打、高松商出=はプロ入りせず、ノンプロ倉レ岡山に入社が決まった。倉レ岡山野球部は現在休部しているが、来シーズンから復活する。米沢は今春のリーグ戦で一シーズン3ホーマーをマーク、長打力はあるが、明大・島岡総監督は「性格的におとなしすぎる」とノンプロ入りをすすめていた。倉レ岡山は、来シーズン復活の主力選手として早くから米沢獲得を目ざす一方、高校時代から米沢の親がわりになっている高松商野球部後援会会長・水野蒸介氏を通して話を進めていた。水野氏は東映・水原監督(高松商OB)と親交があるので話がスムーズに運び、東映は一塁にラーカーが健在、米沢が、一塁以外のポジションをこなせないところから見送った。
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江崎昭雄

2016-06-09 22:00:16 | 日記
1956年

東都大学野球のピカ一投手といわれ、その去就が注目されていた日大のエース江崎昭雄(22)は十五日午後四時半毎日名古屋本社で毎日球団黒崎代表、別当監督、実兄の孝夫氏ら立会いのもとに正式に毎日との契約を行った。同投手は右投、右打で六尺五分、二十貫二百、二十八年に中京商から日大に進み、今春までは好投手島津のカゲにかくれて目立たなかったが、最後のシーズンの今秋のリーグ戦ですばらしい好投を示し日大の優勝に貢献、最優秀投手にも選ばれて一躍有名になった。岡崎竜海中学時代は石川克投手(中日)の一年先輩、中京商時代は中山投手(中日)の二年先輩で二十六年春には甲子園の土もふんでいる。中京商時代からその豪速球には定評があった。岡崎市板屋町の実家は貸ボート業を営み、鍬吉さんの三男、名前は昭雄(テルオ)と読む。

別当監督談 江崎君のボールは中西(今春入団)より速い。カーブをおぼえたら15勝はやれる投手だ。いままで島津君のカゲにかくれて知らなかったのは気が弱いところがあったからで、これも優勝したことによって大いに自信をつけたから心配ない。ともかく将来性のある投手として期待している。

江崎投手談 プロに入って果たしてどれだけやれるか見当はつかないが、監督さんの期待にそうよう力一ぱいやりたい。阪神、阪急、大映などからも話はあったが、ボクとしては一番ほしがってくれたチームということで毎日を選んだ。得意の球は速球です。
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百々隆夫

2016-06-09 21:26:25 | 日記
1953年

国鉄スワローズではこのほど中大の百々(どど)隆夫外野手(19)と契約、廿六日伊東における対大映オープン戦から出場させた。同選手は左投、左打、兵庫県立工業高校から廿六年中大に進み秋のリーグ戦には新人ながら五番を打ち四割一分四厘で首位打者の栄冠を獲得した、今夏家庭の事情で退部し、国鉄入りした巨人軍の桝遊撃手とは高校時代同級。
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山田和英

2016-06-09 21:05:55 | 日記
1983年
・来る人、去る人・・・それは、非情を信条とするはずの報道陣さえもホロリとさせられるシーンだった。大阪・梅田にある阪神球団事務所。3年目のシーズンを終えたばかりの山田は、突然の呼び出しに、ある種の胸騒ぎを感じながら出向いて行った。「今年で自由契約とする。今後、他球団で働く気があるのなら、球団としても全面的に協力しましょう」岡崎代表からの「解雇通告」。山田は、頭から冷水を浴びせられる思いだった。「自分じゃ、まだやれると思っている。まさかと思っていたのに・・・信じられない、自分があまりに情けないです」山田は恥も外聞も捨て、報道陣の前で泣いた。涙がポロポロとこぼれ、勝負の世界の厳しさに耐え切れない表情だった。来る人とは太田幸司。巨人からのトレードによる入団発表は、山田が去ったあとの球団事務所のプレスルームが舞台だった。山田の涙が乾かないうちに、新天地に燃える男の入団発表。太田幸の笑顔がさわやかなほど、山田の涙が強烈な印象を与えたのだ。山田は甲子園には通勤2時間という富田林市に住んでいる。病弱な母との二人暮らしだ。野球をするうえでは片道2時間は大きなハンデだが、「いつかは母を甲子園近くに連れてきて一緒に住んでやりたい」という夢を叶えるためにも耐えてきたのである。しかも、山田は、1976年のドラフトでも柏原高のエースとして、阪神に6位指名されている。そして4年後、今度は大商大のエースとして阪神に4位指名。阪神とすれば「5年越しの恋」だったわけで、まさか3年で自由契約とは、だれもが予想できない現実だった。「このまま引き下がるわけにはいきません。こうなったら、自分の力で新天地を探し出して、はい上がってみせます。このままじゃ、自分が、そして耐えてきてくれたオフクロだって、あまりにも情けないと思うんです」12月5日で満25歳のバースデーを迎える山田。一生の仕事と賭けてきた野球を断念するには早すぎる。179センチ、76キロ、右投げの本格派。阪神での3年間は1勝も挙げられなかったが、病弱な母を安心させるには、新天地のユニフォームを着る以外にない。あわただしい師走の街を途方に暮れた一人の青年が、職を求めてさまよい歩く。青春ドラマにしては、あまりにも非情冷徹すぎる話ではある。
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迫丸金次郎

