プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

植田健作・上田重夫

2023-10-12 20:52:04 | 日記
1960年
シーズンに入ってから、三原監督は山口県柳井中の陸上選手だった植田健作という十五歳の少年と、和歌山県田辺高出身の上田重夫という沖仲仕の二十一歳の投手を、練習生として採用した。評判を札束で追いかけるのがチームの強化策ではない、という三原流のスカウト。二人とも前途有望の折り紙付きといわれているが、これなども三原監督の「打倒巨人」三年計画の一端に入るのだろう。

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外山博

2023-10-11 22:19:21 | 日記
1967年
秋季練習を行っている中日は、七日正午から中日球場で紅白戦を行った。若手のホープ外山が、ストレートと落差の大きなカーブで四回を4安打に押さえたのが光った。

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スタンレー橋本

2023-10-11 22:09:17 | 日記
1974年
32年、来日して暴れん坊東映のクリーン・アップを打ったスタンレー橋本一塁手(在ハワイ・保険会社勤務)が、「ウォーリーのハッスル・プレー100%だったネ。ウォーリーの場合、初めは一人ぼっちのうえ、言葉も通じなかったから、これだけでもツー・ストライクのハンディがあったと思うのネ。彼の力で、みんな日本に来られたと思う。ボク、彼の家の隣に住んで、よく面倒みてもらったヨ」と言うように、与那嶺は来日二世部隊のまとめ役であった。

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辻中貞年

2023-10-11 22:00:47 | 日記
1972年
大阪市東住吉区の路上で、集金帰りの店員が後をつけてきた男にナイフで脅されて、74万円入りの袋を奪われた。通りかかった近くの果物屋さんと大工さんが追っかけ、大工さんは途中石を拾い文字通りランニングスロー。これが見事当ってひるんだ賊は捕まった。この大工さんは辻中貞年さん(36)で元近鉄球団のプロ野球選手。30年には公式戦で4勝をマークした投手。辻中さんの投げた石は四個。「肩が冷えたので、0-3と追い込まれ、やっとストライクですよ」とはさすが。

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玉井英紀

2023-10-11 21:55:05 | 日記
1958年
昨春、県大会で優勝した玉井投手が健在だ。精神的にも技術的にも進歩して3点以上許すことはめったにない。武器は外角の速球と打者の手元へぐっとのびるシュート。「これまで玉井のワンマンチームといわれてきたが、井門コーチの熱心な指導で全体にまとまってきた。守備に信頼ができると、玉井も息を抜くことができる」と木村野球部長は喜んでいる。

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相川進

2023-10-09 14:32:57 | 日記
1970年
オープン戦が終わったとき三原監督は顔をほころばせながらこういった。「一番成長したのは三塁の相川でしょう。特にオープン戦中盤までの当たりはたいしたものだった。永淵の不振を彼一人でカバーしたようなものだ」それほど相川は著しい進境をみせている。キャンプ当時の評判は決して芳しいものではなかった。三塁のポジションを松原と阿南を加えた三人でせり合っていたが、バッティングも守備も荒かったため一番見劣りしていた。相川は二年前、中日から近鉄に移籍したことし六年目の選手で混血児だ。岩本コーチは、体格のいい相川に惚れこんだが、どうも性格的にチャランポランなところがあって、練習に身を入れない。酒が好きで、ムラッ気があり、直情経行型の性格である。この情報を分析して指導したところ岩本コーチの眼力があり、うまさがあった。煽てたり、宥めたり、そうこうするうちに相川は目にみえて上達した。紅白戦に出場すると彼のバットは突然火を吐いた。中日、近鉄での五年間、眠り続けていた素質が一度に開花した。それがすぐ三原監督の目にとまった。それ以後、三塁は決まって相川だった。またその期待に応えてよく打った。オープン戦で六ホーマーを記録したのだ。その中には同点ホーマー、決勝ホーマーありで内容も盛りだくさんだった。「ちょっと気がかりなのがオープン戦の終盤から調子を落としていることだ。バットの振りが鈍くなっているのは、疲れが出ているからだと思う、いま今シーズンの打率をはっきりいうわけにはいかないがかなりやる」と岩本コーチ。三原監督も「すごい伸び方ですね。もともとパワーのある選手だったが、急にうまさを身につけたね。しかし、ちょっと気の弱いところがある。それが気がかりといえば気がかりだが…。しかしあれだけやれれば上々ですね」いずれにしても、近鉄のウィークポイントといわれていた三塁に短期間で躍り出たのは立派だ。懸念された三塁守備もバッティングがよくなってからは、みちがえるほどの上達ぶり。岩本コーチも「私も外野から三塁に変わったことがあるが、バッティングのいいときは守りにも自信が出てくるものだ。相川はもともと三塁手。あまり気にしないでのびのびやった方がいい」こういって励ます。岩本コーチのこもった指導がなければ現在の相川はなかっただろう。

