プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岡野義光

2016-05-29 09:00:13 | 日記
1962年

中日ドラゴンズでは、さきに入団が内定していた岡野義光捕手(23)=ノンプロ三協精機(長野)明大出=と二十二日正式契約したむね。同日午後名古屋の球団事務所で、松田球団常務から発表された。同選手は身長1㍍79、体重75㌔、右投げ右打ち、背番号は62。三協精機は、広島で行われた産別大会の機械部門で出場、二十一日の準々決勝で東黎工業との試合に負けたためすぐ来名し正式契約をしたもの。いったん帰省したうえ、二十四日ごろ再び来名、二十五日に中日の練習に初参加。二十七日、中日球場で行われる対国鉄ダブルヘッダーから、ベンチ入りする予定。ノンプロでは無類の強肩捕手として定評があり、長打力のあるバッティングは高く評価されていた。今シーズンの残り試合もすくなく、すぐ戦力として期待するのはムリかもしれないが、来シーズン正捕手をねらう有力な一員として楽しみな存在。筋肉質のしまった体格で捕手としてはかなりの長身。一見して馬力の持ち主とわかる。話しぶりも、テキパキとして、陽性の明るい性格をのぞかせている。

岡野選手の談 プロへはいるなら、始めからセ・リーグのチームを望んでいた。さいわい、中日が自分にとって、一番うってつけのチームと考えたから入団した。今シーズンは残り試合がすくないが、出ろといわれるなら、もちろんよろこんで、いますぐにでも出場したい。中日には明大で一年先輩だった捕手の佐々木さんもいるので、こんども改めて競争することになるわけだが、いままでの経験を生かして、しっかりとがんばっていきたい。

茨城県出身。土浦一高から三十二年明大に進学。高校の中途から捕手をつとめ、大学では一年先輩だった佐々木(現中日)のカゲにかくれ控えだったが、四年生のときからレギュラーとなる。一時、投手を練習したこともあるほど、大学時代から強肩が認められていた。昨年三協精機入り、四番打者として二シーズンに8本の本塁打。通算打率は2割8分5厘。打撃面でもグングン頭角を現し、ノンプロ界の注目を集めていた。本籍は茨城県筑波郡谷田部町赤塚町、昭和13年11月28日生まれ。
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浜田総国

2016-05-28 08:19:43 | 日記
1963年

中日ドラゴンズは、日大の千原、八女高の矢野両投手をはじめ、大学、高校球界の好選手の補強を着々と進めているが、このほど九州高校界で大型捕手として各球団から注目されていた、八代一高の浜田総国(ふさくに)選手(17)=熊本県八代郡鏡町下有佐158=の入団が決定した。同選手は身長1㍍81、体重71㌔の大型な体格にめぐまれ、九州高校球界では評判の好捕手だった。今夏の甲子園大会熊本県予選では二回戦で優勝候補の鎮西学院に延長十二回のすえ3-4と惜敗したが、四番打者としてひとりで打ちまくり、今シーズンの公式戦で12試合、打数66、安打25、打率3割7分9厘の好成績をあげた。地元の西鉄は打てる捕手、それに浜田の大柄なからだにほれ込み、熱心に入団を誘っていた。だが中日は九州担当の柴田スカウトが、早くから浜田選手のめんどうをみていたことから争奪戦を有利に展開、翌日、同選手といっしょに来名し、中日球場でテストした結果、入団が決定したもの。

父国男さんの話 好きな野球をやりたいというので、中日にお世話になることになりました。むすこがプロでやれるかどうか、私はあまり野球は知らないのでわかりませんが、とにかく、みなさんの期待に答えるようなりっぱな選手になってほしいものです。

浜田選手の話 大学を志望していたが、どうせ野球をやるならプロでやってみたいと思った。中日に入団できてうれしい。一生懸命にがんばります。
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吉良修一

