プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

滝良彦

2016-06-26 20:30:50 | 日記
1954年

野村、スタルヒン、江藤、武末、服部とそろえたユニオンズのピッチング・スタッフ、誰が一番先に「10勝ライン」に到達するか・・・とみていたのに野村以外はさっぱり振るわず、十二日現在で野村九勝、スタルヒン二勝、江藤、武末各一勝これが高橋低調の因とみられるが・・・滝良彦が四月五日に対南海戦の勝利投手になり・・多くの人を驚かせたのもつかの間、それから東映、大映、南海、毎日、東映、阪急と六連敗「使える投手は野村一人か・・・」と噂されるようになったとき、五月十二日「猛打西鉄」をおさえて勝利投手となって調子を上げその後は重要時期に再三登板、十二日までの成績は10勝13敗、真っ先に10勝ラインに到達したのだから・・・投手は使ってみねばわからない・・と監督達がなげくのもむりはない。滝は豊橋生まれで名古屋育ち、名古屋商業を出て南山大学に進み二十五年春卒業して名古屋のトヨタに就職、二十七年毎日オリオンズに加入して二軍で鍛えられ二十八年一軍のユニホームを着たが芽が出ず今春ユニオンズにトレードされ登板するようになったのがその球歴。名商では一年は内野手、二年間投手、南山大学では三年間投手(トヨタでは軟式)オリオンズで二年間、そこで今年が投手として八年目、二十四歳、十六貫五百、右投げの投手である。新人ではあるが二十四歳、長身ではあるが少し軽量というのが特徴これに対し本人は「もう一貫あまり肥りたい」といっているし「年など忘れ十八、九歳の若い人と同じ気持ちでスタートした」と告白しているが・・・一、二貫肥ったらもっと楽に球速がつくであろうと年を忘れての精進ぶりは買っていい。投法は横手投げ五に対しスリー・クォーター二ぐらいの割合、足をよくひねっているから棒球は少ない。内角をつくシュートは・・・くいこむ球と落ちる球の二種類、これで攻めておいてカーブで勝負をしているが・・落ちる角度より曲がる度合いの方が大きい。曲り方の小さいときは横手投げのスライダーとして効果をあげている。見ていると・・・割合に少ないウォーミング・アップで登板ができるのはいい習慣である・・が今後の課題は・・・スピードをつけること、コントロールの万全を計ること、そして投法と体力からいってチェンジ・オブ・ペースの会得、この三つであると思う。そのためにまず走って腰と足の力を強くすることに努めているようであるが・・・これは大いに励行することをすすめたい。そしてムダ球をへらすため「凡打率の多いコース」をさらに探究すると・・・勝星がふえると思う。

滝投手の話 僕はいま十六貫八百もう少し肥りたいと思っている。球質も重くなるだろうから・・・。しかし肥えない体質なのでこれ以上やせないように心がけています。中沢さんは僕がよく走っているといわれていますが、実際のピッチングの練習より走っているときの方が多いくらいです。登板する予定のない日はグラウンドを四周、投げる日は三周位です。だが走っているときに足が重く感じるときはすぐやめて体操を十分やっています。やはりこういう日は調子が悪いです。ウイニング・ショットはカーブシュートを投げておいてこのカーブで勝負する。しかしカーブだけだとやはりねらわれるのでいま外角へスライドして落ちる球を研究中、握り方をいろいろ変えてやっていますが、段々気に入ったのを投げられるようになった。これを早くマスターしてカーブと混用してみたい。最後に採点ですが大体これぐらいですが、球速はもう少しあると思っています。
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高橋輝

2016-06-26 18:19:50 | 日記
1954年

二十五年の春、国鉄スワローズが創設されたとき第一線投手とうたわれて加入したのが高橋輝投手。チームの打力の低さ、守備力の弱さを考えると十勝十五敗(出場五十二試合、完投四試合)は相当なもの。翌二十六年は十勝二十一敗(出場三十六試合で完投七試合)と順調な成績をみせたのに二十七年は三十四試合に出て完投一試合、二勝六敗、二十八年はさらに下がって勝星なしの二敗、高橋ついに芽を出し得ないか、と噂されたのも当然、しかるに今シーズンは十月五日現在で六勝(巨人に二勝、中日に一勝の金星をふくむ)十一敗、二十五ゲームに出場して完投六試合という成績。この分ではうまくいくと十勝ラインに到達するかもしれないし完投八、九試合の線にとどく見こみがある。今年になって急にスピードがのったわけでなくカーブの角度が鋭くなったこともない。それであるのに二十七、八年の両二シーズンの不振をふきとばしていいピッチングをしているたねは?その球歴と身体から検討するのが順序、大宮一高(旧片倉中学)では大した練習も試合もせず中大に入ってからも一年間はいずこも同じ新人の球拾いに励み、その後二年間投手をしてスワローズ入り。五尺五寸五分という体格で左投げ、球も相当速いし落ちるカーブも大きいから勢いにのってぶんぶん投げる。打つ方からいえば初対面で球筋もわからない。小さい身体でどこから出るのかわからないようなモーションで速い球や大きいドロップが投げられる。コントロールもよくないらしいとあってはちょっとあつかいにくい投手である。しかし三年目になると各球団の打者も高橋の単調な投法をのみこんだし、高橋本人も「これではいけない」と反省したり、プロ野球のこわさもわかって来る。最初の一、二年間のようにいかない。そして勉強したのが上手投げ専門であった投法にスリー・クォーターを加えること、外角(右打者に対し)を攻めるシュートを身につけることスリー・クォーターで投げるカーブでストライクをとること・・この三つ。高橋も二十三歳になりプロ野球の生活も五年目、体重も十六貫五百となり、勉強した三条件をひっさげての今シーズン、成績も上がってよいはずである。現在は上手投げ3、スリー・クォーター2の割合。多投するのは内、外角をつく速球(のびがいい)上から落ちるカーブで凡打させ、スリー・クォーターのカーブで勝負をしているがその間に外角シュートをうまく使っているのが目につく、四球を出すと気にするらしいがこれからみてもコントロールをよりよくすることが十五勝投手への道であると思う。

