プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山下登

2016-06-25 21:48:31 | 日記
1954年

春のキャンプまわりをした時、最も多数の選手を集めていたのがパールス、それだけに練習に熱も入っていたし「今年はやるぞ」といった空気がただよっていた。しかし長い間最下位球団でもあったのがたたり、こうした決意も努力も認める人が少なく現在四位にいることでさえ「出木すぎじゃないか・・・」などといっている人がいる有様芥田監督にしてみれば「四位は四位でも一位に十ゲームもひき離されたのではふがいない」と考えているに違いない。芥田監督のこうした強気はどこから来ているか?その大きなたねは、ピッチング・スタッフの優秀を信じていたためであろう。しかるに一日現在田中の16勝、関根の9勝をのぞいては沢藤4勝、黒尾3勝、永井2勝、五井1勝という有様、まさに期待はずれでこれでは六、七位がせいぜい、それで四位にいるのは「山下の8勝」が大いに役立っているのである。去年の成績表を見ても山下はのっていないし、キャンプでもたいして話題に上ってもいなかったのに。西鉄を完封した金星のほかに毎日、東映、大映に各二勝、阪急に一勝という勝ち星は大したものだ。一体いかなる投手経歴と球質をもっているのだろうか。山下は神戸生まれ、兵庫工高(三年間投手)を二十八年卒業してパールス入りしたのだから投手になってから五年目、十九歳、五尺八寸の長身であるが軽量級で十五貫、二貫目ほど肥りたいと手をつくしているらしい。気さくで明るい性格であるが学校時代よくコーチさえ野球をよく知っているし、なかなかねばりのあるプレーぶりである。前は横手投げだったときいているが現在はスリー・クォーターが多く、外角をつく速球がウイニング・ショットになっているが、その速球が高低、なかなか味なポイントにきまり、ホップする球と落ちる球になっている。カーブも最近よくなり落ちるカーブを内、外、真ん中の三通りに使い、インコーナーから曲がるカーブを混用しているのが奏功していると思う。長身を利してのシュートもよく内角にきまりカーブとの配合がうまく行く日は相当効果を挙げているがなんといっても一線に立ったばかりで経験が浅いから球威ののっている日はいいが、少しよくないとひとり角力におちいるおそれがある。タイミングとチェンジ・オブ・ベース、さらにダブルプレー・ボールの研究がモノになれば一級投手であるきれがいいからまだスピードも加わると思うが、希望どおり二貫ほどふえたら球も重くなろうし球速ものるに違いない。西鉄の川崎を目標にしているようであるが、肥れば川崎とよく似た身体、フォームも似ているところがある。パールスのホープとして堅実な歩みを切望したい。

山下登投手の話 野球をよく知っているなんていわれると面はゆい気がします。高校時代の監督前川八郎氏(元巨人軍投手)から野球理論をいやというほどたたきこまれたのがよかったのでしょう。またサイドスローから上手投げに変えたのも前川さんの助言があったからです。タイミングをはずすこととチェンジ・オブ・ベースを会得すること、たしかに中沢さんのおっしゃる通りです。私もいまスローボールの使い方に頭を悩ましています。ダブルプレー・ボールは内角へ沈むシュートを投げていますが僕のはどうも速すぎて打者が打ってくれないのです。もっとスピードを落とせばいいのでしょうが、ひとつ間違うと大きくもっていかれそうで採点表のなかで一番点の高いのはスピード、きめ球、試合度胸ですね。まあ自信があるのは度胸だけ。きめ球は外角すれすれのスライダーです。これもなるべくクサいところをねらっています。体重は十六貫にふえたと思ったらまた七百程減ってしまいました。夏バテではありません。僕はむしろ夏の方が働きいいくらいですから。やはり旅行の疲れでしょう。中沢さんにぜひききたいのはこれからもいまのフォームで投げつづけてもいいかということです。自信がないのではありません。ただ確信を得たいのです。
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北畑利雄

