プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

片岡建

2018-03-05 23:00:43 | 日記
1969年

東映の瓜生、塚本両スカウトは二十一日午後二時、立川市曙町のリッカーミシン立川工場をたずね、第一位で指名した片岡建投手(23)=1㍍77、70㌔、右投右打=と小辻野球部監督に交渉権を獲得したあとあいさつをした。これに対し、片岡は「第一位にランクしてもらい、とてもうれしい。これからもいろいろな人に相談するつもりだが、東映を断る理由は別にない」とプロ入りの意思があることを伝えた。瓜生スカウトはこのあと東京、銀座六丁目のリッカーミシン本社にも立ち寄ったが、西牟田野球部長が不在のため、二十二日午後もう一度あいさつにいくことになった。東映ではリッカーミシン本社側の了解がとれしだい、具体的な交渉を開始する予定でいる。片岡はことし春の選抜社会人野球大会の準優勝投手で、上手からの本格派。武器は速球とドロップで、その実戦的なピッチングはスカウト間で高く評価されている。瓜生スカウト「第一位で指名したからよろしくというあいさつだった。交渉はリッカー本社の了解がとれればすぐにでも始めるつもりだ。話し合いの感じでは、すべてスムーズにいきそうだ」

片岡投手「第一位にはびっくりした。これから両親などゆっくり相談して決めたい。東映についてはあまりよく知らないが、別に入団を拒否する理由はない。ただ、プロで自分が通用するかどうかは、スピードの点で不安なので、これからいろいろな人とじっくり話し合ってみたい」

東映・瓜生スカウトは午後二時半、一位指名のリッカーミシン片岡建投手(23)の実家(横浜市神奈川区釜利谷町)をたずね、父親・馨氏に約三十分にわたって入団交渉。馨氏は「こどもの意思次第。別にプロ入りに反対はしない」と好意的だった。
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長井繁夫

2018-03-05 22:43:11 | 日記
1969年

アトムズの内藤常務、浜田事務部長は、三十日午後五時半から約二時間半、東京・新宿区三光町の牛やで三位指名の中大・長井繁夫二塁手(22)=1㍍76、72㌔、右投右打=をまねき、中大・宮井監督、長井の長兄・孝夫氏(34)ら三兄弟をまじえて二度目の入団交渉を行なった。この日は条件(契約金七百万円、年棒百八十万円=いずれも推定)を提示したが、長井側は即答を避けた。だが長井のプロ入りの意思はかたまっており、十二月十日前後に予定される三度目の交渉で正式決定のはこびとなる。長井は中大時代、一年春のシーズンから四年間全試合にフル出場。ベスト・ナインに四度選ばれている。俊足、好守の二塁手として今秋アジア大会にも出場、三番を打った。アトムズでは今シーズン武上が負傷欠場したとき二塁手に泣いたこともあり、武上の後輩にあたる長井を高く評価している。二十四日、群馬県高崎市柴塚町の自宅で行なわれた母親・静さん(60)との話し合いで入団の内諾を得ていた。この日は条件面の交渉を一任されている宮井監督との交渉だったが、長井側は球団から提示された条件を検討、次回の交渉で正式入団を表明する。

アトムズ・内藤常務「きょうはこちらの条件を伝えただけに終った。このつぎ(十日ごろ)会ったときには正式に握手できるのではないかな」

中大・宮井監督「一応条件を聞いたのでお母さんとも相談のうえ返事をしたい。長井はすでにアトムズでやろうという気持ちがかたまっているので、十日までにはかたがつくでしょう」

長井選手「アトムズに三位で指名されてうれしかった。とにかくはいったら先輩、後輩の関係なく武上さんを抜くつもりでやる。なにしろ生活がかかってますから」
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内藤久

2018-03-05 21:24:25 | 日記
1969年

巨人は教育リーグにテスト生として参加させていた元グローバル・リーグ東京ドラゴンズの内藤久外野手(21)=1㍍76、77㌔、右投右打、山梨県立日川高出、前西鉄=の採用を二十五日内定した。同選手は四十一年十一月、ドラフト第五位で西鉄に入団したが、公式戦に出場しないまま一シーズンで自由契約選手となった。その後、玉沢運動具店に入社、今春グローバル・リーグ日本チーム結成と同時にテスト採用され、九月十二日帰国するまで中南米各地を転戦、トップ打者として二十六試合に出場、打率三割五分二厘、二十盗塁をマークした。帰国後は玉沢運動具店に再入社したが、同社が巨人出入りという関係から川上監督がテストをすすめ、二十一日の教育リーグのロッテ・巨人戦(東京)からベンチ入りさせていた。グローバル・リーグの帰国選手がプロ球界に復帰するのは、これがはじめて。

巨人・中尾二軍監督「スイッチ・ヒッターで、足が速いのが魅力。この五日間の練習でじっくりみたが、左打ちが非常にシャープだ。大げさかもしれないが、一軍にはいってもかなりやれるだけの力をもっている」

内藤選手「もし巨人のユニホームを着られるようなら、こんなうれしいことはない。グローバル・リーグで中南米を転戦したときの苦労を思えば、どんなきついことでも平気だ。一生懸命がんばる」
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渋谷幸春

