プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

三輪田勝利

2016-06-06 22:29:28 | 日記
1973年

阪急は二十六日、三輪田勝利投手(28)を任意引退選手に、また三宅昇外野手(27)城間盛雅投手(21)を自由契約選手にしたと発表した。任意引退選手となった三輪田は中京商ー早大ー大昭和とエリートコースをたどり、甲子園、神宮、後楽園ではつねにエースとして活躍した。45年ドラフト1位で阪急入りしてからは伸び悩み、四年間のほとんどが二軍暮らしだった。今季も下手投げに変えてみたが成果はなく、三輪田自身も今季限りでユニホームを脱ぐ決意を固めていたため、話し合いはスムーズに運んだ。公式戦四年間の通算成績は4勝0敗。
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ディサ

2016-06-06 22:00:43 | 日記
1960年

大毎では二十五日午後六時東京帝国ホテル旧館梅の間で永田会表、松浦代表、田中コーチ立ち会いで、ハワイ朝日のリチャード・ディサ投手(20)の入団を正式発表した。同投手は大毎、東映、中日、南海四球団のほか、大リーグのカージナルス、ジャイアンツ、ブレーブスの三球団から誘われていたが、ディサの相談相手であるハワイ・ヒロ市のフィリックス判事が永田会長、本田毎日新聞最高顧問と親交があったこと、ハワイ出身の田中コーチがいることなどで大毎入りを決意、二十四日ハワイ朝日軍顧問浜本白正氏が来日、交渉がまとまったもの。ディサ投手は二月十日ごろ来日の予定。

永田会長の話 「金銭を越えた日米のフレンドシップ(友情)で話がまとまったのはうれしい。中日は一日おきに与那嶺が連絡していたというし、大リーグからも相当勧誘していたのに友好を守って大毎にきてくれたのだから立派に育てたい。これでまた投手陣に幅ができた」

浜本白正氏の話 「ディサ一家ははじめから日本にくるなら、大毎が一番安心といっていた。早くハワイに帰って日本での盛大な発表を伝えたい」

プエルトリコ系。1942年ハワイ・ヒロ市で生まれ、昨年ハワイ・ヒロ・ハイスクール卒業後、ハワイ朝日軍に入団。渡布した熊谷組に30イニングを投げて、18三振を奪っている。またAJAリーグ(日系人リーグ)では14勝3敗、ノーヒットノーラン二回を記録、一試合三振奪取20のハワイ記録をもっている速球投手。1㍍78、75㌔、右投右打。
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ドビー

2016-06-06 21:47:44 | 日記
1962年

中日はドン・ニューカム選手(元ドジャーズ、十七日来日の予定)につづいて元インディアンスの黒人ラリー・ドビー外野手(37)の入団を内定した。細かい条件の点で話し合いがつけば二十五日ごろ来日する。ドビー選手の入団が正式にきまると中日は半田、与那嶺、ニューカムを加えて外人選手が三名のワクを超えるので、すでに与那嶺のコーチ専任が決定している。

1947年インディアンス入団から59年まで13年間大リーグで活躍した強打の外野手。通算打率2割8分2厘、本塁打253本、ア・リーグの本塁打王に二度なっている。守備もよく全盛時の54年にはア・リーグ、タイ記録の最少失策2(150試合以上出場)をマーク、ワールド・シリーズには二度出場している。しかし55年インディアンスからホワイトソックス、そして57年にオリオールズ、58年にまたインディアンスを経てタイガースへトレードされ59年再びホワイトソックスへ移籍されるなど晩年の大リーグ生活はさびしかった。これは足の故障と数回にわたるビーンボール渦の犠牲だといわれる。現在はサウスカロライナ州カムデンで雑貨屋を営み、家族は夫人と子供5人。1924年12月13日生まれ、1㍍85、82㌔。
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鈴木博昭