2016-05-26 22:18:47 | 日記
1967年

阪神タイガースは十八日午後一時から大阪市梅田の阪神本社六階会議室で、春の選抜高校野球の優勝投手、津久見高校吉良修一投手(18)=右投げ、右打ち、180㌢、75㌔=の入団を発表した。吉良投手は、選抜高校野球大会に初出場した津久見高のエースとして、優勝戦までの4試合を一人で投げ抜き、武器であるドロップを駆使してみごと全国優勝を成し遂げたもので、西鉄入りした河原(大分商)とともに右の本格派投手として高校球界の双へきといわれた。阪神ではさきの新人選択会議で第二位にランクして交渉権を獲得したが、甲子園球場を本拠地とする阪神に、甲子園大会の優勝投手が入団するのは、三十五年の金子(西条高)いらい七年ぶりである。

吉良投手は母親房子さん(44)に付き添われ、戸沢代表の立ち会いで入団発表の席に姿を見せた。青春のシンボルが顔いっぱいに吹き出し、メガネの奥の目が絶えず笑っていた。報道陣の質問にもハキハキ答えるあたり、いかにも名門校出身らしい折り目正しさ、報道陣との応対は、すでに選抜大会で優勝したときに経験ずみとはいえ、高校生ばなれした落ち着きようだった。吉良投手自身は、日本石油への就職が内定していたが、「家庭の事情とプロでやってみたいという気持からプロ入りに踏み切りました」ちお説明。小学校二年のとき父親重義さんをなくし、母親の手一つで育てられたが「意志の強い子です」(母親房子さんの話)というとおり、シンの強さをのぞかせていた。吉良投手の名を全国に高めた選抜大会では、4試合で奪った三振は51、対高知との優勝では延長十二回を投げて三振16個を奪っている。その試合で、一死三塁に走者を置いたピンチで、打者がスクイズすることがわかっていながら真っ向から勝負して投げ勝ち、試合後「ボクのドロップはスクイズできないと自信を持っていた」と自信満々で語ったことは有名。投手になったのは中学三年のときからだが、中学二年の新人戦には、盲腸を手術してから十五日めに遊撃手として試合に出場したというエピソードもある。野球の強い学校ということで、高校は一人で下宿して校区外の津久見高に進学。二年生の秋の九州大会大分県予選では、臼杵商を相手にノーヒットノーラン試合を演じた。
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佐野卓郎

2016-05-26 20:26:42 | 日記
1963年

ノンプロ日鉱日立の主力打者佐野卓郎遊撃手(21)=享栄商出身、右投げ右打ち、身長174㌢、体重70㌔=は、プロ野球の各球団から入団を誘われていたが、このほど中日ドラゴンズ入りが決定的になった。同選手は近日中に会社へ退社願いを出すことになっている。なおノンプロ選手がプロにはいった場合の研修期間は開幕の日から五十試合である。同選手は三十五年享栄商を卒業と同時に日鉱日立に入社。高校時代から攻、守、走と三拍子そろった好内野手と定評があったが、とくに打撃力がすぐれ、本塁打も数本放っている。ノンプロに進んでからは、三十五年は春、三十六、七年は夏の都市対抗大会に出場、つねにチームの中心打者として活躍してきた。プロ野球からは、高校のとき南海から誘われ、その後国鉄、大毎、阪神なども入団を交渉していた。なかでも国鉄がいちばん熱心だったが、昨年末になって中日が強力に入団交渉に乗り出し、同選手も少年時代から地元ドラゴンズと話が進んだ。名古屋市中区正木町の家庭には両親が段ボール業を営んでおり、三人兄弟。

佐野選手の話 高校のとき南海から話がありましたが、当時はプロでやれる自信がなかったので、ノンプロを選びました。ノンプロで三年間プレーして、自分でもやれる自信がついたから、熱心に誘っていただいたドラゴンズにはいる決心をしたわけです。

新井享栄商監督の話 三年前南海から話があったときに本人から相談を受けたが、あのときはノンプロで二、三年腕を磨いてからの方がいいのではないかと答えておいた。二年生から遊撃をやらせたが、フット・ワークはいいし、リストも強い。性格は負けずぎらいだが、ふだんはおとなしい。勉強次第ではプロでも相当活躍できるのではないか。

