プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

松下芳夫

2018-03-23 21:24:19 | 日記
1967年

近鉄バファローズは十九日午後一時・大阪市東区森之宮の球団事務所で立大・小川亨外野手(22)、電電近畿・松下芳夫捕手(21)の入団を発表した。小川外野手は宮崎商から立大進学、東京六大学リーグ戦では通算2割9分1厘、7ホーマーを記録した強打者、身長1㍍75、体重72㌔、左投げ、左打ち。松下捕手は別府緑ヶ丘高から電電近畿に入社、四十年の都市対抗優勝当時の一員だった。身長1㍍80、体重75㌔、右投げ右打ち。これで近鉄の新入団選手は六人となり、ことしの新人補強は一応終わった。

近鉄・芥田社長の話 「ねらいどおりの補強に成功した。90点はつけられる。10点たりないのは三輪田がとれなかったことと、右のベテラン代打陣として山内、葛城を招へいできなかったことだ」
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槌田誠三

2018-03-23 21:15:17 | 日記
1966年

立大の槌田誠三選手は、八月に松江で行なったキャンプでカゼをひき、これが原因でウイルス性肝炎(黄だん)にかかり、九月十八日から岡山県都窪郡妹尾町妹尾の実家に帰省、静養している。七日午後、槌田選手の実家を訪れドラフト会議で巨人の第一次選択選手に決まったことを知らすと、もの静かな表情のなかにも喜びをただよわせながら「新聞の情報でドラフト会議にわたしがとり上げられることは知っていた。セントラルの巨人と決まってホッとしました。わたしは卒業後も野球をつづけたいと考えているし、やる以上はプロ野球という最高のところでやりたいと思っている。家族や立大の清水監督とよく相談して入団の気持ちをかためたい」と語った。さらに巨人にたいする感想をきくと「チームの内容はよくわからないが、身近な先輩の土井さんが活躍している球団であるし、いい選手がたくさんいるので、同じ野球をやる以上、強い球団でもまれてみたい。観客の動員数が多いなどばくぜんとした理由から、自分としては、前からパシフィックよりセントラルが好きだった。プロ野球は競争のはげしい世界だが、自分と同じ年代のものがやっているので、自分もついてゆけると思う」と語った。ウィルス性肝炎のほうは、採血の結果回復しているとのこと。今月いっぱい実家で静養をつづけ、十二月にはいって上京、一月から本格的なトレーニングをはじめるそうだ。同選手の話しぶりからみてプロ入りはまず間違いない。最後にこんごの抱負として、槌田選手は次のように語った。「自分の不注意で病気にかかり、大学生活最後の秋のリーグ戦に出場できなかったことは非常に残念だった。まだ契約したわけではないが、巨人に入団したら、早く第一線でやりたいと思うし、すこしでも早くチームの役に立つ選手になりたい」
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松岡功祐

2018-03-23 21:03:52 | 日記
1966年

「野球は好きですが、プロでやる自信はありませんネ。でも一位にランクはうれしいです」スポーツ刈りの頭をかきながら、さかんにテレた。浅黒く精カンな顔。1㍍70、70㌔と大柄ではないが骨ぶとな足腰がたくましい。熊本の九州学院から明大を経てサッポロビールへ入社したのが昨年の春。大学の三年から頭角をあらわし、四年生の秋のリーグ戦で長池(阪急)についでベストテンの二位。そのころから俊足、好打の遊撃手と注目されていた。「打、守、走・・・どれもたいしたことありません。ダイヤモンド一周も14秒5ぐらいですが、でもボク自身はどうせやるならプロでという気持ちはないでもありません。会社や家族やお世話になった人にまず相談してからでないといまはなんともいえませんが・・・」まだ九州なまりがかなり残っている。五人きょうだいの四番目。実家は熊本市新町でタクシー会社を経営。しかし野球に熱心だった父親の良明さん(63)が、先月の十五日、急性肺炎でなくなって相談相手がひとり減ったと残念そう。そのかわり良明さんがモットーにしろと残した「良心、闘志」と書いた色紙がピンと止めてある。その横に首位打者賞、打点賞・・・二年間のノンプロ生活で獲得したトロフィーもズラっと並んでいる。いまは中旬からはじめる産別大会にそなえて猛練習中だという。「いまでもなにかにつけて同期だった土井(巨人)と比較されますが、あんなにうまくはできません。でもボクは野球以外にこれといった楽しみもないし、取り得もありませんから・・・」ランク一位にまんざらでもなさそうだった。
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原秀樹