2016-06-09 20:27:48 | 日記
1974年

二十五年教育リーグ、ヤクルト戦に出場。七回、上水流の外角球につまって平凡な二ゴロ。「どうもうまくバットが出ません」と首をひねると、さっそく国松二軍監督から「納得がいくまで打ち込んでこい」と居残り特訓の命令。ナインがバスで引き揚げたあと、山内コーチが手とり足とりでアドバイスしていた。都城キャンプで打ち上げの夜「遠慮はいらない。思い切って飲もう」と誘われるとコップに注いだウイスキーをまるで水のようにガボガボと飲みはじめ、ナインはあ然。酒好きの先輩連もウイスキー一本、ビール半ダースを一気に飲み干した酒量には度肝を抜かれた。もっとも、その夜「おやすみなさい」と平気な顔で、部屋を間違えて眠ってしまったが・・・。大らかな性格の中に、いかにも九州男児(高校は熊本一高)らしい豪快さがある。「小さいころからプロはあこがれ。とくに巨人の選手になるのが夢だった」という。愛知学院大時代、通算30ホーマーと長打力には定評。昨年六月の大学選手権では3ホーマー。うち日本は早大戦でマーク。優勝候補を破る原動力となった。「ツラがまえがいい。ものおじしないずぶとい性格がよく顔に出ているでしょう」というのは滝コーチ。国松二軍監督は「キャンプではまわりが死んじゃうよというほど徹底的にしぼったが、次の日にはケロリとした顔をしている。粘り強さは大したものだな。ガッシリした体だから、もっとパンチ力をつけたい」「まだ淡口、柳田らのレベルには、ちょっと差がある。力強い印象はあるが・・・」とヤクルト・田口二軍監督。だが、右の代打者が不足しているので、町田コーチは「あんがいチャンスは早いだろう」とみている。肩の強さと百㍍11秒7の俊足は、どのコーチも認める魅力。
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大橋康延

2016-06-09 19:50:20 | 日記
1974年

背中をナインからたたかれるたびに帽子をとって直立不動のおじぎだ。ルーキー・大橋はマウンドにいるときより、試合が終わってからの方が緊張しているようだった。「夢を見ているような気持ちです。ほんとうに」夢のような思いはネット裏の父親・晃さん(42)も同じだった。自宅のある小山市から大洋・大橋康延投手後援会の横幕を持った後援会の人約五十人と貸し切りバスで乗り込んできた。息子が登場できる条件は「チャンスがあれば」(宮崎監督)で、いいかえれば一方的な試合になったときに限られていた。前半の大量リードで舞台はそろった。先頭の高田をシュートで三振させて気が楽になったという。「王さん、長島さんを迎えて二イニングを無得点で切り抜けたでしょう。これならいけると、自信みたいなものがわいてきた八回、王さんに打たれてアッという間に一、三塁。次の富田さんの大きな当たりを中塚さんがうまくとってくれなかったらもうダメでした。やはり怖い」とはいうが、マウンドでは「こわい」そぶりをまったくみせなかった。ポーカーフェイスでサイドスローの粘っこいピッチング。「タイミングをはずすカーブが生きたし、得意のシュートを思うように決まりました」キャンプからしぼられ続け、6㌔体重が減ってシャープな動きになった。体は動いても「セットポジションが早いと注意された」りまだ課題は多い。地元に近いということで初めて入った一塁ベンチ。偶然のようにめぐってきたチャンスをものにしたのは宮崎監督がいう「少し分けてほしいぐらいの度胸のよさ」だったろう。作新学院で江川の陰に隠れていた男はついに日のあたる場所に顔を出した。
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原田秀幸

2016-06-09 19:39:08 | 日記
1963年

南海は十八日、柳井商・原田秀幸投手(18)=1㍍75、72㌔、右投右打=の入団をきめた。同投手は今夏の高校野球山口県予選準々決勝で、下関商と対戦、1-0で敗れたが、池永と互角にわたりあった。八月下旬の山口県選抜の韓国遠征チームにも選ばれている。十八日南海のテストを受け採用が決まったもの。研修期間は百試合。

中原コーチ 「球の切れがすばらしい。からだは少し細いようだがまだ肉がつくし、うまくのばせばおもしろい。球をはなす瞬間ふつうの人よりワン・ポイント動作がはやいが、それも打者のタイミングをはずすのにもってこいだ」
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林千代作