高田代表の話 河野君とよく似たタイプの好選手ときいている。研修期間はあるが戦力のプラスになることはまちがいないだろう。
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山崎武昭・井上健仁・岩切正男・阿佐美勝義・舟渡光政

2016-05-26 19:48:29 | 日記
1963年

東映は十五日午後二時十分から東京・銀座西の本社八階特別会議室で法大・山崎武昭投手(22)=1㍍77、74㌔、左投げ左打ち、横浜高・井上健仁投手(18)=1㍍74、73㌔、右投げ右打ち、岩切正男投手(19)=1㍍84、80㌔、右投げ右打ち、足利工・阿佐美勝義(18)=1㍍76、70㌔、左投げ左打ち、鳴尾高・舟渡光政(18)=1㍍79、79㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。山崎は二年からマウンドにあがり法大三回の優勝に貢献。今秋のリーグ戦では10試合に登板して5勝2敗。前半は不調だったが、後半は見事立ち直り、対立大戦でみせた胸のすく快投は法大の優勝を呼び寄せた第一の立て役者だ。左腕からくり出す速球、シュートは右の石岡(明大)と並んで本格派投手として定評があった。山崎投手は「プロの世界は全然わからないが、じっくり研究したい」と顔を紅潮させていた。また甲子園のヒーロー井上投手も国体に出場、準決勝で下関商に敗れはしたが、ハワイ選抜チームにも選ばれている。四番を打っただけあって本人も「投げるよりも打つ方が好きです」と素直にこたえて水原監督、石原代表を苦笑させた。岩切は中野の実践商から駒大を中退。立正佼成会にはいりエースとして活躍、産別大会にも出場している。阿佐美は足利工で長距離打者として鳴らした。通算打率は・360。本人も「このうちホームランは10本くらい打ちました」と自身満々だった。舟渡は鳴尾高校の四番打者、俊足とリストのきいたバッターで通算打率・425と高打率をマークしている。

山崎投手の話 東映を選んだ理由は、東映が一番熱心に私を誘ってくれたからです。プロの選手になった以上は人一倍のピッチングを研究して一日も早く第一線で働きたいと思っております。いままでは直球には自信がありましたが、これからは変化球ももっと研究したいと思います。僕は投げれば投げるほど調子が出る型だから期待を裏切らないようがんばります。
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森川卓郎、関根勇、山田治之、雑賀幸男

2016-05-26 19:14:20 | 日記
1963年

広島カープでは九日午後二時半から広島市民球場内事務所で山本代表、白石監督、西野スカウト立ち会いのもとにつぎの入団選手の発表を行った。

投手 森川卓郎(22)広島商ー神奈川大、1㍍73、67㌔、左投げ左打ち
捕手 関根勇(19)大阪高ーPL、1㍍74、73㌔、右投げ右打ち
山田治之(17)名古屋電気工、1㍍73、73㌔、右投げ右打ち
内野手 雑賀幸男(19)興国商ー関大中退、1㍍77、73㌔、右投げ右打ち

森川は横浜五大学秋季リーグ戦で5勝1敗、防御率1・20台をマーク、左からのストレートに自信を持っている。関根はノンプロPL教団で五番を打ち、3割台の打率を残した中距離打者、強肩、俊足でもある。山田はこれまで3割5分の打率をマークしている好打者。捕手と外野手をかねていただけあって足も速い。雑賀は高校時代打率・380、10ホーマーを記録、関大にはいっても代打、一塁手として登場している。

白石監督の話 四人とも新しい戦力として期待している。とくに森川はウチに必要な左投手だけにうまく育てたい。
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祓川正敏