2018-03-23 20:11:28 | 日記
1967年

阪神タイガースは十九日、新居浜商の原秀樹選手の入団を発表した。原選手は十一月九日に行なわれたプロ野球新人選択会議で阪神が交渉権をとり、十二月はじめから河西スカウト担当で入団の交渉がされていた。日鉱日立に就職が内定していたため、はじめはプロ入りを否定していたが、河西スカウトの説得で阪神入りすることになり、十九日午後一時から大阪市北区梅田町のタイガース事務所で契約した、母親の澄子さん(42)に付きそわれて契約にのぞんだ原選手は「就職が内定していたが、話し合いを続けた結果、家庭の事情もあり、野球を仕事として取り組みたいと思うようになった。阪神はやりがいのあるチームだし、愛媛県出身の大先輩、藤本監督の指示を守って、力いっぱいがんばりたい。自分としては打撃が主だと思っている」と話していた。原選手は新居浜北中出身、新商にはいり、一年生時代は投手で活躍したが、二年生になって打者に変わった。四十二年の選抜大会に出場、準々決勝の対報徳戦で左中間のラッキーゾーンにたたきこんだ。高校時代の通算打率は三割を割っているが、177㌢、75㌔の恵まれたからだを使い、腰がはいった振り切る打法には定評があった。十八歳。
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土屋紘

2018-03-23 19:27:33 | 日記
1971年

九回、救援川内が打たれてその差はわずかに1点。しかお二死ながら同点の走者が二塁にいる。もしここでヒットが出ればプロ入り待望の初勝利は夢と消える。土屋はベンチ最後部で思わず目をとじた。「やった、勝ったぞよかったな土屋」最後の打者大橋が遊ゴロに倒れた瞬間ナインは歓声を上げて土屋に握手を求めた。「ありがとう、ほんとうに勝てた、よかったー」土屋はまだ信じられないといわんばかりポカッとした顔でボツリボツリと話した。プロ入り四年目にして初先発、初勝利。余りに長かった春に土屋はゲーム後しばらくは放心状態だった。土屋の先発は前日決まったという。それもゲーム後の大島コーチの話によると「風がきのうと同じセンターからホームよりに吹いていたら」という条件付きだった。土屋はもともと球威は一流だが精神面の弱さで、これまでの三年間二軍のエースのままいま一つそのカラを破れなかった。しかし中日投手陣はことしも手薄、なんとか土屋を一人前に仕立てなければならない事態にきている。それだけに土屋初先発には首脳陣としても多分にバクチ的な要素があったようだ。「0で押えろといえば堅くなる。六回までなんとか2点に押えてくれたら」大島コーチが祈るような気持ちでマウンドに送り出した土屋。この土屋が七回につかまって川内の救援を仰いだとはいえ、六回まで無失点に大洋打線を押えたのは大殊勲だった。-調子はどうでした。「まあまあ」-五回を投げ切って勝利の権利を得てから堅くなったのでは?「3点あったので気にしなかった。ただ新宅さんのリードの通り投げたんです」土屋のピッチングはいつになく冷静だったが、その好投の陰に新宅の好リードを見のがすことはできない。新宅と土屋は駒大の先輩と後輩、大学時代の二年間バッテリーを組んで、お互いに気心は十分知りつくしている。「よしいいぞ」「ビクビクするな」一球ごとにこうした新宅のかけ声は気の弱い土屋にどれだけ心強かったことか。「特別に調子はいいとはいえないかった。ただ力まず投げさせることに気を使った。コースをねらいすぎるとボールが先行して苦しくなるので、カーブをうまく使い、ストレートを生かすリードをした」と苦労話をちょっぴり。大洋の左の強打者中塚、江尻を思い切った内角球で勝負して押えたあたり圧巻だった。「とにかく勝てたことがうれしい」土屋はマイクを差し出されるとただそれだけいうのが精一杯。あとは声をつまらせた。四十三年ノンプロ電電東京からドラフト第一位で中日入り、鳴かず飛ばずで期待を裏切ってきた土屋だが、まだ二十七歳の独身、これから芽を出しても決しておそくはない。四年目にして訪れた春。この自信を大事に大きく育ててほしい。
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秋山重雄

