プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

村松修

2016-06-20 21:18:19 | 日記
1962年

村松の父親春造さんは三十すぎまでノンプロ三井田川で捕手をつとめていた人だ。春造さんの右手クスリ指は第二関節から大きく曲がったままで動かない。まだ村松が中学生のころから家に帰ると村松のピッチングの相手をつとめた。中学時代はまだよかった。高校にはいると、もう春造さんは受けきれなくなった。とうとい一昨年、球を受けそこねて右手クスリ指を痛めてしまったのだ。春造さんは病院へ走りながら「これでいいんだ」と思ったそうだ。小学校六年生のとき健康優良児で福岡県の特選になった村松にはじめて襲った病気が右ヒジの痛みだった。「シュートの投げすぎだと思う。昨年春の選抜大会でうまくきまって中京商の打者を思うようにあやつった味が忘れられなかった。なんでもかんでも、いざとなったらシュート、シュート・・。それが悪かった」村松はプロ野球選手しか通わぬ希有の帯刀電気治療所に二回通った。昨年の夏休みとことしの春休み。同僚が野球だけですごしている休暇を村松だけは電気マッサージのベッドの上ですごした。帯刀電気治療所ではこういっている。「プロ野球の選手にくらべれば、村松さんは軽症です。はじめての痛みで精神的な不安の方が多かったのでしょう」村松がふたたび全力投球をはじめたのはことしの春からだ。ヒジの痛みにこりたのか、それから直球中心のピッチングに切りかえた。ことしの夏は直球一本やりで福岡地区予選の決勝まで勝ち進んだ。「器用なことがかえって良かったのかもしれない。入学直後に直球、カーブ、シュートからフォークボールまで投げて見せたのはおどろいた。投法を変えて成功したからといって、プロに通用するとは見えない。やはりおもしろがって投げていた当時ぐらい大胆に変化球を使わないとダメだろう」と沼津敏文野球部長の話だ。村松はいう。「むしろ研修選手になりたかったくらいだ。一度故障したあとではどれが自分のほんとうのスピードかわからないから」と。今春から村松は毎日約二百球から二百五十球のピッチングを最小限の練習量にして精神的なマイナスをとり返そうとしてきた。村松の好きな投手は南海の三浦投手だ。「投げ方もそっくりだし、シュート攻めがすごくうまい。ヒジを心配せずにあれだけコースをついてシュートを生かす投手になりたい」というのだ。沼津部長は別のことも考えている。投手にしておくにはもったいないほどの脚力。「高校に入学したとき百㍍を12秒ちょっとで走った。いまでは軽く11秒台で走るだろう。走り幅とびでも中学時代5メートル75という県の中学大会で三位の記録をもっている。腰のバネと足の速さでは陸上競技部の選手も顔負けしていた。あの柔軟なからだでバッティングを生かしたら・・・」一年生のときから四番を打ち、九州大会準々決勝で高校生として初めて長崎市営球場のバック・スクリーンにぶち込んだ力もある。「村松が投手としてプロで通用するかどうかを早く見きわめることがポイントになるのではないか」と同部長は意味深長なことをいっている。
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柳沢高雄

2016-06-20 20:18:53 | 日記
1976年

中日がドラフト外で、獲得交渉を進めていた柳沢高雄内野手(17)=大阪・上宮高、1㍍75、67㌔、右投げ右打ち=の入団が七日、決定した。同日午後三時過ぎ、中日・東方スカウト部長が、大阪天王寺区の上宮高校を訪れ、山上野球部長(監督)にあいさつ。このあと大阪市東住吉区田辺東之町の自宅に出向き本契約を完了した。柳沢内野手は在学中、一番を打ち不動の遊撃手として活躍。高校三年間の成績は61試合、打率3割9分。本塁打5本、三塁打8本、二塁打12本と長打力も十分。三振はわずか9個で選球眼は抜群。特に幅広い守備力は高校離れしており守備率は、なんと九割五分。中日は獲得交渉でも地元・阪神との競争になったが「中日が大好き」という柳沢の気持ちが、入団を実現させた。自宅で入団が決まった柳沢は「地味だがチームワークの良さが大好きだった。入団できてうれしい。力いっぱい努力してみる」と目を輝かせていた。契約金は七百万円、年棒百六十万円(いずれも推定)で中旬ごろ正式発表される。
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森岡淳

2016-06-20 20:09:35 | 日記
1982年

中日はドラフト外で島根・江津工出の森岡淳投手(18)=1㍍82、72㌔、左投左打=の獲得に乗り出す。同投手は二年生の春に中国大会の鳥取・倉吉東戦で13三振を奪って完封するなど、ストレートを武器にした大型左腕として注目され、巨人、西武をはじめ数球団からマークされていた。しかし、二年秋に野球部を退部、今春には同校も中退した。素質に目をつけていた中日は今夏、同選手をナゴヤ球場でテストを受けさせていた。
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グルンワルド

2016-06-20 19:58:34 | 日記
1962年

グルーニがこの日先発することは二十六日関西地方のオープン戦から帰ってきたときからきまっていた。「登板の日をあらかじめ知らせてくれればいつでもOK」というグリーニの希望で投げるときは三、四日前に通訳の橋本を通じて知らせることになっているわけだ。そして試合前のブルペンのウオームアップは必ず土井コーチが受ける。ミットでじかに感じた調子を三原監督に報告するためだ。「ズシリと重い手ごたえがあった。きょうはきっといいですよ」こう土井コーチから聞いた三原監督は「よし。それなら一つ完投させてみよう」と思ったそうだ。十回を投げ終わって引きあげてきたグルーニの呼吸は全然乱れていない。ギューと指をならしながら「カンファタブル(気持ちがいい)」を連発する。四回橋本に内角ストレートを右翼に打ち込まれた直後、2㍍近い巨体をゆすって残念がっていたのに・・・。「シンカー、カーブ、シュート、ナックルといろいろと使ってみた。だいぶ投げ込んできたから調子はぐっとあがってきた」グルーニがニッコリ笑っていえば三原監督も「はじめてのときが五回、二度目が七回、三度目のきょうが十回。とにかく順調に仕上がってますよ。先発よし、リリーフよしだから確実な戦力ですな」と満足そう。大毎の榎本が「ちょっと見ると打てそうな球だが、手元で伸びる。日本人の投手にはマネのできない不気味な重さがある。振っていてもバットが折れそうで・・」と首をかしげるほどグルーニの投球には不思議な魔力があるそうだ。
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