2016-05-25 21:07:32 | 日記
1959年

祓川が南海に入団したのは32年。だからことしで三年目。入団当初は「この名前はなんてよむのかな」といわれたものだが、いまはパ・リーグのファンなら「ハライカワ」と読むのに苦労しない。それだけファンの耳に、目に接する機会が多いーつまり売り出し中というわけ。現在は7試合に登板。4勝1敗の好成績。1㍍75、75㌔の身体はいまのプロ野球ではあまり大きいほうでもなく、投球もまた決してハデではない。スリークォーターから投げる内容は直球、スライダー、シュート、カーブ、落ちる球の五種類だが、このうち落ちる球は意識せずに落ちている。祓川の球は金彦ほどの重さはなく、また変化の大きさもないが、ピッチングがよくまとまっているといえる。といって決してコーナーワークだけにたよる投手ではない。調子のよいときは真っ向から押すだけの球速と力を備えている。スタミナの点はまだ完投が一度だけで、本人もよくわからないらしいが「最初からその回、その回を力いっぱい投げていく。それでいてヘタバルことはなかった」というから体力的にはタフなのだろう。問題は制球力である。過去7試合の登板中5試合までが先発という具合で、ちょうど金彦とは対照的な使われ方だが、そのうち完投勝利は四月二十六日の対阪急戦だけ。つづく三十日の対近鉄戦でも八回まで3安打に封じ、連続完投勝利を思わせながら、九回先頭の関根を四球に歩かせたため、皆川の救援を受けている。このときは1-0と接近したスコアという背景で、大事をとったのだが、これというのも祓川が急激にそれも四球からつぶれるという欠点を知っていたからだ。34イニングス投げて被安打が27、奪三振23、与四死球15、自責点15という数字をみれば、四球をもとに一気にくずれる祓川の欠点がよくわかる。とにかく祓川が入団いらい自分のピッチングで一番苦しんだのは、調子の波が大きいことだった。これを「毎日同じピッチングをしていたのでは改まらない。やはりその時、その場での調子に合わせたピッチングを練習していかないとダメだ」と気づいて二年間そのことに努力した。結果はかなり波の小さいピッチングができるようになったが、制球力だけはどうにもならない。その原因はどうやら投げ方にあるようだ。もともと祓川の投げ方はサイドスロー、それをオーバーハンドに変えて、球も速くなりスムーズに投げられるようになったのだが、「疲れてくるといつの間にかサイドに近づいてくる」という。これがたんに制球を狂わしているのだろう。この場合本人がすぐ意識して球のはなし、腰の回転をかえればいいのだが、そんあ器用さはもち合せていない。またそれと気づかずに、同じ腰の回転、手先の使い方をすれば、腕の角度は違っているのだから、コントロールが悪くなるのは当たり前、結局腕の振りをしっかり自分のものにする必要があるわけだ。こんご安定した投球に成長するか否かは、この自己のフォームをしっかりつかみ固定させることにかかっているといえる。

ー自分の投球に自信をもったのは。
祓川 やはり阪急戦で完投したときだが入団いらいはじめての完投勝利ですからね。
ー先発、救援どちらが好きか。
祓川 先発のほうがよい。まだ経験不足だし、制球力も十分でないから勝っているときの救援はちょっと荷が重い。
ー自信をもっている球は。
祓川 スピードボールだが、最近はスライダーにも自信がもてるようになった。
ー球の配合は自分で考えるのか。
祓川 すべて野村さんのサインどおり投げている。
ー投げていて堅くなるか。
祓川 昨年はほとんどアガっていたが、ことしはそうでもない。少し余裕が出てきたのでしょう。
ーこんごの課題は。
祓川 制球力を自分のものにすること。これさえつかめば、かなりやれると思います。
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金彦仁重