高橋投手の話 ウイニング・ショットBの上はちょっとカラい。ドロップはコントロールもいいし、あまり打たれない。Aの下ぐらいにしてもらいたいです。投手守備と試合度胸のAの下は甘いです。接近した試合で一点でもリードされると、がたつくとくずれてしまう悪いクセがある。精神的にこれで負けると思っていますので打たれている。これなどまだまだ試合度胸のたりない証拠でしょう。去年より成績が上がったのはアウトシュートのコントロールがよくなったためです。去年までのはナチュラル・シュートで、意識して投げられるようになったのは今年から。指が弱いのでいろいろの種類の球は投げられない、投法はほとんど上手投げで、横から投げるのは右打者のインコースに食いこむ直球だけ、横からのカーブは打たれやすいので投げません。中沢さんはスリー・クォーターから投げるカーブで勝負しているといわれていますが、おそらく自分では上から投げているつもりが少し下の方へ落ちているのでしょうね。自分では意識していないのですが。いま体格もあまりないし、これ以上スピードが出ることも考えれないので、これからはチェンジ・オブ・ベースの研究ともっと思うところに投げられるようなコントロールを身につけるよう努力していきたい。
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杉川喜久雄

2016-06-26 14:39:26 | 日記
1954年

松竹が予想外の不振でテール・エンドが確定したばかりか勝率二割五分を割っていることは、四年前に優勝した強豪ロビンスの後身だけにいたましいかぎりである。低調の原因はいろいろあるが大きく分けて三つ。その一は投手力の手薄、頼みにした高野、小林、江田、林がさっぱり勝てず、四人の勝星、しめて七つ(三日現在)その二は打力の弱体・・・チーム打率二割二分三厘(もちろん六位で五位の広島が二割五分とうけたはずれの貧攻)これでは権藤をもってしても十一勝しかかせげないわけである。その三は活気のないこと、もちろん闘志をわかしてぶつかっているには違いないが負けがこむせいか、どうも活気がたりない。打力と活気についてはここでふれるゆとりがないが、投手力の方は権藤、大石、杉川(5勝8敗)がぐんぐんのしているし、小林も復調してきたし、ヒジを痛めて新日本リーグにった萩原が防御率1・20で最優秀投手になり、やがて登録されるに違いないから前途は明るい。わけても杉川は残る今シーズン、さらにシーズン・オフの投手生活と鍛錬、そして明春のトレーニング・キャンプにおける練習法とオープン・ゲームの仕上げなどに適切な考案がなされるならば明年のホープたる素質を持っていると思う。杉川喜久雄は二十二歳、六尺一寸、二十貫、若さと体格に恵まれた男。尾道西高時代は一塁手(広島の太田垣、大映の薮本など同僚)二十六年卒業して三原車輌に入社、初めて投手に転向、大いに興味をおぼえ二十八年松竹入りしたのがその球歴。今年が投手としての経験も浅いし処理もうまくない。長身六尺一寸の大器であるから世間なみにいけば「晩成型」であるはずが、実はなかなか器用でピッチングにも相当細かく気をつかい、いろいろと工夫しているのが目につく。投法は主として上手投げ、時にスリークォーターをまぜている上手投げの外角速球をよく投げているがもうひと息の球速がほしい。ときどきそれる球になっているがこれはナチュラル・スライダーらしい。コントロールのいいスライダーを身につけたら勝星がふえると思う。いまのところ上手、或いはスリークォーターで投げる内角へのシュート、球速もいいし相当の威力があり、これがウィニング・ショットとなっている。カーブは大きく落ちるものが多くコントロールがいいのでストライクをとるときに使って効果をあげている。ときどき球をにぎりかえて投げているのがシンカー、数は少ないがナックルにも手をつけているらしい。あれこれ数えてみるとかなり多彩な投法であるが、そのいずれもが未完成で工夫が先行している形それだけに期待していい新鋭であるが、すすめたいことはスピードとコントロールをつけること、体格を活用すること、この二つである。

杉川投手の話

いまの目標はただひとつ、コントロールされ、しかものびのある速球を投げることです。このためにはほかのことを多少犠牲にしてもかまわないと思っています。中沢さんが指摘されたように、僕は細かいところまで気を配ってピッチングを研究してきました。しかしこれではいけないと最近気がつき、だれからいわれたのでもないのですが、速球をマスターすることにしたのです。僕の身体で力のピッチングを知らないのはおかしいはなしです。チェンジ・オブ・ペースも投手守備もたえず気にかけていますがそれも速球が思うところにびしびし投げられるようになってからです。コントロールもしばらくの間は速球のコントロールだけに力をいれたいと思います。そして今シーズン残り試合にちょっとぐらい打たれてもいいから速球でどんどん勝負していこうと思っています。ウイニング・ショットはたしかに内角へのシュートですが、これは走者の有無、カウントの状況などで落ちるものと浮き上がるものとを投げ分けています。
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黒岩弘