2016-06-06 21:38:38 | 日記
1974年

高木守が名古屋に帰ったため二塁手として先発出場したが、右足カカトざ傷の痛みが尾をひくせいか三打席ノーヒット。六回から守備要員の正岡に交代させられたが「まあ、おいおい調子が出てくるからね」とケロリ。あとはベンチで「早く子供の顔が見たいよ」とゲームもうわの空だった。昨年の十月に咲江夫人と結婚。この十二日に子供が生まれ、早くもパパ。チームメイトから「去年の十月に結婚してもうおやじとは、計算が合わないよ」といわれ「近ごろは子供も五か月ぐらい腹の中にいれば十分なんですよ」とニヤニヤする。埼玉県の大宮商時代は四番で、南関東球界では鳴らしたものだが、甲子園の経験はなし・最高の成績は三年生の夏の県大会優勝。三菱自動車川崎に入社してからは都市対抗で常時活躍、昨年は全日本チームの四番打者としてニカラグアの世界選手権に出場。上体が太めな割に下半身が細く足の故障が心配されていたが、キャンプ前半でやはり右カカトを痛め走り込み不足。森下コーチも「体が締まれば理想的だ。足の痛みのせいか打つ方はまだ不安だが、守備のカンは一流。必ず打球を正面でとらえている」とほめた。子連れルーキー、二十八歳という年のせいか、十年も中日のメシを食っているような顔をしており「あの度胸のよさには負けるよ。夜の特訓が始まっているのに、いやあ、もうやってるの。じゃ、オレも少しやりますかなんて平気で遅れてやってくるのだから・・・」とナインの声。
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中田勇

2016-06-06 19:22:16 | 日記
1966年

育英高・中田勇投手 1㍍80、72㌔、右投右打、3年

昨秋の近畿大会で痛めた右肩がまだ完全に直っていない。「特別痛いというのではないですが、なんとなくこわくて・・・」肩をかばっていまだに連投などをやっている。ブルペンで三十球ほど軽いピッチングをやったがベース上に張られたストライク・ゾーンのヒモにもさわりもしなかった。やわらかい指先にはもちろんマメもできていない。二月十五日から十日間、ボールを持つのをやめて柴山監督の母校専大野球部の合宿所(川崎市生田)にとまって小守マッサージ院にかよった。この間ランニングだけはやっていたが、ボールを手にしたのは先月の二十六日からだ。本人は「できあがりが早い方なのであせってはいません」とのんびりしたもの。柴谷部長、柴山監督など周囲の人たちの方が「のんき坊主で困ったもんです。肩をかばって砲丸投げのようなかっこうで投げては、かえってフォームがくずれてしまうだろう」とやきもきしている。投手で四番。打つ方でもチームの中心にならなければならないのに、肩の故障の影響かあまり元気がない。近畿大会の準決勝(彦根東高)で本塁打を打ったヒーローとはとても思えない。近畿大会の緒戦(大鉄高)に先発して三イニングで6点。打者十九人に九安打とめった打ちされたショックが頭にこびりついているのかもしれない。小学校(山手小学校)五年生のときに父親をなくし、母親美代子さん(38)と二人暮らし。自然にあまえん坊になったようだ。「去年は鈴木さん(近鉄)がいて優勝候補などとさわがれながら第一戦(徳島商)で負け。ぼくは左翼を守っていたんですが、くやしくてその夜はねむれませんでした。ことしは、その分までおかえしをしなくては・・・」というが・・。柴谷部長は「昨年は鈴木という好投手がいて、打線がおんぶしていた。ことしは逆に中田がぱっとしないので打線にカバーしてもらわなくてはいけない。打つ方は自信があるし、中田もいまのままということはないでしょう」と望みをかけている。柴山監督も「あとは気力だけ。腕がちぎれても投げるというファイトがほしい」とのんびりと調整する中田を見守っている。「投手成績」18試合、16完投、5無得点勝ち、投球回数143回、被安打104、奪三振93、与四死球33、失点34、自責点24、防御率1・51。
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