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菱川章

2023-10-09 14:16:30 | 日記
1969年
「ヒシ、左足がぐらつくぞ。肩に力が入りすぎだ。バッティングは力だけじゃない。フォームだ。打撃練習する菱川の背後から。田宮コーチの声が飛ぶ「ハイハイ」とうなずく菱川は、不審な点があると、すぐ「いまのはどうですか…」と、コーチにたずねる。「どうも、菱川は気持がフラフラして、精神が集中しない」以前は、こういった批評を受けていた菱川だが、最近は動作にも落ち着きが出てきた。プロ入り六年目、未完の大器と入団当時からいわれ続けた菱川も、ようやく大人に成長した。レギュラーまで、あと一息というところである。入団当時、いや、倉敷工時代から浪曲が大好きだった。栗色のカミの毛、茶色がかった目の玉、顔つき、風貌こそ日本人離れしたところは争われないが、中身は純日本人である。倉敷工のホームラン打者、金のタマゴと騒がれて華やかなプロ入り。本当は阪神が意中のチームだったらしいが、中日のスカウトが懸命に口説いたのが成功した。そして、女手一つで育ててきた母親常子さん(40)を少しでも楽にしてやろうと、契約金の大半をつぎ込んで、岡山市内に家を新築して贈った。それに世話になった親戚の人たちにも、それぞれポンと返礼して「これで章も、どうやら一本立になりました。あとは自分で自分の道を進みます」と、独立独歩の道を歩み始めた。入団した三十九年、初のキャンプが松山で行われたとき、当時はバッティング担当の杉山コーチと意見が合わず、「もう家へ帰る」と言い残して、さっさと岡山へ単身帰ってしまった。あわてた球団では、すぐ人をやって一週間後にはキャンプへ連れ戻したが、当時、報道陣にも知れず、極秘で事が済んだのは何よりだったという逸話も残っている。また、それから後になっても、コーチが注意したりするとすぐブーッとふくれることもあって、チームの首脳陣が、菱川の扱い方に手を焼いたことが再三あったといわれている。そんな菱川の性格が改まってきたのは、妻智恵子さん(20)の内助の功に負うところが大きい。入団三年目のシーズンオフ、四十一年十二月二十九日に智恵子さんと結婚式をあげ、合宿を出て家庭を持った。そして翌年の十月には浩一朗ちゃんが生まれた。智恵子さんの菱川に対する深い愛情とパパになった菱川の自覚、それが型破りの行動をストップさせたことになるようだ。昨秋の特別練習が中日球場で行われていたとき、田宮コーチが菱川の打撃について、アドバイスをあたえた。そのとき菱川は「ボクはわからなくなった。しばらく、自分の考えたままをやりたいので、ほおっておいてください」と申し出た。田宮コーチは知らん顔だった。それから、三、四日たってから菱川のほうから「いろいろ考えたが、やはり自分ではわかりません。田宮さん。教えてください」と申し出てきた。こうして年が明け、ことしのキャンプで、田宮コーチとの間に、マンツーマンに近い特訓また特訓となって現れている。水原監督は菱川について「あのパワーは、なんといっても魅力だよ。どうしても、早く一人前になってほしい。プロ野球は、やはり豪快な一発が最大のものなんだから…」と、その成長に大きな期待をかけながら、飛び出してくる日を、首を長くして待っているのだ。