2016-06-26 10:02:10 | 日記
1954年

今年出てくると見た一人が黒岩弘。それが二十六日現在で4勝4敗でちょっと足ぶみ状態になっているがその理由はウィニング・ショットの使い方がうまくない(2ストライクをとってから打たれている)打者とのかけひきにずるさがない、いってみればひとり相撲をとって損をしているかたちである。ブルペンで投げているといい球をもっている。コントロールは国鉄投手中二、三位の正確さをみせているのに、マウンドに立つと打ちこまれるのはどうしたことだろう?黒岩は長野市の近く織ものの町須坂の商業高校で鳴らした投手二十七年の春から国鉄の長野工場に入って投手。よく働いたのが認められて二十八年の五月東鉄に転出、都市対抗の予選で好投、今年スワローズ入りした新進投手。二十一歳で五尺六寸五分、小柄であるががっしりした身体で十九貫に近い。須坂商で三年、長野工場と東鉄で各一年、今年で投手歴六年目になるが大きな舞台に出たのが去年からでなんといっても試合の処理、打者とのかけひき、試合中のコンディション調整などに欠けている。球質はなかなか多彩で、速直球、シュート、カーブ、シンカー、それにスライダーなど、外角へつく速球はのびたり、沈んだりスライドしたりするが、最近スライダーの操作をおぼえこみ、この速直球を併用している。内角にきれこむシュートはホップするのと、くいこむのと、落ちるのと三種類になっているが、ホップする日は調子がいい。これにカーブをまぜているが小さくまがる球質で有効、ときどきシンカーを操作しているが、シュートとの区別がむずかしい。見ているとこのうちシュート、カーブ、シンカーなどがウイニング・ショットに使われている。黒岩の長所をあげると、性格が沈着であること、同じモーションでいろいろの球を投げることコントロールがいいことである高低はよく活かし、とくに低めの球を上手に使っているがストライクの幅が小さい(きれいなストライクが多い)からねらわれることが多い。そして威力のあるシュートなどで2ストライクをとってしまうから、どれがウイニング・ショットかわからなくなる。ここ一番という球をもっていなければならない。大友投手を見ならうのが連策とにかく打者が「まどうストライク」と「くさい球」を使いわけるのが黒岩を大成さす道であると思う。

黒岩投手の話

ぼくのピッチングはノンプロ時代と本質的には変わっていないのですが、プロで打たれるのは一言でいうならズルさがないからだと思います。たとえばコントロールにしてもストライクを取る自信はあってもプロではそのまま通用しない。いいかえるとクサい球とギリギリ球のストライクが投げわけられないことです。中沢さんのいわれるようにきれいなストライクは投げられますが、これでは打たれますズルさ、つまり「打者を惑わせる巧さ」を身につけなければだめだと思っています。2ストライクをとってよく打たれるのも結局このズルさがないからで、はっきりしたストライクを投げこんでは打たれたこと再三です。しかしこのズルさも小細工という意味ではなく、ちゃんとしたウイニング・ショットをもったうえでのかけひきと思います。たしかにぼくはスライダー、カーブ、シュート、速球、シンカーなど多くの球を投げますが、このうちシンカーかスライダーの切れ味をよくして極め球にしたいと思っています。そうすれば大きらいな左打者にももっと自信をもって向かえると思います。採点は投手守備とウイニング・ショットをいれかえてくれればあとはそのものズバリです。いま宇佐美コーチから体格、フォームのややにた大友投手をよく見習うようにいわれていますので、近い将来もっと点数をあげてみせます。
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海野尚武

2016-06-26 08:37:47 | 日記
1954年

今シーズンの東映は例年に似ずいささか前景気がよくどうやら五、六位に行くとかわれていたのは昨年度から今春にかけての補強工作が活発であるとみとめられたためだと思う。ちょっと数えてみても土井垣、伊藤、上野、宝山、今西、水上、英、毒島を始め全部で十五、六名が入っている。今年はやりそうだと多くの人が考えたのも当然であるのに六位を長い間新球団の高橋にとられつづけてという状態。そのためは補強の主眼を投手陣におかなかったためである。七日現在で二十二勝の米川をのぞき樽井、布施、宮沢が四勝、緒方、海野、寺川が三勝上野、加藤が各二勝という勝星分散状況。打力の低さもあるが、この投手成績では六位を確保するのもむずかしい。こうした状態からおして「ホープ海野」が八月初め盲腸をやられて欠場、休養したのはかなり大きな障害になったとみていい。四月十五日対西鉄戦に登板してから八月一日の対近鉄戦に出場する間、三勝(毎日に一勝、近鉄に二勝)七敗をあげこれからというときの盲腸、八月一日以後ひきつづいて休養、勝星一つも得ていないのは惜しいと思う。海野は静岡県の袋井高(旧袋井商業)出身、一、二年生のときは陸上競技部員で専門は投てきであったが、左腕強肩の腰のバネの強さなどから投手に引き立てられ三カ月間、マウンドに立ったのがその投手経歴。しかし投手として天ぷの素質をもっているのか、オール・ハワイ・ハイスクール・チームが来県したとき、静岡県選抜チームの投手に選出されて勝っている。そこを見こんで東映が迎えたに違いないが、どうやら見こみ通り将来性があると思うのは、在学中学業優秀であったという噂通りなかなか理解力がいいし、十九歳、五尺六寸、十八貫、全くがっちりした体格、とくに投てき競技で鍛えた腰が強いという条件からである。投法は上手投げ専門、多投する球は左投手特有のシュートで右打者の外角にきめる速球そして落ちるカーブで勝負をしているからカーブが武器のようでもあるが、効果的にはシュートがウイニング・ショットになっている。このほかに時々スライダーを使っているが数が少ないし、右打者のヒザにきれこむ速球(棒球でなくホップするか、それるとき)も少ない。五尺六寸という身長からみて上手投げだけでは不利。むしろスリー・クォーターで右打者には内角低目へ速球と外角へのシュートを混投とした方がいい。とにかく球歴からいっても経験をつむことが第一、スピードとコントロールをつけることが第二、投手守備と処理を身につけることが第三、研究、練習登板、この三段階で勉強、努力すれば東映投手陣の中堅選手になる素質十分である。