2018-03-23 07:10:19 | 日記
1968年

近鉄が交渉権を獲得した立大・秋山重雄二塁手(22)=1㍍78、75㌔、右投右打=は、十四日近鉄入りの意思を明らかにした。同日、上野球団顧問が同選手と東京・新宿で会い入団を要請した結果、態度を明らかにしたもので、正式契約は秋山が十五日郷里の岡山県倉敷に帰り、両親に報告、世話人の清水立大前監督の了承をとったうえで行なわれる。

近鉄は三日午後三時から大阪・森の宮の球団事務所で秋山重雄二塁手(22)=1㍍77、74㌔、右投右打、倉敷工ー立大=の入団を発表した。入団に先立ち同選手は同所で正式契約をすませた。契約には球団から芥田代表、中村常務、交渉に当たった上野球団顧問、父親・実夫さん(59)母親ヒサさん(55)が立ち会った。契約金は八百万円、年棒は百八十万円(いずれも推定)ことし近鉄が獲得した二人目の新人選手(芝池投手につぐ)である。

秋山は倉敷工の一年生だった三十七年夏補欠で甲子園に出場、三年生の三十九年春は三番、二塁手で再び甲子園に出場した。このとき四番を打ったのが中日・菱川で、当時から秋山は器用な選手として注目されていた。四十年立大に進み、二年春のリーグ戦からレギュラーになり、このシーズン自己最高の打率三割四分七厘をマークして打撃八位にはいりベスト・ナインに選ばれた。その後三番、四番を打って立大の中心選手として働いた。大学時代のおもな記録はベスト・ナインに二回選出、ホームラン四本、優勝一回である。今秋、神宮球場で行なわれた明治百年記念野球大会に東京六大学の代表に選ばれてプレーした。投手陣と内野の強化をことしのドラフト会議の目標にしていた近鉄は第四位で交渉権を得、上野球団顧問が東京で交渉を進めてスムーズに入団が決まった。堅実な守備とリストの強いバッティングが目立つ選手で、足のベース一周14秒5と速い。近鉄は実戦的な選手として即戦力になると期待している。

立大・秋山選手「プロでやることが野球をはじめたときからの目標だった。近鉄が指名してくれたのでとてもうれしかったし、感謝している。プロで試合にでるまでは大変な努力がいると思うが、一生懸命にがんばってみる。先輩たちのプレーを見習って一日も早くゲームに出られるようがんばります」

芥田代表「なかなかの好青年だ。これまでは家族全部にバックアップされて成長してきたというが、これからは周囲に甘えないで伸びていってほしい。日本人の平均体格よりちょっと大きいからだで、よくバランスがとれている。実戦型なので早く第一戦に出てもらいたい」
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富永格郎