2016-05-25 20:29:40 | 日記
1959年

ペナントレースに入って金彦の活躍は目覚ましい。プロ入り四年目とはいえ過去三年間はほとんど二軍で過ごしていたのが、今シーズンデビューいらい4勝0敗の成績もりっぱだが、金彦の場合はチームにとって勝ち星以上に貴重な存在になりつつある。というのは試合数32の三分の一を超える19試合に登板。しかもその内訳が先発3、救援10である。さらに救援してその責を全うしなかったのは二度だけで、八度は救援完投である。南海の投手陣を見渡したとき十分完投できるのは杉浦ぐらいのもの。他は七回以後に必ず疲労が出てあぶない橋を渡る型の投手。そうなると当然三回程度をピタリと押えられる救援投手が必要なわけだが、金彦はこの継投をみごとに果たしている。これが実に貴重なのだ。もともとこうした役割は経験の乏しい新人投手にはむずかしいことだが、金彦は経験の不足を若い力で補っている。1㍍78、75㌔という大きさに加えて腕っぷしがまた無類の強さ、オープン戦で巨人別所投手から、公式戦でも四月二十六日阪急の柴田投手からいずれも左翼上段にぶち込む本塁打をたたいているほどだ。だから投げる球にも力があり、重い。速いことも速いがスピードよりこの力と重さが金彦の身上といってよい。それにいま一つ球の出てくる場所がかかわっているのも強味のようだ。金彦はもともと上手投げの投手。これが入団した年にヒジと肩を痛めて投げられなくなってスリークォーターに変わった。ところが最近はこの腕がぐっと下がって肩の高さまで落ち、横手投げに近くなっている。本人は「人にいわれてはじめて腕の下がりに気づいた」そうだが「うちのバッターの人に聞いてみると、そのほうが打ちにくいというので、そのままにしている」という。ステップも宅和の全盛時代に似ている。当然球は右打者の背中のほうから出てくることになって、打者は知らず知らずのうちに腰を早く開いてしまう。球が重くて速ければ、よけい腰を入れたバッティングを要求されるのだが、その逆にならざるをえない。しかしこの投げ方は上体や肩、腕にムリがくるし、下半身の弱りや腰の回転が悪いと外角に球が決まらない。このため本人もできるだけ上から投げるようにしまたインステップを改めようと努力したらしい。だが「これをやると球が素直になってしまう」ので多少変形でも当分いまのままでやっていくことに決心したようだ。ピッチングの内容は直球と大きく曲がり落ちるカーブ。それにシュート。見ているとグーっと沈む球もあるが、これは「少し上から投げるシュートが沈む」とのこと。学生時代はフォークボールを投げていたそうだが「やはり力で投げるのが本当」と考えなおしていまは投げていない。制球力はいまのところまずまず。多少誤ったコースに投げても、力があるためそう大ケガをしていないということもあるが、41回1/3を投げて8四球だからコントロールでくずれることは少ない。しかし本人は過去無制球のゆえに一軍の試合はおろか打撃練習の投手にも使ってもらえなかった。そういった不安にいまでもときたま脅かされて「つねに四球を出さないよう」心がけているそうだ。ともかく41回1/3を投げて、防御率1・93という数字はりっぱである。
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村山泰延

2016-05-25 19:57:08 | 日記
1959年

肩の故障も完治し、開幕当初から張り切っていたが、ひとつの壁にぶつかった感じで伸び悩み、公式戦には四月二十四日の対大毎戦にわずか一度登板しただけである。その村山が、このほどフォームを変えて新しくスタートしようとして注目を引いている。すなわち従来のスリークォーターだったのを、アンダースローに切替え、南海の杉浦ばりのピッチングをしようとしているわけだ。二十三日午後平和台で行われた対阪急二軍戦に先発し、敗戦投手にこそなったが、すでにこれまでに見られなかった独特の球質が見られ、このフォームを完全に自分のものにしたときの村山には、相当の期待がかけられるのではなかろうか。下手投げに変えて出直そうとする村山投手に動機、抱負などを聞いてみよう。

ーフォームを変えたのはいつごろから?
村山 たしか今月の六日だったと思う。南海戦が終ったときからです。下から投げはじめて十八日ぐらいになりますかね・・・。
ー動機は?
村山 上から投げていたが、一度肩をこわすとどうしても自信がなくなる。これまで自分でもいろいろ悩んできたが、監督さんが思い切って下から投げてみたら・・・と言われたので、アンダースローに切り替えることにした。
ーこれまで下から投げた経験は?
村山 これが初めてです。とにかく慣れぬフォームだから、多く投げるとヒジがジンジンと張ったような気がする。腰の回転や筋肉の使いどころが、上から投げるのと下からとでは全然違うだろう。横腹が痛い。下半身のささえもより以上に必要なので、足も早く疲れ、全身がだるい感じだ。
ースリークォーターのピッチングに比べてみた場合どうか?
村山 変えた以上はなんとかしてこのフォームをマスターしたい。
ーこれからの課題は?
村山 第一に早くフォームを安定させることだ。現在は意識して投げる間はいいが、ちょっと油断すると、すぐもとのフォームに戻ってしまう。もうひとつは変化球だ。下から投げてもコントロールは自分で思ったほど大きな狂いはなかった。カーブ、シュートなど小さく鋭く変化する球も合わせてマスターしたい。
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西本忠成