海野投手の話

僕の球歴は短く高校時代も二、三年のころは砲丸投げをやっていました。しかしもともと野球は非常に好きで小学校のころは野球だけ。高校の一年のときも野球部にいたのですから野球に対するセンスはすこしぐらいあったのだと思います。三年の六、七、八月に投げはじめたのが本格的な選手生活のはじまりですが、このときは夏の大会の県予選に投手がいないというので練習をはじめたのです。しかし県予選で一、二回戦をシャットアウトでかざり投手の自信らしいものができました。東映に入ってからいままでの横手投げを上手投げにかえたり、またシュート、スライダーを研究したり、やっとプロの投手としての初歩を勉強しています。だいたい速球、カーブで勝負していますが、シュートのきまるときは調子もよくそのときはむろんシュートを武器にしています。砲丸投げをやっていたためか腰が強いのであとは腰のスムーズな回転、軸足(左)の安定を覚えるつもりです。中沢さんのいわれるスリー・クォーターからの投法もまず基礎ができてからの話だと思います。試合度胸とスピードはどうにか人なみと思いますが、研究中の現在、ほかのものはとても採点ほどにはとどきません。
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野母得見

2016-06-26 07:59:02 | 日記
1954年

早春二、三月、キャンプまわりをしたとき、パ・リーグでは南海、西鉄、毎日に重点をおき各地二、三泊してとくに投手陣をよく見ることにしたが、呉で南海のトレーニングを見ている間一番いそがしく見えたのは「のも・とくみ」であった。インタビューとカメラの列、彼への関心と期待がいかに大きいかを示したものである。九州南海の漁港山川町に生まれ、近くの川辺高校で軟式野球の投手、全山川軟式チームの主戦投手であったのを鹿児島市営チームが硬式野球を始めるとき、加入させたのだから全国的には知られざる無名投手であったが、市営チームのおめいねどおり芽を出し門鉄チームを無安打、無得点で破ったり、諸方の強チームといい試合をする。とくに三振をとることが多いのと長打ぶりを発揮するので球通間に九州の野母あり・・とマークされるようになり一試合ごとに力がつき経験をつみ、ノンプロ球界の一流投手に近づいたとき、さっと南海が誘いの手をのばして、ものにしたのだから評判になったのである。しかるに開幕後さっぱり出てこない。調べてみると肩の故障だ。どうも「ああしろ、こうしろ」「フォームがよくない、もっと数多く投げろ」とやったんではないかと思う。大体プロ入りした新人はたださえ大いに「がんばろう、負けるものか」とはりきっているから、つい投げすぎたりムリをしがち、そこへ数多い助言や教訓を浴びて・・・疲れきるおそれがある。これは野母のことでなくそうしたつまらぬ傾向がプロ球界にあることを指摘したいために・・・野母の故障を書くついでに振り上げてみたのである。しかし肩がなおってみれば二十三歳、五尺七寸、十九貫余強肩左腕投手の好条件、モーションが大きいという欠点(これは徐々に是正される)はあるが、身体も柔軟(外観はがっちりしているのでかたいと見違える人もいるが)であるし、腰が強く、足が速いことからみてバネも強い。そのうえに試合度胸もいいから南海投手陣の有力メンバーである。十七日現在で五勝三敗、大詰戦のホープといっていいが、その投法は上手投げとスリー・クォーターをまぜ速球とするするどい落ちるカーブ(ドロップ)が武器になっている。左投手としてのシュートも相当なものであるが、注文をつければ、内角をつく球が少ない、これはコントロールに難があるのが原因、それにスライダーをおぼえることも必要だと思う。まだまだスピードがのると思うが、それには上体をそらすようなフォームを避けること、なんといっても「力投する場合のコントロール」を完全にすることが重要な課題、ウォーミング・アップが少なく登板できるのもいい習慣である。

野母投手の話 たしかにフォームを変えたり投げすぎたりして左ヒジを痛めましたがもうすっかりよくなりました。私は他人から「ああしろ、こうしろ」といわれてもさほど気にしない方ですが、柚木さんなど左投手からの忠告は自信に身近なものがあるのでできるだけとり入れるようにしています。入団以来思ったほどの成績があがらないのは初め上手投げだったフォームが自分で気がつかないうちにだんだん下がって横手投げに近くなってしまったからです。いま昔のフォームにかえろうと一生懸命です。中沢さんに注意されたように内角への球が少ないのはフォームがくずれてしまったので球そのものに威力がなく、内角へはこわくて投げれないのです。またコントロールに難があって打ちごろの球になってしまうことも多いからです。やはり私は一番自信のある上手からの速球で思いきり打者にぶつかる投法でいくようにしたいと思います。それにはもっと球速をつけることが第一でしょう。自分のピッチングがまだわからないのですから採点にはなんともいえませんが、投手守備がいちばん点が低いのは意外でした。また中沢さんのいうようにスライダーも考えてみましたが、左投手のスライダーはあまり有効ではないようです。
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山下登

