プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

金子貴博

2023-10-20 00:03:44 | 日記
1991年
11月27日、トップをきって入団が内定した7位指名の金子貴博投手(船橋法典高)。船橋法典高といえば、7年前、三沢編成部長が、ドラフト外で松浦を獲得した。4年後、松浦は最多勝利投手のタイトルを獲得。そんな実績のある船橋法典高から、入団する事になった。各チームから1位指名を受けた萩原(大阪桐蔭ー阪神)、石井一久(東京学館浦安ーヤクルト)、そして上田といった選手に、「他の人は関係ない」と、入団内定の際に金子は言っていたが、二度対戦して、二度とも逆転負けを喫した石井だけには特別の感情がある。期待していた、夏の甲子園予選で対戦の夢が叶わず、悔しさを抱えていた。三沢編成部長によれば「腕が巻きつくような投げ方は、台湾時代の郭泰源に似ている」と絶賛。「僕が石井に負けているとは思わない」と、石井に挑戦状を叩きつけて、プロの門をくぐる。

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川口敏春

2023-10-19 21:48:59 | 日記
1967年
重松コーチからいろいろ教えをうけた。とくにカーブのあとに投げる直球が、高めに入る傾向を注意された。もっと低めのコントロールをつけないとダメだ。どんなにいいカーブを投げても、そのあとのタマが高めにいったら、せっかくのカーブが生きてこない。タマのコンビネーションのむずかしさがわかった。高校時代は毎日同じような練習の繰り返しだったが、プロはさすがに違う。毎日、毎日練習に変化があり、覚えるのにひと苦労だ。だが半面では意欲もわいてくる。これは楽しいことだ。なんとか一日も早く自分のピッチングのフォームを固めたいと思う。つらいこともある。ともかく初めてのキャンプでわからないことばかり。いろいろと気を使ったりして精神的な圧迫を感じる。もっと図太くなろう。十日はキャンプ二度めの休養日。だが独身組は足止めを食い、家に帰れないそうだ。チョッピリがっかりしたが、せっかくの休日だ。ゆっくり休んでこれからの練習に備えてスタミナをたくわえよう。

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岩崎忠義

2023-10-19 21:06:20 | 日記
1967年 

東京オリオンズに入団が決まった津久見高三年の岩崎忠義選手(18)は、三十一日午前十時二十七分津久見駅発急行列車で上京した。埼玉県川口市で一日から行われる東京キャンプに参加する。岩崎選手は津久見高の中心選手で、一昨年、昨年の甲子園大会に出場、また昨年の大分国体準優勝の原動力となった。同選手は二年生のときから三塁手で三番を打ち、俊足強打の大型選手としてプロ球界から注目されていた。
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甲斐和雄

2023-10-19 20:54:45 | 日記
1966年


四番甲斐もさきの九州高校野球予選の準決勝で延岡高から奪った3打席3本とも三塁打という快記録をつくって以来、ますます調子を上げている。
1967年


甲斐は力の柳田にたいしてワザの甲斐というところ。細身だが、ファイトがある。また四番打者ながら、塁に出ると走りまくる。城島渉外課長もその足にひかれたという。守備面はまだ勉強しなければならないが「打撃にパンチがあり、うまいタマのとらえ方をする選手」(中西監督)


朝から風が強く、冷たい。キャンプにきてからいちばん寒かった。マシンバッティングでも初めてのうちは手にしびれがきてまいった。だが、寒いからといって力を抜くようなことはできない。先輩たちもガンガンやっている。とくに力の違いは想像以上だ。投手のタマのスピード、打球のスピードも高校時代とは段違いだ。ことし入った同期生はだれでも一日も早く第一線に出たいと思っている。ぼくも同じ気持ちだ。それにはコツコツと努力を積むほかない。さいわい二週間前疲れから痛めた左足の痛みもすっかりなくなって体調はじゅうぶんだ。しかしつくづく感じることは、まだからだができていないことだ。だからいってそうからだを鍛えよう。現在の目標はあこがれの中西監督さんやコーチのノックを早く受けることだ。これまで親元を離れたことのないぼくだ。だからやはりさびしい。だがプロ一年生、そんな感傷にひたってはおれない。