2018-03-05 20:48:05 | 日記
1969年

中日は二十六日午後三時半、市内中区栄の球団事務所でドラフト会議七位指名のノンプロ四国電力・渋谷幸春投手(22)=1㍍75、73㌔、右投右打、鳴門高出=の入団を発表した。背番号は未定。中日はこれでドラフト会議で指名した新人の補強を一応終了した。渋谷は上手投げの本格派でスライダーが得意。四十一年、鳴門高から四国電力に入社、以来控えの投手であまり目立たなかったが、ことしの夏スライダーをマスターしてから頭角をあらわし、近鉄が指名した八塚を抜いて文字どおり四国電力のエースにのしあがった。四国電力からは島谷についで二人目の中日入り。

渋谷投手「できるだけ早く一軍にあがり、ONと勝負してみたい。スタミナには自信がある」
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但田裕介

2018-03-05 20:04:22 | 日記
1969年

阪神・佐川スカウトは二十三日午後五時、ドラフトで三位に指名した東京堀越高・但田裕介(18)を、小平市小金井の自宅にたずね、一回目の交渉で条件(契約金八百万円、年棒百万円=いずれも推定)を提示した。但田は即答を避けたが、父親巌さん(46)=田無三王交通勤務=は一応了承。一両日中に、明大進学をすすめている堀越高・田辺監督と話し合って正式に返答することになった。但田は今春の選抜高校大会で堀越のエースとして決勝まで進出。三重高に敗れたが、その速球とカーブで本格派の左腕としてスカウトの目を集めた。選抜大会後も春の東京、監督大会で優勝投手となり、関東地区の左腕№1と評価した阪神はドラフト会議前から両親に下交渉を進めていた。但田がこの日はっきりした返事を保留したのは、田辺監督が明大進学をすすめ、プロ入りに反対しているためだが、父親巌さんは阪神の条件を一応納得しており、入団は時間の問題とみられる。

阪神・佐川スカウト「からだが大きくなりそうだし、左腕投手なのでウチにほしい。条件?高校選手として適当と思われるものを提示した。入団してくれそうだ」

但田投手「いまのところ進学かプロ入りか五分五分の気持ちです。とにかく田辺監督と相談して決めたい」
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渡部司

2018-03-05 19:48:01 | 日記
1969年

中日は二十二日午後三時十五分、市内中区栄の球団事務所で、ドラフト会議第二位指名のノンプロ石川島播磨重工・渡部司投手(19)=1㍍75、72㌔、右投右打、高鍋高出=の入団を発表した。契約金一千万円、年棒は百五十万円(推定)。背番号は未定。渡部は上手投げでカーブが得意。タフでバネがあるのが特徴で、東方代表も「ウチがドラフトの第二位に指名したのは、からだはそんなに大きくないが、バネがあり、将来が大いにたのしみだ、という各スカウトの進言があったからだ」といっている。この秋、後楽園球場で行われた産別大会で、リッカーミシンの片岡(東映が第一位指名)と投げ合い、ホームランを打たれて1-0で敗れたものの、そのピッチングはプロ向きと高く評価されていた。一月二十日からの合同自主トレには最初から参加する。
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中山孝一

2018-03-05 19:31:18 | 日記
1969年

南海は二十二日午後二時、大阪・南区難波新地の南海電鉄本社でドラフト会議で指名、獲得したサッポロビール・中山孝一投手(21)=1㍍79、73㌔、右投右打、千葉工商出=、中村高・北尾一喜遊撃手(18)=1㍍75、66㌔、右投右打=、鯵ヶ沢高・堀内三郎外野手(18)=1㍍78、69㌔、右投右打=の入団を発表した。発表に先立ち三選手は大阪・浪速区蔵前町の球団事務所で契約を完了。発表には野村監督も立ち会った。背番号は中山17、北尾38、堀内51。
中山は速球で押しまくる本格派投手。サッポロビールのエースとして三年間活躍。ことしは東京大会で最優秀選手に選ばれ、スポニチ大阪大会でも熊谷組を完封し、優秀選手になっている。ことしの成績は10勝7敗で「球の速さはノンプロでも一球品。まだ荒けずりで即戦力とまでいかないだろうが将来が楽しみだ」と交渉に当たった堀井スカウトはみている。
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矢島勝彦

2018-03-05 19:07:14 | 日記
1969年

近鉄は二十三日、矢島勝彦内野手(26)を任意引退にしたと発表した。矢島は球団側が守備力、走力を高く評価して来シーズンも契約する意向だったが、本人が野球に自信をなくした、との理由で退団を申し出たため、任意引退になった。
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吉川達彦

2018-03-05 19:03:22 | 日記
1969年

南海の新山代表は二十二日午後、大阪・浪速区蔵前町の球団事務所で吉川(旧姓田中)達彦投手(24)の自由契約を発表した。同投手は球団の用具係を要請され態度を保留していたが、同日午後「用具係をやるなら新しい仕事をみつけたい」と退団を申しでたもの。吉川は三十九年に銚子商から大型内野手と騒がれて入団、村上らとアメリカに野球留学するなど期待されていたがめがでず投手に転向、今シーズン途中から登板は投手のままでまた野手にコンバートされていた。

吉川投手「球団が用具係でしか残さないといのうで断わり、退団届けをだした。これからは新しい仕事をみつけて再出発したい」
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住友秀雄

2018-03-05 00:19:58 | 日記
1969年

東映は二十五日午後、東京・京橋の球団事務所に嵯峨健四郎投手(32)住友秀雄投手(20)長南恒夫内野手(30)の三選手を呼び自由契約をいい渡した。
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