2016-06-25 21:48:31 | 日記
1954年

春のキャンプまわりをした時、最も多数の選手を集めていたのがパールス、それだけに練習に熱も入っていたし「今年はやるぞ」といった空気がただよっていた。しかし長い間最下位球団でもあったのがたたり、こうした決意も努力も認める人が少なく現在四位にいることでさえ「出木すぎじゃないか・・・」などといっている人がいる有様芥田監督にしてみれば「四位は四位でも一位に十ゲームもひき離されたのではふがいない」と考えているに違いない。芥田監督のこうした強気はどこから来ているか?その大きなたねは、ピッチング・スタッフの優秀を信じていたためであろう。しかるに一日現在田中の16勝、関根の9勝をのぞいては沢藤4勝、黒尾3勝、永井2勝、五井1勝という有様、まさに期待はずれでこれでは六、七位がせいぜい、それで四位にいるのは「山下の8勝」が大いに役立っているのである。去年の成績表を見ても山下はのっていないし、キャンプでもたいして話題に上ってもいなかったのに。西鉄を完封した金星のほかに毎日、東映、大映に各二勝、阪急に一勝という勝ち星は大したものだ。一体いかなる投手経歴と球質をもっているのだろうか。山下は神戸生まれ、兵庫工高(三年間投手)を二十八年卒業してパールス入りしたのだから投手になってから五年目、十九歳、五尺八寸の長身であるが軽量級で十五貫、二貫目ほど肥りたいと手をつくしているらしい。気さくで明るい性格であるが学校時代よくコーチさえ野球をよく知っているし、なかなかねばりのあるプレーぶりである。前は横手投げだったときいているが現在はスリー・クォーターが多く、外角をつく速球がウイニング・ショットになっているが、その速球が高低、なかなか味なポイントにきまり、ホップする球と落ちる球になっている。カーブも最近よくなり落ちるカーブを内、外、真ん中の三通りに使い、インコーナーから曲がるカーブを混用しているのが奏功していると思う。長身を利してのシュートもよく内角にきまりカーブとの配合がうまく行く日は相当効果を挙げているがなんといっても一線に立ったばかりで経験が浅いから球威ののっている日はいいが、少しよくないとひとり角力におちいるおそれがある。タイミングとチェンジ・オブ・ベース、さらにダブルプレー・ボールの研究がモノになれば一級投手であるきれがいいからまだスピードも加わると思うが、希望どおり二貫ほどふえたら球も重くなろうし球速ものるに違いない。西鉄の川崎を目標にしているようであるが、肥れば川崎とよく似た身体、フォームも似ているところがある。パールスのホープとして堅実な歩みを切望したい。

山下登投手の話 野球をよく知っているなんていわれると面はゆい気がします。高校時代の監督前川八郎氏(元巨人軍投手)から野球理論をいやというほどたたきこまれたのがよかったのでしょう。またサイドスローから上手投げに変えたのも前川さんの助言があったからです。タイミングをはずすこととチェンジ・オブ・ベースを会得すること、たしかに中沢さんのおっしゃる通りです。私もいまスローボールの使い方に頭を悩ましています。ダブルプレー・ボールは内角へ沈むシュートを投げていますが僕のはどうも速すぎて打者が打ってくれないのです。もっとスピードを落とせばいいのでしょうが、ひとつ間違うと大きくもっていかれそうで採点表のなかで一番点の高いのはスピード、きめ球、試合度胸ですね。まあ自信があるのは度胸だけ。きめ球は外角すれすれのスライダーです。これもなるべくクサいところをねらっています。体重は十六貫にふえたと思ったらまた七百程減ってしまいました。夏バテではありません。僕はむしろ夏の方が働きいいくらいですから。やはり旅行の疲れでしょう。中沢さんにぜひききたいのはこれからもいまのフォームで投げつづけてもいいかということです。自信がないのではありません。ただ確信を得たいのです。
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北畑利雄

2016-06-25 19:02:48 | 日記
1954年

神戸生れ、明石の明南高を出てスワローズに加入。今年で三年目の右投、右打ちの投手。二十一歳、五尺六寸五分、十六貫五分、投手としてはいわゆる「中肉、中背」の男である。投手の経験は中学で一年、高校で三年、国鉄で三年、合わせて七年目。二十七年早春大鉄局から推されてテストを受けて合格、国鉄の二軍で鍛えられ昨二十八年度二軍における活躍が認められて一軍に登録九月十四日の対阪神戦に登板敗戦投手になったが続く広島阪神、松竹の三試合に連勝、「やるぞ・・・」と認められて閉幕、今年のホープに数えられていた新鋭。七月三十一日現在で四勝七敗、少し負けが多いが・・・金田十四勝高橋六勝に続く北畑の四勝であることを思うと中心投手の一人であることがわかる。体格長大ではない北畑がぐんぐんのして来た第一因は・・・どこから出るのかと思うような速球、変化の多い球種を持っていることだ。大胆と思われるほど横手からの速球をびしびし投げこんでいるのがその特長、球速とコントロールには相当の自信を持っているらしいが・・投げているのはシュート(それる球と落ちる球)スライダー、ともになかなか速い。カーブは小さくするどいがあまり効果転をあげていないし投げる数も少ない。それよりもナックルとシンカーの「あいの子」みたいな球の回が少ない落ちる球を投げているが、速球の間にはさむためかなり成功していると思う。器用に見えるが、弱い点を挙げるとウイニング・ショットを持たないことと低目の速球のコントロールに欠けていることではなかろうか・・・。そこで速球で外角にきまる日の好成績にかんがみ、このところ外角速球の高さ低さ、思いのままのコントロールをつけることにブルペンで汗をしぼっているようだ。これは球速とひねくれた球質を持つ北畑としては賢明な策で高目でつって低目を打たせることをつかめば相当いけるはずである。四球を出した場合、ちょっと気にするらしいが試合度胸は大体において強いとみていい。やはり大きな舞台をふんでいない弱点として投手守備、内野手との連絡、協力、打者の心臓打診などをふくめた遂行と処理を大いに勉強しなければならない。