2016-06-09 07:26:56 | 日記
1965年

巨人は二十四日午後四時、東京・銀座西の読売新聞社五回重役室で鎌倉学園・林千代作外野手(18)=1㍍80、82㌔、左投左打=の入団を発表した。巨人・正力オーナー、佐々木常務、水野谷総務のほか林の実兄光一氏(29)、福沢鎌倉学園監督が立ち会った。同選手は三十八年からの三年間で通算打率三割三分三厘、22ホーマーをマークした長距離打者。来春一月下旬から多摩川球場で行われる自主トレーニングに参加する。背番号は未定。

球団本部へあいさつにきたときは、報道陣にも冗談まじりに答えていたが、正力オーナーの前では大きなからだを縮めっぱなしだった。「笑ってください」というカメラマンの注文に、困ったようにモジモジするだけ。正力オーナーに「いまにきみのほうからポーズをつくることを覚えるよ」と慰められてホオを染めるなど、ルーキーらしいういういしさをふりまいていた。共同インタビューも正力オーナーみずから質問するという異例の入団発表。「巨人にはいってどんな努力をするつもりでいる?」ときかれたときは、小さい声だったがはっきりと真正面をむいて「技術的なことを勉強するのはもちろんですが、精神的にも巨人の一員としてはずかしくないようにがんばります」といった。

正力オーナー「巨人は、これからも純血主義を誇るという基本方針を貫くつもりである。林君は次代の王・長島となれる。こんどファームを教えることになったマイアーズ・コーチは左打者だし、その点でも林君には期待している」
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篠田勇

2016-06-09 07:07:15 | 日記
1963年

阪急は、立大・篠田勇三塁手(20)=水戸商、1㍍67、70㌔、右投右打=の入団を決め、十五日西本監督が上京、契約について細部の打ち合わせをする。同選手は広島、国鉄、大毎、東映からもさそわれており、なかでも国鉄は、砂押コーチが水戸商ー立大を通じての先輩で、めんどうをみていたことから一時は最有力だった。だが国鉄は補強の焦点をおもに投手にしぼる方針をとったため、争奪戦から脱落。そのあと東映は立大OBの石原コーチ、砂川管理課長、大毎は保坂スカウトが担当して獲得に乗り出したが、いずれも条件に折りあいがつかずにいた。若返りをめざす阪急は、西本監督(立大出)が篠田獲得に熱心で東京遠征のたびに本人を説得、篠田の気持ちをつかむとともに、八日遠征先の福岡で岡野代表と最終的な打ち合わせをした。

阪急・岡野代表「篠田君はいいバッターだと聞いている。ウチはいま外人選手の獲得に力を入れているので、とるかとらないかは監督にまかせてある。十五日に監督が本人と会うので、そのあと報告を聞いてからきめたい」

立大・篠田選手「野球をやるならプロでやってみたい。二、三球団から話があり、心に決めた球団もありますが、リーグ戦中だからはっきりしたことはいえません。とにかくリーグ戦に優勝することが先決問題です」

阪急・西本監督「バッティングがいい。ベスト・ナインにも選ばれている選手だから、すぐウチの戦力になるだろう。近いうちに上京して、最終的な話し合いをしたいと思っている」

水戸商から三十五年立大入学。二年生の春から、杉本(国鉄)のあとを受けて三塁を守り、そのシーズンに47打数19安打、四割四厘で打撃第二位。ベスト・ナインにも選ばれた。小柄だがカンのいいプレーで守備範囲は広く、バッティングはチャンスに強い。一時右足首を故障したが、今春から主将。秋のリーグ戦では三番を打ち、八日現在三割五分三厘で打撃第三位、首位打者候補となっている。水戸商二年のとき夏の甲子園大会に出場した。
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北角富士雄

2016-06-09 06:45:08 | 日記
1965年

中日はこのほど阪神が交渉権を放棄した名古屋・東邦高の北角富士雄投手(18)=1㍍72、70㌔、右投右打=の獲得に乗り出した。北角は昨年の夏、愛知県大会で六試合を一人で投げきり、失点2で甲子園大会に出場した。準々決勝で高鍋高の牧(南海)と投げあい、0-6で敗れたが、速球が武器の本格派投手。打撃もよく、昨年の甲子園大会では十三打数六安打、四割六分二厘をマークしている。中日は柿本投手を放出したこともあって投手陣を充実させるため北角に目をつけた。塚越スカウトが北角を育てた鳴海中の中垣監督と親しいので十日、同監督を通して中日入りを打診している。父親の信二氏(48)=三菱重工小牧工場勤務=が不在だったため具体的な交渉まではいかなかったが、北角は「野球をやるなら少しでも早くプロにはいってやりたい。中日は地元だし、好きなチームなのではいりたい」といっているところから、条件さえ折り合えば、スムーズにまとまりそうだ。中日は信二氏の帰宅を待って十五、六日ごろから本格的な交渉にはいる。
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