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三浦方義・英謙次

2023-10-18 10:06:05 | 日記
1978年
巨人の二軍から大映に移ってすぐに29勝、ロッテのコーチにもなった三浦方義は、五十嵐冷蔵の冷凍食品の主任。今年、ヤクルトがサンディエゴ・パドレスのキャンプ地、ユマに遠征、向こうの投手から投手団からスライダーとカーブをミックスした球「スラーブ」を教わったというニュースを聞いたとき、三浦投手を思い出した。彼のカーブもそういうカーブであり、手首が強かったためだ。


1979年


三浦は、東京・芝浦の五十嵐冷蔵という会社で働いている。朝の8時が出勤時間だ。この会社には東映にいた英謙次も部長職でいる。

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新井彰

2023-10-16 20:25:16 | 日記
1963年
大毎オリオンズに五年目の新人がいる。名前は新井彰。彼がオリオンズにやってきたのは、三十四年である。ことしですでに五年になるのだが、彼は新人である。つまり今まで彼は練習生だったのである。ことしはじめて正式に選手として契約してメンバーに名前が出るようになったのだ。ここまで、五年間、彼が登録されなかったのは二つの理由がある。球団から昨年、正式契約をもちかけられると、彼自身が尻込みしてしまったのである。新井は、銚子商の外野手だったが、三十三年卒業すると東京に出て来て八丁堀の鉄鋼会社に就職した。彼はそこで軟式野球をやっていた。その年の秋、オリオンズのテストがあるのを知って、彼は一日の休暇をとって受けてみた。彼はその時、何本かを後楽園のレフトスタンドに放り込んだ。「その後、働いて帰ってきたら、オリオンズからの合格通知が来ていたのです。そりゃあ、うれしかったですよ」

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吉元伸二

2023-10-16 20:10:05 | 日記
1995年
勝負強い三番打者として、91年都市対抗野球準優勝に貢献。100㍍11秒1の俊足と強肩がセールスポイント。「目標は攻守走三拍子そろった飯田さんです。肩と足を前面に押し出して、一軍の試合に出たい」

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屏道夫

2023-10-15 22:23:12 | 日記
1964年
十月二十二日、秋のオープン戦を目前に控え東映ナインが、多摩川グラウンドで最後の練習に励んでいるところへ、一人の青年がユニホームをかかえてやってきた。どこかで見た顔だと思ったら、つい最近巨人を自由契約選手になった屏道夫内野手だった。福岡京都高を出た屏は、期待されて巨人に入団、第一線選手を夢見て頑張ったが、今シーズン限りで自由契約にされてしまった。一度は公式戦の舞台に立ったこともあった屏は、三年間のプロ生活を清算するにはどうしても心残りだったようで、水原監督にテストを申し出てきたものだった。この日は水原監督もグラウンドに姿を見せており、一応練習を許可、テストすることになったが、屏の真剣な体当たりにどんな答えが出るか。


1975年


今春の関東プロゴルフ・テストは茨城県「セントラルGC」で行われたが、合格ラインは、36ホール通算3オーバーの狭き門ー昨年までの4オーバーから1ストローク厳しくなり、昨秋の合格者二十六人が今回はわずか七人(受験者八十一人)にとどまった。不合格者の中には、元巨人軍の屏道夫内野手(32)、米国ハワイ州でPGAのライセンスを持つ高橋純一(26)など異色の受験生も。日大ゴルフ部出身者は四人も受験したが、全員不合格。