2016-05-24 21:51:33 | 日記
1963年

元ノンプロPL球団の西本忠成捕手(20)=奈良一条高出、1㍍80、75㌔、右投げ右打ち=はこのほど広島入りが決定した。同選手は先に広島に入団した同僚の関根選手とPLで四、五番を打っていたが、チームが今夏解散したのでプロ入りを希望していた。捕手が専門だが、一塁、外野も守る。
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団野富士夫

2016-05-24 21:14:31 | 日記
1959年

西鉄ライオンズは三日、団野富士夫投手(18歳、佐世保西海学園高中退)の入団を発表した。同投手は昨年夏の長崎県代表決定戦で杉町をようする南山高に2-0で惜敗したが、左腕上段からのスピードボールと鋭いドロップを駆使する本格派で、今春の九州高校野球長崎予選では、対佐世保商高との試合で一試合三振20個奪取の長崎県記録を作った。1㍍73、71㌔、左投左打、背番号44。
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井上圭一

2016-05-23 22:26:24 | 日記
1972年

ロッテが昨年のドラフト会議で一位に指名した三菱自動車川崎・井上圭一投手(21)=1㍍81、73㌔、右投右打、吉原工出=の入団が十一日、正式に決った。石原代表、田丸スカウトは同日午後五時、川崎市中原区新丸子の丸子荘に井上と富田監督を招いて二度目の入団交渉。前回折り合わなかった条件面について話し合い、契約金一千万円、年棒百八十万円の規定額で合意に達した。入団発表は十五日の予定。井上はノンプロ球界一、二を争う速球派投手でロッテは将来のエース候補として期待している。すでにプロ入りを表明している井上の交渉の焦点は条件面だけだった。昨年は東映が多額の契約金で誘い、ロッテもことしの一月かなりの好条件を内示していた。「そのときの事情がわからない」という石原代表は、オーナーが代わった球団事情を説明し、前回の交渉では「まだいろいろな点で不満がある」といっていた井上もこの日の約一時間の会談で「ロッテにお世話になることになりました」とニッコリ。井上は昨年のドラフト一位に指名されたとき「もう一年都市対抗で投げてからプロ入りしたい」とロッテ入りを拒否したが、そのときから「ロッテはきらいなチームではないので、交渉期限が切れる前に入団したい」と田丸スカウトに入団を確約していた。ノンプロのヒノキ舞台での活躍はまったくないが、昨年のドラフトの話題をさらったのは、その将来性からだった。長身から投げおろすストレートにはスピードがあり本格派としての魅力十分。ことしの六月に持病である右ヒジを手術、軟骨を除去している。その後の経過は順調で「いまは一時間半もバッティング投手をつとめても痛くない」という。入団が決まった井上はさっそく田丸スカウトと指くらべ。人差し指、中指の長さはふつうの人の一倍半くらいある。「この指の長さが速い球をうむもとなんです」と田丸スカウトは久しぶりの大物ルーキー入団にうれしそう。「球威、センスからみて二、三年後には20勝投手になれる」とその素質を保証していた。井上は来年の合同自主トレまでは郷里・静岡県富士市でトレーニングをつづける。

井上投手 「来年中に一軍に登板できる投手になるのが目標。ロッテは監督に大投手の金田さんが就任するというし、手本にする投手が多いので楽しみだ。あくまで速球で勝負できる投手になりたい」
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流敏晴