北畑投手の話
「中沢さんはきめ球がないといわれているがそういわれるのがいちばん辛い。しかし一応どんな球でも投げられる自信がある。とくに指先きで投げるシュートは大きな効果が出ていると思う。その日の肩の調子と各打者によって勝負する球をかえている。肩が軽く感じるときはシュート、重く感じるときはカーブを投げている。そういうところからみてきめ球がないといわれるのだろうと思う。現在はサイドからのシュートが大部分。これは相当スピードがのり、それにフォームをかえて上手から自然にスライドする球も投げている。だがこれはまだまだ完全とはいえない。勉強中というのは中沢さんもいわれるようにナックル気味にシュートして内角に落ちる球。これは練習中ためしに投げている間にうまくいきそうだったので、ちょいちょい使って成功している。斜め上から投げるのでちょっとかわったものですよ。ストライクにならなくても釣られて振ってくれる。しかし球速が落ちるのでもっとスピードをつけるように心がけている。これを完全にマスターしてウイニング・ショットにしたい。チェンジ・オブ・ベースはA級とまでいかなくてももう少し上の方にしてほしかった。バックがいいから気軽に打たせているので、ちょっとコントロールがよいといわれるのでしょう」
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和田功

2016-06-25 18:23:12 | 日記
1954年

オリオンズに入って三年目の今シーズン大いに芽を出し、第一戦投手として活躍を開始したが投手経歴は桂高校の三年を入れて六年目。五尺五寸五分、十七貫余、小柄だが腰の太い、腕のよく発達した二十一歳になりたてのおちついた青年である。二軍時代まず眼についたのは小さいこと、柔軟な身体全体をよう使っていること、ロッキング・モーション、そして重い球質などボビー・シャンツそっくりなこと、練習のとき外野に立ってよく走り、よくうけていることであった小シャンツの愛称をつけられて一軍に入って来たときにはスピードがのり、低いところへ投げる球に威力がついていた。最初のほどは上手投げ専門でカーブを多投していたが、いまでもウィニング・ショットは右打者のひざもとに鋭くきれこむカーブになっている。しかしシュートの操作をいろいろと研究するにつれてスリー・クォーターの投法が加わり、いまでは上手投げのシュート(少し落ちる)とスリー・クォーターのシュート(くいこむ)を混投しているようであるが、外角(右打者に対する)へくさい球がきまる日はカーブの威力が倍加して成績がいい。さらに外角で選ぶ球(打者をつる球)のコントロールがよくなれば凡打させる率が多くなり完投能力が高まるに違いない。今シーズンになって時々シンカーをまじえているが、なかなか功を奏している。まだ研究中と見えて投げる数は少ないが自信がつくと同時にその数もふえ長打をふせぐことに役立つだろう。なんといってもまるい身体を折りまげバネをきかして投げるのであるから腰の回転がうまくいかないとコントロールが乱れ、球が浮くおそれがある。今シーズンは対近鉄戦以来腰もよくまわり上体もかたむかず、球のきれもよく球ののびもよかったのでまたたくうちに七連勝(七月二十八日現在11勝6敗)したが最近は快調当時より少しコントロールがよくないのは上体がそるためではなかろうか。現在はもちろん将来への課題は第一にコントロールの会得第二にチェンジ・オブ・ベースの理解、第三に投手守備の上達であると思う。コントロールについては現在悪くはないが力投した場合のコーナーボール、ストライクを狙うカーブのコースについて一段の研究が必要。投手守備はなかなかカンのいい動きをしているがカーブを投げたときなどゴロで逆をつかれると左投手のつねとして身体が流れるだけに手が出しきれないおそれがある。投球と同時にどちらへでも動き出せる姿勢をくり返し修得した方がいい。目標は荒巻投手のよきコントロールとコースだといっているから「うま味のある投手」「いつでも使える投手」に成長して行くと思う。いまが一番大事な進歩期、自省はいいが迷ったらフォームにさわるおそれがある。

和田功の話
コントロールをつけることが急務だといわれますが、いまの私はコントロールに自信があります。六月いっぱい調子が少し下り坂であったためフォームにもくずれがありました。僕のフォームは右足をふみ出すときに大きく左足でキックします。ところがその左足のキックが弱ったため上半身が前にかぶらず突っ立ってしまう。だからボールが高目に流れ打たれる事も多くなるというわけです。しかし現在はキックがよく利いて来たのでスピードコントロールはまだよくなると思う。浜松での高橋戦(五月三日)に自分でもおどろくほどのスピードが出たので少なくもあの時以上は近いうちに出ると思う。チェンジ・オブ・ベースもやはりスピードがあってこそ軟投が生きてくるのでしょう。私はシャンツとあだ名されていますが実際にシャンツを見たことはない。ただ彼の連続写真を見て研究しましたが身体が小さい割にとても柔軟なフォームをしていました。ウイニング・ショットは右打者の内角低目へ入るカーブとスクリュー・ボール(シュートしながら外角へ落ちる)を投げています。
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佐藤一誠