1979年


島田博氏、屏道夫氏も、もとはといえば清峰伸銅のチームの一員であったという。屏はプロゴルファーに転向して、いまは水戸のほうに行っているはずだそうだ。

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是久幸彦

2023-10-15 22:21:44 | 日記
1974年
是久幸彦氏(三塁手)の場合は、引き裂かれるようにして、野球界を去った。東映に六年間在籍して、自由契約を宣告された時は、まだまだ野球をやりたかった。精神的苦痛をいやすのに一年間かかった。何とかインテリア関係の会社に入り、第二の人生を出発した矢先、グローバルリーグが選手を集めていることを知った。じっとしていられなくなって飛び込んだが、結果はご承知の通り、アメリカからベネズエラに渡ったが、リーグは倒産した。「27歳でした。ベネズエラで足止めをくった時、もう野球はダメだなと思いました。帰国して村山実業に入りましたが、一年間は、テレビもスポーツ紙も見ませんでした」現在の仕事は錦鯉の仕入れ販売。五年目を迎え、足はふらついていないとしても、野球への情熱は捨て切れない。できれば、自分の息子(一歳二ヶ月)に夢を賭けたい。せめて、それ以前に、若い人を指導してみたいという夢を抱いている。

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大毎引退選手

2023-10-15 13:30:06 | 日記
1966年
上条高敬。在籍六年。138試合、1本塁打、通算打率1割7分。イースタンリーグで首位打者になったこともある。高校時代(東京足立高)三振奪取王といわれたが、昨年はフリー・バッティング投手として契約した。24歳。小林英幸。在籍六年。176試合、3本塁打。通算2割3分6厘。中日から移籍した。長打力の片りんをのぞかせたが、生来の楽天的ムードが、きびしさを失わせ、大事な場面で三振することが多かった。東京都帝京商出身。24歳。新井彰。在籍二年。1試合出場で打席なし。終始テスト生の形で消耗品として使われた。投手の比率と捕手とでは、問題にならないくらい捕手は少ない。球団側は、選手として出場するメドのないテスト捕手を雇うところがある。新井も、そのひとり。マジメな性格で一昨年、支配下選手となった。千葉県銚子商出身。25歳。押田令三。在籍三年。4試合登板で4イニングス三分の二投球。防御率1.80。長身からの速球で注目されたが、肩をこわして、プロから去った。兵庫県鳳鳴高出身。21歳。この四人が、いまの職場に移籍?したのは昨年十一月十日。ボールを捨て、バットを捨てた手は、インクにまみれた。東京都新宿区水道町にある三晃印刷。中小企業としては、約四百人の従業員をかかえた、かなり大きな印刷会社である。山田潔スカウトの口ききで入社した四人は「ボールへの哀愁は何もない」とキッパリいい切る。そして、いずれもが明るい表情なのだ。はじめ、四人はグラビア課に配属され、輪転機とともに一ヶ月間を過ごした。その一ヶ月間を終えると、配属先は、それぞれ別々になった。上条、小林両君はグラビア営業課。新井君は資材課。押田君は、そのまま輪転機とともに生活している。上条君の仕切り伝票のペンさばきも堂に入ってきた。小林君は運転免許証があるから、もっぱら発注、受注の御用聞き。三晃印刷では週刊、月刊誌も軒並み闘っているから、決してヒマな職業ではない。新井君は資材課で巻き取り紙の出入庫を記載する役目。上条君の失敗談ー「フォークリフトといって、荷物を乗せるリフトを運転したんですが、不慣れなため、地下の製本の山の中に突っ込んでしまって…」小林君も、そばから口を入れる。