2016-06-25 19:02:48 | 日記
1954年

神戸生れ、明石の明南高を出てスワローズに加入。今年で三年目の右投、右打ちの投手。二十一歳、五尺六寸五分、十六貫五分、投手としてはいわゆる「中肉、中背」の男である。投手の経験は中学で一年、高校で三年、国鉄で三年、合わせて七年目。二十七年早春大鉄局から推されてテストを受けて合格、国鉄の二軍で鍛えられ昨二十八年度二軍における活躍が認められて一軍に登録九月十四日の対阪神戦に登板敗戦投手になったが続く広島阪神、松竹の三試合に連勝、「やるぞ・・・」と認められて閉幕、今年のホープに数えられていた新鋭。七月三十一日現在で四勝七敗、少し負けが多いが・・・金田十四勝高橋六勝に続く北畑の四勝であることを思うと中心投手の一人であることがわかる。体格長大ではない北畑がぐんぐんのして来た第一因は・・・どこから出るのかと思うような速球、変化の多い球種を持っていることだ。大胆と思われるほど横手からの速球をびしびし投げこんでいるのがその特長、球速とコントロールには相当の自信を持っているらしいが・・投げているのはシュート(それる球と落ちる球)スライダー、ともになかなか速い。カーブは小さくするどいがあまり効果転をあげていないし投げる数も少ない。それよりもナックルとシンカーの「あいの子」みたいな球の回が少ない落ちる球を投げているが、速球の間にはさむためかなり成功していると思う。器用に見えるが、弱い点を挙げるとウイニング・ショットを持たないことと低目の速球のコントロールに欠けていることではなかろうか・・・。そこで速球で外角にきまる日の好成績にかんがみ、このところ外角速球の高さ低さ、思いのままのコントロールをつけることにブルペンで汗をしぼっているようだ。これは球速とひねくれた球質を持つ北畑としては賢明な策で高目でつって低目を打たせることをつかめば相当いけるはずである。四球を出した場合、ちょっと気にするらしいが試合度胸は大体において強いとみていい。やはり大きな舞台をふんでいない弱点として投手守備、内野手との連絡、協力、打者の心臓打診などをふくめた遂行と処理を大いに勉強しなければならない。

北畑投手の話
「中沢さんはきめ球がないといわれているがそういわれるのがいちばん辛い。しかし一応どんな球でも投げられる自信がある。とくに指先きで投げるシュートは大きな効果が出ていると思う。その日の肩の調子と各打者によって勝負する球をかえている。肩が軽く感じるときはシュート、重く感じるときはカーブを投げている。そういうところからみてきめ球がないといわれるのだろうと思う。現在はサイドからのシュートが大部分。これは相当スピードがのり、それにフォームをかえて上手から自然にスライドする球も投げている。だがこれはまだまだ完全とはいえない。勉強中というのは中沢さんもいわれるようにナックル気味にシュートして内角に落ちる球。これは練習中ためしに投げている間にうまくいきそうだったので、ちょいちょい使って成功している。斜め上から投げるのでちょっとかわったものですよ。ストライクにならなくても釣られて振ってくれる。しかし球速が落ちるのでもっとスピードをつけるように心がけている。これを完全にマスターしてウイニング・ショットにしたい。チェンジ・オブ・ベースはA級とまでいかなくてももう少し上の方にしてほしかった。バックがいいから気軽に打たせているので、ちょっとコントロールがよいといわれるのでしょう」
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和田功