2016-06-25 15:37:18 | 日記
1963年

国鉄は二十八日午後、東京・有楽町の球団事務所で、佐藤一誠外野手(18)=神奈川大中退、1㍍76、75㌔、左投左打=の入団を発表した。席には同選手のほか、北原代表、浜崎監督が出席した。研修期間百試合。背番号54。同日セ・リーグから公示された。同選手は今春八王子高校から神奈川大に入学。すぐに左翼手、四番打者として活躍した。とくに全国大学選手権大会では準決勝で慶大に負けるまで八打数四安打の高打率をマークして巨人、中日、大洋などからもさそわれていた。高校時代には投手をやったこともあるが、大学では俊足(ベース・ランニング14秒)強肩を生かして外野にまわった。

佐藤外野手「プロ野球はよく見ています。打撃には自信があるし左投手も苦にならないので外野で打撃を生かしたいと思います。一生懸命がんばります」

浜崎監督「強打者、とくに左の打者をほしいと思っていた。佐藤君はからだもいいし、足も速いと聞いているので将来が楽しみだ」
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柳川福三

2016-06-25 15:08:40 | 日記
1961年

中日では十九日ノンプロ日本生命の柳川福三外野手(24)の入団が決定したと発表した。正式契約は二十二日名古屋の球団事務所で行われる予定。同選手は中京商ー中京大を経て三十四年日本生命に入社、在学中は内野手だったが、日生に入社後外野手に転向。夏の都市対抗に二度、春の選抜大会にも三度出場。2シーズンで17ホーマーを記録、打率も平均三割をマークしている。また第四回選抜岡山大会では最優秀選手にえらばれている。南海、近鉄、阪急、巨人などからもねらわれていたもので、ことし三月プロとノンプロの申し合わせ(「十月三十一日まで選手との入団交渉をしてはならない」)が破棄されてからのプロ入り第一号選手となった。1㍍79、75㌔、右投右打。

濃人監督の話「本人のプレーをみていないのでなんともいえないが、いい選手らしい。柴田君(スカウト)を通じて交渉してもらっていたが、入団がきまってよかった。打力がいいらしい」

高田代表の話「本人はもちろん家族も賛成してくれたので入団がきまった。日生の方は事後承諾になるが仕方がない。柳川君は中京大にいるころから目をつけていたが、外野へまわってから打撃もよくなった。一か月ほど練習すればすぐ使えそうだ。捕手の吉沢がケガでもした場合、江藤が捕手にまわることも考えられるので、そのときに打てる外野手として柳川君をとった」
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佐藤公博

2016-06-25 12:42:55 | 日記
1965年

八回裏二死をとったところで四年ぶりの白星のキーを石井茂に渡してベンチに帰ってきた。二塁には同点のランナー八田がいる。しかし佐藤公はゲームをみようとしない。すぐにロッカーへアンダーシャツを着がえにいった。「スライダーが外角低めによくきまりました。東京打線は田宮、山内さんがいたころに比べるとずいぶん迫力がなくなりましたね。試合前、天保さん(コーチ)に五回まで投げればいいといわれましたから予定をオーバーしたわけです。完投したかったが、オヤジ(西本監督)がマウンドにきてようほうったといってくれたのでホッとした気持ちでシゲ(石井茂)にバトンを渡すことができました」静かな口調、ていねいな言葉。ホオを伝わる大粒の汗をぬぐおうともせずつづけた。「先発はきのういわれました。だから昨夜は早く寝たです。でもあまり睡眠をとりすぎたせいかねぼけて、けさトイレにはったとき金具(頭を打っちゃってね」帽子をとるとうすくなりかけたオデコにバンソウコウが十文字に張ってあった。入団した年(三十五年)四勝をあげ期待されたが、三十八年試合前の練習中、打球を右手人さし指に当て筋を切り、一年間棒に振った。昨年もそれがたたってファームと一軍をいったりきたり。公式戦の登板もわずか七試合だった。「ことし高知キャンプにいく前オヤジにいわれたんです。ことしダメだったからもうおしまいだぞと。だからキャンプでは必死になって走りまくった。でもまだ入団したころの感じが思い出せない」佐藤公の大敵は太ること。せっせと走ってキャンプ前からみれば5㌔はやせたという。「三年間勝ち星がなかったが、そんなに悩んだりあせったりはしなかった。ただ一生懸命やっていれば必ずむくわれると思ってね」アンダーシャツを着がえるのも忘れて話しつづけていた佐藤公に、住吉が四年ぶりの白星の報告にきた。「勝ったよ。佐藤さん、おめでとう」佐藤公のまんまるい顔がくずれた。「そうか、実をいうとホッとした。でもこれで安心はしないよ。これからが大事だからね」六月攻勢へのろしをあげた西本監督も佐藤公の予定外の好投にごきげんだった。「足立の肩がはっきりしないときだけに大きいよ」ことし阪急の四本柱以外の投手から白星がでたのはこれが初めて。帰りのバスにいそぐ二十九歳の佐藤公は、ルーキーのような軽い足どりだった。
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ホイタック

2016-06-25 12:07:32 | 日記
1965年

ホイタックがウエスタン・リーグに初登板。ネット裏には野崎社長はじめ吉江代表、西沢監督、近藤、与那嶺各コーチら首脳陣がつめかけた。ホイタックはよくからだがのり、ボールも速くコントロールもあり、まずまずのできだった。近藤コーチは「アメリカだとスピードボールは打たれるので、やたらと変化球を投げるが、日本の打者は器用なので変化球だけでは通用しない。きょうのホイタックはほとんどまっすぐで勝負していたが、やっと日本の野球になれてきたようだ」と満足そう。ホイタックは「速球とスライダーで勝負し、カーブは二、三球、ナックルは一球しか投げなかった。きょうのように上体が前にうまく乗ればコントロールもつくということがよくかわった」といっていた。
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香川正