2018-03-23 06:15:02 | 日記
1965年

「富永君は、非常に特異なタマを持っているし、年齢的(二十八歳)にも、まだまだふけ込むトシではない。それに、性格がまじめで、努力家であるところが、これからのウチのチームカラーにぴったりだ」二日午後、東京・有楽町のサンケイ球団事務所ー。田中稔常務の期待のことばを聞きながら富永はじっとうつむいていた。特異なタマというのは、上手から投げおろす大きなドロップだ。三十一年立命館高から東映に入団した当時は、グーンとホップするストレートと、このドロップで11勝をマーク、南海時代の飯田監督も、ずいぶん手こずらせたものだ。だが、以後十年間に36勝48敗と不振だったのは、きまじめな性格がわざわいしている。富永のピッチングは、性格が反映して、ストレートとドロップの単調さからぬけ出すことができなかった。いいときにはメッポウいいが、打たれ出すと止まらないという点では、先輩の土橋と、どっこい。ヒジの故障などに悩まされたこともあるが(現在は全快)変化のなさが、せっかくの球威をフルに生かしきれなかった。「これはいかん」富永がおそまきながら気づいたのは今シーズン半ば。五月にフォームを少し変えて、右腕を下げ、シュート、スライダーを投げはじめた。「この分なら夏場からやれる」と自信を回復したとたん、交通事故。「横断中に右からきた車にぶつけられた」という不測の事故で右モモを打撲(全治一週間)したのが致命的だった。このため今季の富永は、わずか4試合に登板しただけで勝敗なし。来季も東映のローテーションからはみ出してしまった。ところが、富永のドロップを、忘れなかった人がいた。サンケイの飯田監督がその人。「ぜひ富永をとってほしい」の要望に、友田社長が、かけずり回って見返り選手なしのトレードにこぎつけたもの。富永はすでにセ・リーグのゲームを取材ずみ。「テレビをみながら、ボクだったらこう投げようああ投げようと思っていたのがプラスになりそうだ」と目を輝かす。「ONはもちろん、他の打者も、近めで勝負してみたい。そのためにシュートが必要だから、腕を少しおろしたんだ」と強気プラス変化のあるピッチングを頭に描いている。「それに、じつはいまおもしろいタマを研究中なんだ。投げ方は秘密だけど、打者の手元でスッと沈むんだ。ドロップでもなし、フォークボールでもないんだが・・・」と魔球のテストを楽しみにしている。想像では、シンカーの一種と思われるが、巨人・宮田に対抗できるトミ・ボールが来季の風雲を招くかもしれない。

富永格郎投手の略歴 昭和十二年五月四日生まれ、二十八歳、1㍍80、75㌔、右投げ右打ち。立命館高を経て、三十一年東映に入団、その年11勝したが、その後はパッとしなかった。今季は4試合に出場、8イニングで自責点5。通算成績は38勝48敗。
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西岡三四郎

2018-03-23 05:52:28 | 日記
1967年

洲本実高・西岡三四郎投手(17)=1㍍82、75㌔、右投げ、右打ち=の南海入りが、二十六日決定的になった。南海の藤江渉外課長は同日山下スカウトとともに洲本市汐見町の西岡宅を訪れて三回目の獲得交渉を行なったが、同席した実兄重一氏は「久下本洲本実高監督に相談したあと、南海へ電話で返事したい」と語り、南海の提示した条件(契約金推定八百万円、年棒百五十万円)を納得したものとみられる。西岡側の電話の返事は後日ということになっているが、洲本実高監督の了解をとることだけが残っているので、二、三日中には正式南海入りの回答がなされるもよう。
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井上晃二

2018-03-23 05:21:54 | 日記
1979年

昭和35.12.31生まれ 出身地 大分県別府市
右投右打、176㌢、73㌔
別府大付属高校ー日本ハム(54年)
給料 240万円

攻守走三拍子そろっている。とくに魅力はベース一周13秒8の快足で、出塁すると走りまくった。高校三年間で通算3割7分3厘、30ホーマーを記録している。遊撃手として鍛えられる。ドラフト3位。契約金1600万。
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勝亦治・樫出三郎

2018-03-23 05:13:49 | 日記
1970年

阪神は八日、ドラフト九位指名、勝亦治捕手(18)=静岡商、1㍍76、76㌔、右投げ右打ち=と、ドラフト会議では指名されなかった樫出三郎投手(23)=法大ーデュプロ印刷、1㍍72、69㌔、右投げ右打ち=の入団を内定した。勝亦はさる六日、河西渉外課長、小鶴スカウトが静岡市用宗4丁目の同選手の実家を訪ねて入団交渉を行ない、この日、電話で入団の意思表示を受けた。同捕手は強肩、強打を誇り、和少ない高校球界の捕手の逸材として将来性が期待されている。樫出はドラフト会議でこそ名が出なかったが、ことし夏の都市対抗野球では日通浦和の好投手三橋(ヤクルト指名)と投げ合うなど腕をあげている。下手投げでコントロールがよい。法大当時は田淵の一年後輩。両選手の入団発表は十二月中旬の予定。
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