1965年
新聞で東京オリオンズのライン・アップを見て気がつくのは、近頃、ゴールデンボーイの山崎に代わってショートに斎藤というあまり馴染みでない名前が並んでいることである。殊にこの斎藤選手、左右の動きも敏速だしタマさばきも軽く守備のうまさは定評つきだったが、打力がやや迫力に欠けるというので控えのそのまた控え選手といった立場で一軍とファームを往復していた選手。ところが八月に入って遊撃の位置をまかされるや好守好打、打率も・261を打ち、なかなかいい線をいっている。東京は吉祥寺生まれ、桐朋学園という進学率のいい高校から早大入り、二年で中退してオリオンズ入りした、いわば無名の選手。体も1㍍73と小柄だし、温和な顔立ちをしているが、二年間の下積み生活で鍛えてきただけになみなみならぬバイタリティと根性の持主とみている。この目下、金の卵の代役をつとめている斎藤選手が契約金ゼロのテスト生で入団したというから世の中は皮肉なもの。中途退学した理由と言うのは父を小さいときに亡くし母一人に育てられましたので経済上の事情もあり、当時野球部内でゴタゴタしていて楽しい空気ではなく、いっそのことプロの世界でやってみようという決心でオリオンズのテストを受けてみたわけです」38年の秋の入団だからことしは3年目、22歳の油ののりつつあるところである。今シーズン、前半はファームの田丸コーチが下でみっちり打法を仕込まれたのが、大いにプラスになったという。体力のあまりない斎藤選手としては体重をうまく利用した、シャープなバッティングを身につけつつあり、これが打率上昇の一因となった。遊撃手といえば、すぐ吉田、広岡ときてしまうが、彼はあくまで誰というより個性のある自分なりの選手でありたい、と芯のある事をいう。座右の銘はわが歩む道はこの道の他なし。趣味といっても薄給の身でこれといったものはなく、テレビで歌謡曲を聴く事。好きなのは女心のバーブ佐竹。目下、立川市錦町にある自宅で母と弟の四人暮らし。ただいまの望みは価値ある選手になって給料を上げてもらうこと以外にない。
新聞で東京オリオンズのライン・アップを見て気がつくのは、近頃、ゴールデンボーイの山崎に代わってショートに斎藤というあまり馴染みでない名前が並んでいることである。殊にこの斎藤選手、左右の動きも敏速だしタマさばきも軽く守備のうまさは定評つきだったが、打力がやや迫力に欠けるというので控えのそのまた控え選手といった立場で一軍とファームを往復していた選手。ところが八月に入って遊撃の位置をまかされるや好守好打、打率も・261を打ち、なかなかいい線をいっている。東京は吉祥寺生まれ、桐朋学園という進学率のいい高校から早大入り、二年で中退してオリオンズ入りした、いわば無名の選手。体も1㍍73と小柄だし、温和な顔立ちをしているが、二年間の下積み生活で鍛えてきただけになみなみならぬバイタリティと根性の持主とみている。この目下、金の卵の代役をつとめている斎藤選手が契約金ゼロのテスト生で入団したというから世の中は皮肉なもの。中途退学した理由と言うのは父を小さいときに亡くし母一人に育てられましたので経済上の事情もあり、当時野球部内でゴタゴタしていて楽しい空気ではなく、いっそのことプロの世界でやってみようという決心でオリオンズのテストを受けてみたわけです」38年の秋の入団だからことしは3年目、22歳の油ののりつつあるところである。今シーズン、前半はファームの田丸コーチが下でみっちり打法を仕込まれたのが、大いにプラスになったという。体力のあまりない斎藤選手としては体重をうまく利用した、シャープなバッティングを身につけつつあり、これが打率上昇の一因となった。遊撃手といえば、すぐ吉田、広岡ときてしまうが、彼はあくまで誰というより個性のある自分なりの選手でありたい、と芯のある事をいう。座右の銘はわが歩む道はこの道の他なし。趣味といっても薄給の身でこれといったものはなく、テレビで歌謡曲を聴く事。好きなのは女心のバーブ佐竹。目下、立川市錦町にある自宅で母と弟の四人暮らし。ただいまの望みは価値ある選手になって給料を上げてもらうこと以外にない。