2016-06-25 18:23:12 | 日記
1954年

オリオンズに入って三年目の今シーズン大いに芽を出し、第一戦投手として活躍を開始したが投手経歴は桂高校の三年を入れて六年目。五尺五寸五分、十七貫余、小柄だが腰の太い、腕のよく発達した二十一歳になりたてのおちついた青年である。二軍時代まず眼についたのは小さいこと、柔軟な身体全体をよう使っていること、ロッキング・モーション、そして重い球質などボビー・シャンツそっくりなこと、練習のとき外野に立ってよく走り、よくうけていることであった小シャンツの愛称をつけられて一軍に入って来たときにはスピードがのり、低いところへ投げる球に威力がついていた。最初のほどは上手投げ専門でカーブを多投していたが、いまでもウィニング・ショットは右打者のひざもとに鋭くきれこむカーブになっている。しかしシュートの操作をいろいろと研究するにつれてスリー・クォーターの投法が加わり、いまでは上手投げのシュート(少し落ちる)とスリー・クォーターのシュート(くいこむ)を混投しているようであるが、外角(右打者に対する)へくさい球がきまる日はカーブの威力が倍加して成績がいい。さらに外角で選ぶ球(打者をつる球)のコントロールがよくなれば凡打させる率が多くなり完投能力が高まるに違いない。今シーズンになって時々シンカーをまじえているが、なかなか功を奏している。まだ研究中と見えて投げる数は少ないが自信がつくと同時にその数もふえ長打をふせぐことに役立つだろう。なんといってもまるい身体を折りまげバネをきかして投げるのであるから腰の回転がうまくいかないとコントロールが乱れ、球が浮くおそれがある。今シーズンは対近鉄戦以来腰もよくまわり上体もかたむかず、球のきれもよく球ののびもよかったのでまたたくうちに七連勝(七月二十八日現在11勝6敗)したが最近は快調当時より少しコントロールがよくないのは上体がそるためではなかろうか。現在はもちろん将来への課題は第一にコントロールの会得第二にチェンジ・オブ・ベースの理解、第三に投手守備の上達であると思う。コントロールについては現在悪くはないが力投した場合のコーナーボール、ストライクを狙うカーブのコースについて一段の研究が必要。投手守備はなかなかカンのいい動きをしているがカーブを投げたときなどゴロで逆をつかれると左投手のつねとして身体が流れるだけに手が出しきれないおそれがある。投球と同時にどちらへでも動き出せる姿勢をくり返し修得した方がいい。目標は荒巻投手のよきコントロールとコースだといっているから「うま味のある投手」「いつでも使える投手」に成長して行くと思う。いまが一番大事な進歩期、自省はいいが迷ったらフォームにさわるおそれがある。

和田功の話
コントロールをつけることが急務だといわれますが、いまの私はコントロールに自信があります。六月いっぱい調子が少し下り坂であったためフォームにもくずれがありました。僕のフォームは右足をふみ出すときに大きく左足でキックします。ところがその左足のキックが弱ったため上半身が前にかぶらず突っ立ってしまう。だからボールが高目に流れ打たれる事も多くなるというわけです。しかし現在はキックがよく利いて来たのでスピードコントロールはまだよくなると思う。浜松での高橋戦(五月三日)に自分でもおどろくほどのスピードが出たので少なくもあの時以上は近いうちに出ると思う。チェンジ・オブ・ベースもやはりスピードがあってこそ軟投が生きてくるのでしょう。私はシャンツとあだ名されていますが実際にシャンツを見たことはない。ただ彼の連続写真を見て研究しましたが身体が小さい割にとても柔軟なフォームをしていました。ウイニング・ショットは右打者の内角低目へ入るカーブとスクリュー・ボール(シュートしながら外角へ落ちる)を投げています。
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佐藤一誠

2016-06-25 15:37:18 | 日記
1963年

国鉄は二十八日午後、東京・有楽町の球団事務所で、佐藤一誠外野手(18)=神奈川大中退、1㍍76、75㌔、左投左打=の入団を発表した。席には同選手のほか、北原代表、浜崎監督が出席した。研修期間百試合。背番号54。同日セ・リーグから公示された。同選手は今春八王子高校から神奈川大に入学。すぐに左翼手、四番打者として活躍した。とくに全国大学選手権大会では準決勝で慶大に負けるまで八打数四安打の高打率をマークして巨人、中日、大洋などからもさそわれていた。高校時代には投手をやったこともあるが、大学では俊足(ベース・ランニング14秒)強肩を生かして外野にまわった。

佐藤外野手「プロ野球はよく見ています。打撃には自信があるし左投手も苦にならないので外野で打撃を生かしたいと思います。一生懸命がんばります」

浜崎監督「強打者、とくに左の打者をほしいと思っていた。佐藤君はからだもいいし、足も速いと聞いているので将来が楽しみだ」
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柳川福三