2016-05-23 21:35:53 | 日記
1980年
・阪急ブレーブスの謀報部員といったところか。いうなればⅭIA、もしくは007的存在に匹敵するのがこの流敏晴。ビデオマンである。相手チームの情勢を映像により先取りし、分析しチームに的確な情報を送るのだから、考えようによっては大変手ごわい存在である。彼はつねにビデオを担いで行動する。望遠レンズ、バッテリー、三脚と入れると全重量は30キロを超える。それを担ぎ、たった一人で隠密裸に行動し球場スタンドのカメラマン席に陣取る。時にネット裏に、時には内外野のスタンドに。チームからの秘密指令はすでに受けている。たとえば阪急は山田、足立らのアンダースロー投手を擁しながらも、どういうわけか下手投げ投手に弱い。島谷、加藤英、マルカーノらを中心とした強力打線も、まるで沈黙を守ってしまう場合が多い。そういうとき、彼に指令が出る。「日本ハムの高橋直樹を徹底取材しろ」。彼はビデオを担いで先発する高橋直の投球モーションからタマのコンビネーションまでを徹底的にビデオに収める。どこから、どういうアングルでキャッチすれば最も的確に投手の弱点を見つけることができるか、ということを素早く掌握してビデオのセッティングをする。彼にかかるとマウンド上の投手は素っ裸にされてビデオに収められ料理されてしまう。彼はそれを持ってチームに帰る。監督、コーチ、選手たちの前で収録してきたビデオを再生する。高橋直はカーブ、シュート、ストレートをどういう組み立てで投げてくるか。左打者と右打者に対した場合とでは投球のコンビネーションをどのようにチェンジしてくるのかetc,etcといったことが徹底的に分析される。
1967年に小倉商を出て阪急にドラフト3位で指名された。その年の5月、南海戦で2イニングを投げ初勝利をあげた。「あのときはアガったなァ。当たり前のことだがスタンドには客がいっぱい入っているし、初めてのナイターだし雰囲気に完全に呑まれてしまって何が何やらわからない状態だった。マウンドに立っていても捕手のサインがよく見えなかったのを今でも覚えているが・・」この初勝利が最初で最後の白星だった。結局、彼は1974年まで投げたのだが、その間の成績は1勝2敗。「言い訳の余地は全くない。やはり自分に力がなかったということでしょう。もっとも当時は梶本、米田、足立、といった目もまばゆいばかりの先輩投手がキラ星のように並んでいて、わたしなんかが出ていくチャンスは滅多になかったのも事実だが・・」現役を退き2年間スコアラーをやった。それからビデオ係を命じられた。「ビデオの仕事をやれといわれたときには驚いた。わたしは商業高校の出だからメカには特に弱い。やってみたい、又、やりがいのある仕事だとは思っていたがやはり不安だった。たとえば一人でビデオを撮りにいって、もし機械が故障でもしたらいったいどういうことになるのか、と思うと不安で仕方がなかった」
確かに、この仕事は目に見えない苦労の多い縁の下の力持ち的存在だ。しかし無事に収録し、それを監督、コーチ、選手たちの前で再生してみせて「有難う、よくやってくれた」と感謝されるときの喜びや充実感といったら何ものにもかえ難い。さア、やらなくっちゃ・・という気にもなる。もっともつねに一人で行動をとるだけに、どうしても寂しさがつきまとう。映画の007のように華麗?にはいきかねる。「楽しみといえば無事に収録を終えて、深夜の屋台で軽くいっぱいやるときですかねえ。一人で杯を傾けながら、今頃チームの連中はどうしているかなァ、なんて考えていると、余計に孤独感を味わあわせられたりもしますがねえ」
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横山昌弘

