プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

柴山宗守

2016-06-01 22:39:34 | 日記
1958年

阪神タイガースでは十八日、関西学院のエース柴山宗守選手(22)と正式の入団契約を結んだ。同投手は身長1㍍79、体重73㌔、近畿大学付属高校から関学に進み、左投手特有のシュートで活躍。昨シーズンは春秋合わせて9勝をあげ同じく阪神入りした村山投手(関大)とともに関西学生球界の象徴的存在だった。今シーズンはあまりふるわず、わずか3試合しか出場していないが、どこといって故障があったわけでなく、持前の長身と左腕は阪神の一戦力になるものと思われる。

柴山投手の話 阪神を選んだのは前々から好きだったからであり、僕の働きよい球団だと思ったからです。村山君(関大)とは今までライバルだったが、これからもいい意味でライバルであり、互いにはげまし合ってゆきます。今シーズンはあまり試合に出られなかったが、とくにどこが悪かったということもなかった。調子が合わなかったんだと思います。競争の激しい世界ですから、甘えた気持を捨てて思い切りやるつもりです。
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太田武

2016-06-01 22:29:21 | 日記
1953年

プロ入りを噂されていた京都伏見高の左腕投手太田武(18)投手は廿四日パ・リーグ南海ホークス入りが内定した。実父が国鉄機関手をつとめている関係から国鉄入りが伝えられ、また同校監督の線から巨人松竹入りの話もあったが、南海中谷投手、岡村コーチらの懇請で南海入りを決意したもの。同投手は春の選抜高校野球に出場、四試合で三振卅九を奪いサウスポー独特の大きなインドロとシュートに定評がある。
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迫田七郎

2016-06-01 20:20:53 | 日記
1965年

東京オリオンズはハワイ・キャンプから帰国後、中日、大洋を相手にオープン戦を5試合消化し、十人の投手が登板。すぐれた投手陣を披露したが、若手では早くも1勝を上げた二年生迫田のできがずば抜けていた。本堂監督も小山、坂井、西、妻島に続く第五の投手として迫田を高く買い「今シーズン、ローテーションに組み込める」と予想以上の成長ぶりに目を細めている。迫田は十日、浜松での中日戦に3イニング、十三日の小野田での大洋戦に4イニング、計7イニング投げたが、打たれた安打は合わせて3本だけ。もちろん自責点もない。とくに勝利投手になった大洋戦でのできがすばらしかった。カーブ、スライダーをコーナーに投げ分け、シュートを低めにきめた。直球は西より速く、変化球は妻島より鋭かった。迫田についで大洋との第二戦(十四日下関)で先発を命じられたエース小山が「迫田がえらいええタマを投げよるんで、ワシの投げるタマがないな。迫田のあとで投げるのは気がひけるワ。シュートもカーブもワシのうわてをいくよ」と舌を巻くほどのできぐあいだった。本誌評論家の大島信雄氏は「迫田のシュートもカーブもスライダーも、ホームプレート付近で少しずつ落ちている。これが大洋のように強振してくるバッターの多いチーム相手には効果がある」と観察し、迫田の落ちる変化球は打ちにくいタマだといっている。東映の嵯峨はホームプレートで落ちるスライダーを投げるが、スライダーだけでなく、シュートもカーブも投げる変化球がどれもホームプレートで落ちる球がどれもホームプレートで落ちるという投手は珍しい。落ちる変化球もさることながら、迫田は極端にインステップして投げるトクトクの投球モーションでも得をしている。本堂監督はオープン戦にはいる前、オープン戦の目標を若手投手陣の育成、二遊間コンビの確率、醍醐に続く捕手の育成の三つだと話していたが、迫田の台頭で、この三目標のうち若手投手陣の育成にかんするかぎり成果は上がっているといえる。
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