「うん、あのときは、本のくずれる音が、ひとしきりしたが、いつまでたっても、上条の声が聞えなかった」ふたりは底抜けに明るく笑った。上条君は松戸市の自宅から通勤している。上に姉ふたり、下に妹ふたりの長男だ。両親がいっしょにいる。朝六時半に仕事を家を出て、石切橋の三晃印刷まで、午前八時始業の午後四時半終了。残業も忙しいときは連日だ。「プロ野球に未練もあったけれど、自分より、ほかの人が決めることだったので、しかたない。しかし両親は、かえって安心したでしょう」小林君は都下昭島から通勤するから午前六時に自宅を出る。この四人の中で、ただ一人の妻帯者だ。早苗夫人との間に真奈美ちゃんという誕生を迎えたばかりのベビーがいる。三人兄弟の長男。それなりに責任がある。「ボールへの愛着はまるでないですね。こちらの方が、よほど楽しい」運転免許が役立っている小林君は、いかにも、その日その日に生きがいを感じているようだ。新井君は、市川のアパートで弟さんと一緒に住む。「六人兄弟の四番目ですよ。アパートは六時二十五分に出ます。はじめは、きつかったけれど、いまは、すっかり慣れました」四人の中で、リーダー格の新井君は、いまや資材課でも、なくてはならない人になっているということ。(忠岡営業二課長の話)押田君は、八人兄弟の末っ子。兵庫県の田舎からは「しっかりやれ」といわれた程度。いま会社の寮で暮らしている。「やっと仕事を覚えたところで、毎日が興味の連続です。この会社に飛び込めばよかった。だから、ボール拾いか、なんかしてウダツのあがらん連中は、サッサとやめて、ここにくればいいのになあ」四人の共通した結論が、そんな談笑の中に引き出されている。いま四人は、プロ選手としての経験を生かして、毎朝、軟式野球部の部員とロード・ワークの先頭に立っている。忠岡営業二課長は、野球部監督も兼ねている。「ひと口にいって、マジメですね。それに、非常に礼儀正しい。立てるところは、ビシッと立てる。きびしい勝負の世界にいたせいでしょうか。こうしたものは、ほかの従業員にも非常なプラスになっていますよ」自分たちが、出直すんだという気持ちに立って、花やかな過去の舞台を忘れ切ろうとする努力。それは、だれが見ても、認めてくれるのだろう。「そうした真剣さが、軽い気持ち。安易に暮らしている連中を刺激するんですね」三晃印刷の山元正宣社長の方針は「スポーツマン歓迎。スポーツマンの明朗さ、カッ達さは仕事にプラスする」の信念を持っている。そのせいか、ここはスポーツマンが圧倒的に多い。「かといって、四人を特別視していない。仕事オンリーの観点から、ハンディなしの扱いですよ」と、忠岡氏は補足する。「新井君にしても、ソロバンはうまい。ペンを握らせても、字がうまい、事務能力が、すぐれていますし…」と四人に合格点をつけている。そして、最後に、こう結んだ。「いまの気持ちを忘れずに、やってくれること。彼らを悪くいう人は、いませんからね。これが彼らへのアドバイスです」-初心忘るべからず。あざやかな再出発を見せたプロ野球選手たち。上条、小林、新井、押田君よ。この気持ちを忘れずに、がんばれ…。

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的場祐剛

2023-10-14 22:01:29 | 日記
1974年
的場祐剛(左翼手)は横浜でスナックを経営しているが、かつてのチームメートとは、ほとんど音信不通の状態である。大洋から中日へ、そして退団。消息は法政二高当時の堀場マネジャーしか知らなかった。堀場氏によれば「サラリーマン金融、カセットテープの販売など、いろいろやったようですが、やはり、十四年前の優勝が心の支えになっている。決して弱音を吐く男じゃありません。どんなつらい時でも自分でやってみせるってがんばっていました」