2016-05-23 20:37:40 | 日記
1959年

昨夏の都市対抗終了後に第三回世界ノンプロ野球選手権大会に出場する全日本軍のメンバーが発表された。その四人の外野手のなかに横山昌弘がピック・アップされているのを見ておどろいた人があるかも知れない。横山はこの年明大から大昭和製紙に入社したばかり。打棒・大昭和の三番打者ではあるが、もちろんはじめての都市対抗。しかも第一戦(二回戦)の対大阪戦(全鐘紡)に4打数2安打(二塁打1)1打点としぶといバッターの片りんをのぞかせはしたが、7-5で敗れて姿を消していた。だがこの横山がいなかったら第三回の世界選手権が日本の手にわたったかどうか・・・。全日本軍の五番をまかされた横山はさすがにかたくなったのか第一、二戦は安打が出なかった。ところが第三戦の対米国戦での横山は2打数2安打の十割で1打点をたたき出した。二回の左中間二塁打は2点先取のチャンスを作ったもの。そして三回の左前安打は2-2の同点と追いついた米国を突き放す決勝のタイムリーであった。この一打は、優勝へあと一勝と迫り、しかも強敵米国を降したという貴重な安打として外電が派手につたえてきた。この試合の途中でスライディングで痛めた足の故障のために横山が以後のゲームに出場できなかったことは本人はもちろん、われわれとっても非常に残念なことだった。横山は二十七年春の選抜に静岡商高が田所ー阿井(ともに現国鉄)のバッテリーで全試合をシャットアウト勝ちして優勝したときの中堅手で七番打者だ。翌二十八年明大に進学したが、四年の秋までは出場のチャンスにめぐまれなかった。三十一年秋、つまり最後のシーズンにやっとセンターのレギュラー・ポジションを獲得、長い下積み生活中の努力がようやくみのったしかもクリーン・アップ・トリオ(五番)に抜てきされて37打数14安打で打率三割七分八厘。中田(慶大ー阪急)荻(明大ー西鉄)についでベスト・テンの三位に入っている。そして昨年、大昭和製紙に入社してからは世界選手権での活躍、今年も産業対抗には14打数7安打、打率五割で打撃賞を獲得するなどノンプロ球界を代表する一流外野手に成長した。大物打ちという方ではないが、センター中心に打ち分けるうるさい中距離ヒッターである。強引に引っぱるバッティングではないのでインローが苦手だ。しかし外角低目の打ち方も巧いし、まず穴の少ない好打者といっていい。足も早いし、カンもいいので守備範囲も広く攻守のバランスは比較的とれている。若いカウントから打っていく積極性はほめていいが、これは気の弱さからカウントを追い込まれないうちにということから来ているため。穴の少ない打者なのだから、この点での勝負強さがついたら彼のバッティングは一層しぶとくなるのだが・・・。
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正垣泰祐

2016-05-22 22:28:01 | 日記
1967年

阪急ブレーブスは二十五日午後二時から大阪・梅田の東阪急ビル内球団事務所で、正垣泰祐外野手(22)=日大、身長165㌢、体重68㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。同選手は三十九年九州高校球界の名門熊本工から日大に進学、小柄ながら馬力のあるバッティングと俊足にものをいわせてあばれ回り、昨秋の東都大学リーグでは6ホーマーを記録すると同時に、19四死球(打数41)という新記録をマークして選球眼のよさも合わせて実証した。今シーズンは春肉離れを起こし、秋は死球痛に出くわす不運つづきで、今春樹立した通算13ホーマーの同リーグ新記録は亜大・大橋に破られたが、四十年春から連続四回ベストナインに選ばれており、四年間の通算打率は・294である。外野手の強化を打ち出した阪急は、東京駐在の丸尾スカウトが早くからねらいをつけ、ドラフト会議で四番めに指名して交渉権を獲得した。同選手はノンプロ日本生命への就職が内定していたが、もともとプロ入りを希望していたのでスンナリ阪急入りが決定。

正垣選手の話 今シーズンは春に肉離れ、秋死球を右手首に受けて思うぞんぶん活躍できなかったが、もう、だいじょうぶだ。小さいときからプロでやりたいと思っていた。プロから声がかからないときは日本生命でやるつもりだった。長打力があるとは思わないが、馬力はあると思うので、その馬力で押しまくってガムシャラにやるつもりだ。

西本監督の話 ウチの外野手にはビッコが多い。長池にしてもいろいろ注文があるほどだ。正垣選手のプレーは見てないが、話を聞いたり、記録を見た感じでは、攻守走兼備の外野手で、ボクの願いをかなえてくれる素質の持ち主のようだ。からだが小さい不利を持ちまえの馬力と努力で克服してもらいたい。楽しみな選手だ。
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