1962年
村松の父親春造さんは三十すぎまでノンプロ三井田川で捕手をつとめていた人だ。春造さんの右手クスリ指は第二関節から大きく曲がったままで動かない。まだ村松が中学生のころから家に帰ると村松のピッチングの相手をつとめた。中学時代はまだよかった。高校にはいると、もう春造さんは受けきれなくなった。とうとい一昨年、球を受けそこねて右手クスリ指を痛めてしまったのだ。春造さんは病院へ走りながら「これでいいんだ」と思ったそうだ。小学校六年生のとき健康優良児で福岡県の特選になった村松にはじめて襲った病気が右ヒジの痛みだった。「シュートの投げすぎだと思う。昨年春の選抜大会でうまくきまって中京商の打者を思うようにあやつった味が忘れられなかった。なんでもかんでも、いざとなったらシュート、シュート・・。それが悪かった」村松はプロ野球選手しか通わぬ希有の帯刀電気治療所に二回通った。昨年の夏休みとことしの春休み。同僚が野球だけですごしている休暇を村松だけは電気マッサージのベッドの上ですごした。帯刀電気治療所ではこういっている。「プロ野球の選手にくらべれば、村松さんは軽症です。はじめての痛みで精神的な不安の方が多かったのでしょう」村松がふたたび全力投球をはじめたのはことしの春からだ。ヒジの痛みにこりたのか、それから直球中心のピッチングに切りかえた。ことしの夏は直球一本やりで福岡地区予選の決勝まで勝ち進んだ。「器用なことがかえって良かったのかもしれない。入学直後に直球、カーブ、シュートからフォークボールまで投げて見せたのはおどろいた。投法を変えて成功したからといって、プロに通用するとは見えない。やはりおもしろがって投げていた当時ぐらい大胆に変化球を使わないとダメだろう」と沼津敏文野球部長の話だ。村松はいう。「むしろ研修選手になりたかったくらいだ。一度故障したあとではどれが自分のほんとうのスピードかわからないから」と。今春から村松は毎日約二百球から二百五十球のピッチングを最小限の練習量にして精神的なマイナスをとり返そうとしてきた。村松の好きな投手は南海の三浦投手だ。「投げ方もそっくりだし、シュート攻めがすごくうまい。ヒジを心配せずにあれだけコースをついてシュートを生かす投手になりたい」というのだ。沼津部長は別のことも考えている。投手にしておくにはもったいないほどの脚力。「高校に入学したとき百㍍を12秒ちょっとで走った。いまでは軽く11秒台で走るだろう。走り幅とびでも中学時代5メートル75という県の中学大会で三位の記録をもっている。腰のバネと足の速さでは陸上競技部の選手も顔負けしていた。あの柔軟なからだでバッティングを生かしたら・・・」一年生のときから四番を打ち、九州大会準々決勝で高校生として初めて長崎市営球場のバック・スクリーンにぶち込んだ力もある。「村松が投手としてプロで通用するかどうかを早く見きわめることがポイントになるのではないか」と同部長は意味深長なことをいっている。
村松の父親春造さんは三十すぎまでノンプロ三井田川で捕手をつとめていた人だ。春造さんの右手クスリ指は第二関節から大きく曲がったままで動かない。まだ村松が中学生のころから家に帰ると村松のピッチングの相手をつとめた。中学時代はまだよかった。高校にはいると、もう春造さんは受けきれなくなった。とうとい一昨年、球を受けそこねて右手クスリ指を痛めてしまったのだ。春造さんは病院へ走りながら「これでいいんだ」と思ったそうだ。小学校六年生のとき健康優良児で福岡県の特選になった村松にはじめて襲った病気が右ヒジの痛みだった。「シュートの投げすぎだと思う。昨年春の選抜大会でうまくきまって中京商の打者を思うようにあやつった味が忘れられなかった。なんでもかんでも、いざとなったらシュート、シュート・・。それが悪かった」村松はプロ野球選手しか通わぬ希有の帯刀電気治療所に二回通った。昨年の夏休みとことしの春休み。同僚が野球だけですごしている休暇を村松だけは電気マッサージのベッドの上ですごした。帯刀電気治療所ではこういっている。「プロ野球の選手にくらべれば、村松さんは軽症です。はじめての痛みで精神的な不安の方が多かったのでしょう」村松がふたたび全力投球をはじめたのはことしの春からだ。ヒジの痛みにこりたのか、それから直球中心のピッチングに切りかえた。ことしの夏は直球一本やりで福岡地区予選の決勝まで勝ち進んだ。「器用なことがかえって良かったのかもしれない。入学直後に直球、カーブ、シュートからフォークボールまで投げて見せたのはおどろいた。投法を変えて成功したからといって、プロに通用するとは見えない。やはりおもしろがって投げていた当時ぐらい大胆に変化球を使わないとダメだろう」と沼津敏文野球部長の話だ。村松はいう。「むしろ研修選手になりたかったくらいだ。一度故障したあとではどれが自分のほんとうのスピードかわからないから」と。今春から村松は毎日約二百球から二百五十球のピッチングを最小限の練習量にして精神的なマイナスをとり返そうとしてきた。村松の好きな投手は南海の三浦投手だ。「投げ方もそっくりだし、シュート攻めがすごくうまい。ヒジを心配せずにあれだけコースをついてシュートを生かす投手になりたい」というのだ。沼津部長は別のことも考えている。投手にしておくにはもったいないほどの脚力。「高校に入学したとき百㍍を12秒ちょっとで走った。いまでは軽く11秒台で走るだろう。走り幅とびでも中学時代5メートル75という県の中学大会で三位の記録をもっている。腰のバネと足の速さでは陸上競技部の選手も顔負けしていた。あの柔軟なからだでバッティングを生かしたら・・・」一年生のときから四番を打ち、九州大会準々決勝で高校生として初めて長崎市営球場のバック・スクリーンにぶち込んだ力もある。「村松が投手としてプロで通用するかどうかを早く見きわめることがポイントになるのではないか」と同部長は意味深長なことをいっている。