2016-06-25 15:08:40 | 日記
1961年

中日では十九日ノンプロ日本生命の柳川福三外野手(24)の入団が決定したと発表した。正式契約は二十二日名古屋の球団事務所で行われる予定。同選手は中京商ー中京大を経て三十四年日本生命に入社、在学中は内野手だったが、日生に入社後外野手に転向。夏の都市対抗に二度、春の選抜大会にも三度出場。2シーズンで17ホーマーを記録、打率も平均三割をマークしている。また第四回選抜岡山大会では最優秀選手にえらばれている。南海、近鉄、阪急、巨人などからもねらわれていたもので、ことし三月プロとノンプロの申し合わせ(「十月三十一日まで選手との入団交渉をしてはならない」)が破棄されてからのプロ入り第一号選手となった。1㍍79、75㌔、右投右打。

濃人監督の話「本人のプレーをみていないのでなんともいえないが、いい選手らしい。柴田君(スカウト)を通じて交渉してもらっていたが、入団がきまってよかった。打力がいいらしい」

高田代表の話「本人はもちろん家族も賛成してくれたので入団がきまった。日生の方は事後承諾になるが仕方がない。柳川君は中京大にいるころから目をつけていたが、外野へまわってから打撃もよくなった。一か月ほど練習すればすぐ使えそうだ。捕手の吉沢がケガでもした場合、江藤が捕手にまわることも考えられるので、そのときに打てる外野手として柳川君をとった」
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佐藤公博

2016-06-25 12:42:55 | 日記
1965年

八回裏二死をとったところで四年ぶりの白星のキーを石井茂に渡してベンチに帰ってきた。二塁には同点のランナー八田がいる。しかし佐藤公はゲームをみようとしない。すぐにロッカーへアンダーシャツを着がえにいった。「スライダーが外角低めによくきまりました。東京打線は田宮、山内さんがいたころに比べるとずいぶん迫力がなくなりましたね。試合前、天保さん(コーチ)に五回まで投げればいいといわれましたから予定をオーバーしたわけです。完投したかったが、オヤジ(西本監督)がマウンドにきてようほうったといってくれたのでホッとした気持ちでシゲ(石井茂)にバトンを渡すことができました」静かな口調、ていねいな言葉。ホオを伝わる大粒の汗をぬぐおうともせずつづけた。「先発はきのういわれました。だから昨夜は早く寝たです。でもあまり睡眠をとりすぎたせいかねぼけて、けさトイレにはったとき金具(頭を打っちゃってね」帽子をとるとうすくなりかけたオデコにバンソウコウが十文字に張ってあった。入団した年(三十五年)四勝をあげ期待されたが、三十八年試合前の練習中、打球を右手人さし指に当て筋を切り、一年間棒に振った。昨年もそれがたたってファームと一軍をいったりきたり。公式戦の登板もわずか七試合だった。「ことし高知キャンプにいく前オヤジにいわれたんです。ことしダメだったからもうおしまいだぞと。だからキャンプでは必死になって走りまくった。でもまだ入団したころの感じが思い出せない」佐藤公の大敵は太ること。せっせと走ってキャンプ前からみれば5㌔はやせたという。「三年間勝ち星がなかったが、そんなに悩んだりあせったりはしなかった。ただ一生懸命やっていれば必ずむくわれると思ってね」アンダーシャツを着がえるのも忘れて話しつづけていた佐藤公に、住吉が四年ぶりの白星の報告にきた。「勝ったよ。佐藤さん、おめでとう」佐藤公のまんまるい顔がくずれた。「そうか、実をいうとホッとした。でもこれで安心はしないよ。これからが大事だからね」六月攻勢へのろしをあげた西本監督も佐藤公の予定外の好投にごきげんだった。「足立の肩がはっきりしないときだけに大きいよ」ことし阪急の四本柱以外の投手から白星がでたのはこれが初めて。帰りのバスにいそぐ二十九歳の佐藤公は、ルーキーのような軽い足どりだった。
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ホイタック