2016-06-25 11:39:02 | 日記
1954年

阪神入りの栄屋投手と近鉄入りの香川外野手は、今春ノンプロ球界からプロ入りした大物の双璧。四国坂出市に生まれ坂出商業から昭和十五年早大に進み、戦時特令で十七年九月卒業、直ちに軍曹に身をおいた。戦後大阪の中央ペイントに入社、十七年二月に日本生命に転籍した。早大時代ははじめ一塁手だったが、やがて外野手となり彼本来の打撃をのばし、四番打者として重きをなした。ところが戦時中でもあり、しかもそのころの早大は不振だったので、あるいは早大の香川選手としてはファンの印象は薄いかも知れぬ。しかし五尺七寸五分、十九貫の恵まれた体格と、生来の負けじ魂は彼をそのままにはしておけない。彼が最も活躍したのは二十七年日本生命に転籍した年で、大阪予選の代表決定戦では彼が投手として全鐘紡との第一戦を獲得しており、第二、三戦は失ったが全鐘紡にピックアップされ本大会では五番打者としての働きを十分はたしている。とくにこの年全鐘紡のメンバーとして第二回ノンプロ世界選手権大会に出場したときの働きはまことに目覚ましいものがあった。大リーグのサム・カルデロン捕手らをまじえたコロニアルスに対し香川選手は全五試合に左翼手として出場、十九打数、八安打、四割二分一厘の高打率で敢闘賞をうけている。二十八年は日本生命から本大会に出場したが惜しくも第一戦に優勝した大昭和に敗退した。しかしこの試合の七回、彼の二塁打をきっかけに一挙四点を獲得して大昭和を脅かした場面も忘れられない。彼は非常に重量感のある強打者常にチームの牽引車として先頭をきるファイターである。彼をボックスに迎えたときのたのもしさはなんともいいようがないほどである。そして例えどんな剛球であろうと、一度彼の胸付近に投げ込んだら、左翼方面に火をはくような弾丸ライナーを叩きとばされてしまう。もしあえていうならば、外角に流れる曲球に一段の工夫がほしいところ。いずれにせよ彼の打撃には魅力がある。これが香川選手の価値である。守備はややスタートのおそいきらいはあるが、スピードと球に対するしつような食いさがりでよくこれをカバーし、投手として経験もあるのでその強肩はいうまでもない。三十二歳の働き盛り、パ・リーグ新人王をねらう有力候補として期待されよう。球場の彼がピチピチとしていて、さぞかしファンには愛されよう。その彼はまた素人ばなれのした歌謡曲の名手だという。この方面でもまた腕をふるって愛されるのではないか。


小林政綱 日本生命監督
香川君は数多いルーキーの中で、すぐにもチームの中核として働ける有望選手の一人であろう。そのバッティングは決してうまいとはいえないどちらかといえばうえから叩きつける力のバッティングで、それだけにスピードボールにはめっぽう強い。とくにレフト方面に引っ張る打球の鋭さはプロ級だ。しかしどうしてもカーブ、とくに外角に来るカーブに弱くそれが心配だ。カーブを打ちこなせるようになったら肩は強く、脚も早いので十分に活躍できるだろう。ただパ・リーグは香川君がニガ手とする技巧派投手が多いというから、この点の研究をこれからつんでほしい。
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池島和彦・上田次朗

2016-06-24 20:33:50 | 日記
1970年

即戦力ということで太田をはずしてまでドラフト一位に指名された上田と七位だった池島。しかし四か月過ぎたいま二人の立場は逆転しつつある。池島は初先発で五回を投げ切り、新人の初白星一番乗りだ。「初登板なのでちょっと一回は堅くなった。二回からなんとか落ちついたが、調子は最低だったんですよ。ツイていただけです」それでも失点はジョーンズの右犠飛で与えた一点だけ。奪三振0が示すように威力はなかったが、明大時代、星野仙(中日)より上と評価された実力をのぞかせた。「昨年暮れ痛めた肩がまだ完全でない。大学時代はストレートを真ん中に投げるだけで押えたこともある。しかしそのころの球威を取り戻していないのでコースをねらった。紅白試合で、プロでも低めに投げておけば通用することがわかっていたからね」その日の調子でピッチングを切り替えるところなどやはりただものではない。「ぼくも肩さえ痛めなかったらすんなり巨人(一昨年の暮れ巨人が指名)入りしていたんだ。いまは騒がれることもなく、自分のピッチングに専念出来るが、その点上田は期待が大きすぎてかわいそうだよ」二人はキャンプでは同室。一つ年上の池島は上田をかばう余裕も見せた。「上田は、野球をやり出してあんなでっかいホームランを打たれたのは初めて」一日の阪急戦(高知)に続いて二度目の登板(初先発)も飾れなかった。「調子は悪くなかった。阪急戦に比べ、ボールも走っていた」調子がよくて打たれただけによけい考え込む。「ジョーンズに打たれたのは内角いっぱいのストレート。切れてファウルになると思ったんだが」いいコースに決まっても球威がなければ打たれる・・。プロのきびしさをまた一つ知らされて「これも勉強です」といった。即戦力と期待され「背番号(16)ぐらいは勝ちたい」とその気になっていたが、いまは一からやり直す気持ちになっている。「まだ自分の力を出し切ってないと思うんです。村山監督からおそわったフォークボールをなんとかものにしてやってみます。打たれてばかりいると、そうそうチャンスも与えてもらえないだろうから、いついまの状態から切り抜けるかが課題です」チームが4連勝といいスタートを切っただけに、よけいにこの若い二人の一本立ちがポイントになるのだが・・・。
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