1977年


6月25日、川崎臨港署に覚せい剤密売の疑いで逮捕された的場祐剛は十数年の星霜を経た現在、「両脇がドス黒く、頬がコケ」「いつもコーラを飲みながら焦点があわないうつろな目」という近所の証言もあり、覚せい剤常習者にすっかり変わっていた。34年に法政二高に入学し、1年の夏からレギュラー。甲子園の土を踏むこと四度、二年夏、三年春と連続全国制覇し、的場は高校球界のスターだった。とくに三年春のチームは今もって高校野球史上最強と言われた。的場は主将として癖のある連中をうまく統制し、人望もあったようだ。その後、俊足巧打を買われ大洋に入団、三年目に中日に移籍したが芽が出ず一年でユニホームを脱いだ。プロ公式記録は試合9、3打数ノーヒット。期待されたわりにはさっぱりだったのだが、当時の大洋のコーチ連は口を揃えて「好選手だったが、体が小さいうえに特徴がなく、プロとしては線が細かった」と。また法政二高時代の監督だった現阪神スカウトの田丸氏も「プロより堅実な会社の方がよかったんだが…」プロを去った後は沖仲仕、サラ金、と職を変えた。大人のオモチャ屋、スナックと転々。たまにしか連絡を取っていなかったという肉親は「人が良すぎて利用されたんだと思います。覚せい剤を打つようになったのは痛風(中日時代の足の故障)が治らず、痛がっていたようでしたから」華やかなプロ球界の影の部分を元同僚の一人が語っていた。「プロで駄目になった時、それをアマ側で受け入れるようにしないと、野球外の社会でやる時におろおろするんです」野球しか知らない男を歓迎するほど、世間は甘くないと知るべきなのだが・・・。

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米増豊

2023-10-14 21:36:17 | 日記
1962年


一月十七日、その日はブレーブスが自主的トレーニングに入った二日目のことだった。そこへバットを持った一人の男が入ってきた。宇都宮マネを探しにきたのだ。「あいつどこかで見たような顔だな」とだれかがつぶやいた。「米増と違うか」「ヨネマス?誰」「近鉄の二軍にいたやろ」「ああ、外野を守っていた」昨シーズンまで近鉄の外野手として二軍戦にときどき登場した選手だ。「そうや、テストを受けにきたんやろ」一度味わったテスト生の苦しみをまた今年も味わいにきた男、米増豊選手がそれだった。昨年のはじめ、近鉄ナインが自主トレーニングで汗を流していたある日。大きなバッグを下げて一人の選手がやってきた。それが一年前の米増だった。その日からくる日もくる日も米増はテスト生という名で練習に参加した。外野を守り、守備はうまかった。約15日間の練習の末、近鉄に入団が決まった。つらい努力がやっと報われたのだ。ところが入団したものの米増が考えていたほどプロの水は甘くなかった。二つも三つも年下の選手が華やかに活躍するのを横目で見ながら、無意味に過ごした一日を振り返り、焦った。覚悟はしていたものの球団から整理選手をいい渡されたときは、舌打ちしたかった。テスト生がゆえに受けた不遇、思いは悪いことにばかりつながった。しかし、「何とかなるだろう、近鉄ばかりがチームではない。一生懸命やれば・・・」と新規巻き直しだと思った。その米増は17日からのブレーブスのトレーニングに参加している。「関大からテストを受けて近鉄に入った。しかし、出発点から僕は大きなハンデを背負っていたことに気がつきませんでした。実力がすべてに優先するということだけではこの世界では渡っていけないということですね。やはり毛並みのよさというものが絶対必要ですよ」と米増はいう。「しかしまだ希望は失ってません、とことん自分の力を試してみます。阪急のトレーニングに参加したのもそのためです。結果はそれから先です」米増の決意は尊い。だがその決意だけで果たして希望がかなれられるか。「自分から力を試してみるのだーという気持ちは甘やかされた選手より根性がある。これが米増にとってたった一つの特徴なんだ」とあるコーチは言っている…。

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有吉洋雅

2023-10-14 21:18:50 | 日記
1955年
五尺九寸、二十一貫という堂々たる巨体から豪速球とシュートを投げる。いわば西村型のスケールの大きい投手。万事に落ち着いた選手で、小事にコセコセしない。監督や先輩が呼んでも、一度や二度では返事をしないというシブトさをもっている。