2016-06-25 12:07:32 | 日記
1965年

ホイタックがウエスタン・リーグに初登板。ネット裏には野崎社長はじめ吉江代表、西沢監督、近藤、与那嶺各コーチら首脳陣がつめかけた。ホイタックはよくからだがのり、ボールも速くコントロールもあり、まずまずのできだった。近藤コーチは「アメリカだとスピードボールは打たれるので、やたらと変化球を投げるが、日本の打者は器用なので変化球だけでは通用しない。きょうのホイタックはほとんどまっすぐで勝負していたが、やっと日本の野球になれてきたようだ」と満足そう。ホイタックは「速球とスライダーで勝負し、カーブは二、三球、ナックルは一球しか投げなかった。きょうのように上体が前にうまく乗ればコントロールもつくということがよくかわった」といっていた。
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香川正

2016-06-25 11:39:02 | 日記
1954年

阪神入りの栄屋投手と近鉄入りの香川外野手は、今春ノンプロ球界からプロ入りした大物の双璧。四国坂出市に生まれ坂出商業から昭和十五年早大に進み、戦時特令で十七年九月卒業、直ちに軍曹に身をおいた。戦後大阪の中央ペイントに入社、十七年二月に日本生命に転籍した。早大時代ははじめ一塁手だったが、やがて外野手となり彼本来の打撃をのばし、四番打者として重きをなした。ところが戦時中でもあり、しかもそのころの早大は不振だったので、あるいは早大の香川選手としてはファンの印象は薄いかも知れぬ。しかし五尺七寸五分、十九貫の恵まれた体格と、生来の負けじ魂は彼をそのままにはしておけない。彼が最も活躍したのは二十七年日本生命に転籍した年で、大阪予選の代表決定戦では彼が投手として全鐘紡との第一戦を獲得しており、第二、三戦は失ったが全鐘紡にピックアップされ本大会では五番打者としての働きを十分はたしている。とくにこの年全鐘紡のメンバーとして第二回ノンプロ世界選手権大会に出場したときの働きはまことに目覚ましいものがあった。大リーグのサム・カルデロン捕手らをまじえたコロニアルスに対し香川選手は全五試合に左翼手として出場、十九打数、八安打、四割二分一厘の高打率で敢闘賞をうけている。二十八年は日本生命から本大会に出場したが惜しくも第一戦に優勝した大昭和に敗退した。しかしこの試合の七回、彼の二塁打をきっかけに一挙四点を獲得して大昭和を脅かした場面も忘れられない。彼は非常に重量感のある強打者常にチームの牽引車として先頭をきるファイターである。彼をボックスに迎えたときのたのもしさはなんともいいようがないほどである。そして例えどんな剛球であろうと、一度彼の胸付近に投げ込んだら、左翼方面に火をはくような弾丸ライナーを叩きとばされてしまう。もしあえていうならば、外角に流れる曲球に一段の工夫がほしいところ。いずれにせよ彼の打撃には魅力がある。これが香川選手の価値である。守備はややスタートのおそいきらいはあるが、スピードと球に対するしつような食いさがりでよくこれをカバーし、投手として経験もあるのでその強肩はいうまでもない。三十二歳の働き盛り、パ・リーグ新人王をねらう有力候補として期待されよう。球場の彼がピチピチとしていて、さぞかしファンには愛されよう。その彼はまた素人ばなれのした歌謡曲の名手だという。この方面でもまた腕をふるって愛されるのではないか。


小林政綱 日本生命監督
香川君は数多いルーキーの中で、すぐにもチームの中核として働ける有望選手の一人であろう。そのバッティングは決してうまいとはいえないどちらかといえばうえから叩きつける力のバッティングで、それだけにスピードボールにはめっぽう強い。とくにレフト方面に引っ張る打球の鋭さはプロ級だ。しかしどうしてもカーブ、とくに外角に来るカーブに弱くそれが心配だ。カーブを打ちこなせるようになったら肩は強く、脚も早いので十分に活躍できるだろう。ただパ・リーグは香川君がニガ手とする技巧派投手が多いというから、この点の研究をこれからつんでほしい。
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