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近藤晴彦

2023-10-14 15:03:47 | 日記
1961年
近鉄は大洋の自由契約選手となった近藤晴彦外野手を、スプリング・キャンプにテスト生として参加させることに決まった。同選手は昨シーズン31試合に出場したが、見るべき成績を記録できぬまま整理された。「どこかで野球をやりたい」と情熱を捨てないところを見込んだ千葉監督が、とりあえずテスト生として参加させることになったもので、採用されるかどうかは、キャンプの結果による。これについて近藤は「結果として不甲斐ないシーズンだったが、何としても野球生活をつづけたい。そのためにはキャンプだけでなく、キャンプ開始日が試験日のつもりで、それまで猛練習する」と決意を語っている。

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泉嘉郎

2023-10-14 14:14:39 | 日記
1969年
くる日も、くる日も、バッティングピッチャー、二十代の若者にとっては、まるで灰色のような生活であった。苦節五年、その青年がようやく陽が当り、脚光を浴びようとしている、プロ入り六年目の泉嘉郎投手である。ここ数年、オフシーズンになれば、泉はスポーツ面には目もくれず、いちばん先に見るのは求人案内の広告であった。そして求人欄の中でいつも目に入ってくるのは、運転手求むのところであった。「長距離トラックの運転手なら給料も高いし、ファーム時代と同じくらいの給料はとれるのではないかと思いましてね」いつ球団から自由契約の通知があるか、ビクビクとした寂しい気持ちの毎日であった。去る二日の姫路球場での対中日にこの泉が、オープン戦第一戦の先発を命じられた。結果は、六回を投げ、打者二十一人に対して三安打の散発、三振三個をとって完封してしまった。中日の主力打者は、キツネにつままれたように「あの下手投げのピッチャー、なんといったか…」と、呆気にとられていた。それほど泉のピッチングは冴えていた。ついでに六日、大阪球場の対阪神戦も、救援で四回を投げノーヒット、三振二個の好投を見せた。この試合も勝利投手となって、二試合で二勝、快調の出だしであった。この泉は、三重県菰野高から入団し今年で六年目。入団した当時は上手投げであった。ところが、三年目のシーズン途中に、当時の柚木二軍監督から「お前の球じゃ、プロでゼニはとれんぞ、上から投げるのはあきらめて下から投げてみんか」といわれた。下手投げの練習には必死だった。注目され始めたのは、昨年後半からである、下手投げという投法もさることながら、一生懸命投げる泉の姿に藤江ピッチングコーチが目をつけた。公式戦終盤に、六試合に起用されて十イニングを投げ、経験を深めた。さらに磨きがかかったのは昨秋の日南キャンプだった。「低目に落ちる球はいい。外角へのスライダー、カーブがまともであれば、そう打てるバッターはいないはず」藤江ピッチングコーチが、このように太鼓判を押すまでに成長した。下手投げ投手が苦手とする左打者に対しても、落ちる球でビクともしない。とくに九日の阪神戦では、藤田平、カークランド、遠井らの左打者に対して、外角シュートで勝負し、また右打者には速球とカーブで堂々と勝負した。泉が闘志を燃やすのは、その右腕に、昨年一月十四日に結婚した弘子夫人と、二ヶ月になる一粒種の長女かおりちゃんの生活がかかっているからだ。現在の段階ではペナントレースに入ってもまだ救援か中継ぎといったところだが、藤江コーチは「通用できそうなチームがあれば、どしどし先発で使っていくつもり」といっている。飯田監督も「いい者はどしどし使うのがプロ野球。年功序列なんてのはプロの世界では通用しないんです。泉ももちろん使っていきます」と、その実力を高く評価している。六年目やっとつかんだチャンス。今シーズンこそ、新聞を開けば求人欄には目もくれず、派手な自分の活躍を活字で見ることができるのではないか。ようやく、咲かせた希望の花、自らのためにも、弘子夫人やかおりちゃんのためにも立派に実らして欲しいものである。

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