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相川進

2023-10-09 14:00:47 | 日記
1969年
ちょうど菱川が入団してきた翌年の四十一年一月、中日球場で自主トレーニングが行われていた時のことである。坊主頭の、まだあどけない少年が、背番号なしのユニホームをきて、外野へ飛んだボールを、拾い集めていた。当時、立正佼成高一年在学中だったからまだ十六歳、いまでこそ相川は184㌢、80㌔と大男だが、この頃は、現在とは似ても似つかぬスラリとした細身の体つきであった。まだ体が充分に出来ていなかったから、それは当然のことだろう。父親はアメリカ人、母親は現在は行方がわからず、この進少年は祖母のきぬさん(67)の手一つで育つという悲しい境遇だった。せっかく高校まで進学はしたが、経済的にも苦しく、ある人を通じて「立正佼成高で、こういう選手がいる。中日は養成選手を置いたり、その方面では草分けのチームだから、一つ考えて欲しい」というわけでテストの運びとなったのだ。相川は高校では外野を守っていたが、中日では、その打撃、守備、走力、あらゆる点を、時間をかけて検討した。その年の松山キャンプの後半に内野手として採用と決定した。しかし、すでに選手の枠は一杯だったため、養成選手と同じ資格でファームで練習した。これが相川のプロ入りした当時の経緯である。中日で与えられたポジションは二塁、当初は「とても、まともな内野手はやれないが、動きがよくなるから」というのが、幹部の考え方だった。四十年のシーズンが始まってから支配下選手にも登録され、ウエスタン・リーグにも出場する機会が与えられた。そうして一年ほどたったころには、入団当時とは見違えるほど、体が大きくなった。あどけない少年の顔には、いつの間にか、茶褐色のアゴひげがいっぱい生え、むしろ外人に近い風貌に変わってきた。それと同時に打撃の構えもスペンサー張りの日本人離れのした低く腰を落としてのクローズドスタンスとなった。四十一年の秋、九月になってから公式戦で産経相手に初ホーマーを放ち、このころから「長距離打者としての素質はある」と注目されはじめた。また、当時は、チーム内で菱川と並んだ混血児二人が中日の異色コンビとして話題を呼んだ。四十三年、杉下監督の時に三塁や一塁をやったが、攻守にもう一つスピード感を欠くうらみがあった。その年の秋、近鉄から譲渡の話が持ち出され、杉投手と抱き合わせで近鉄の吉沢捕手との複数トレードが成立した。球団の内部では「相川のバッティングがもったいない」という声もあったらしいが、吉沢捕手を必要とするチームの事情で話は成立した。ところが、近鉄に移ったことによって道が開けた。近鉄の内野陣の手薄さは、意外に早く、ポジションを相川に明けたのである。阿南のいる三塁を飯田、松原とともに争って敗れたが、その長打力を惜しむ三原監督は、相川を鎌田の控えとして二塁に起用、鎌田の打撃不振の開幕当初は、スタメンから登場する幸運に恵まれた。しかし荒削りな攻・守は鎌田から正二塁手を奪うだけの力はなく、現在も一割五分前後の低打率で、その豪快な長打力も見られないが、三原監督は、明日の近鉄のクリーンナップの一員として、その成長に大きな期待をかけている。逆境に育った相川は、苦難のカベを破って、その期待に応えることだろう。

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源五郎丸洋

2023-10-09 12:56:04 | 日記
1981年
主戦投手の源五郎丸は右上手投げの本格派。球質は重く、球種も速球、変化球と豊富だ。制球力もあり、胸もとに食い込むシュートが大きな武器。最近は打者との駆け引きもうまくなった。

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橘健治

2023-10-08 21:26:42 | 日記
1971年
近鉄はドラフト会議で第三位に指名した津久見高・橘健治投手(17)=184㌢、75㌔、右投げ右打ち=の入団を二十四日午後三時から大阪市東区森ノ宮の同球団事務所で正式発表した。「でっかいな」更改交渉にきていた鈴木が橘をみて思わずビックリしたよう。大声を出したが、184㌢、75㌔のからだは、プロ球界のエースと並んでも見劣りしない。この上背をきかせての快速球が橘の売り物だ。竹内(深谷=大洋入団)山本(鳥取西=巨人指名)尾崎(徳島海南=ヤクルト指名)らとことしの高校球界のビッグ4の評価をスカウト連から受けてもいる。「とにかくストレートで勝負出来る投手になりたい。鈴木さんをはじめ、江夏、堀内さんのようなピッチングをすることが僕の目標です」夢も大きい。

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坪井新三郎

2023-10-07 20:00:08 | 日記
1970年
広島・国貞選手のソックリ・ショーでもあれば間違いなくチャンピオンになるだろう。いかつい顔つきばかりでなく、168㌢、63㌔の小さなからだー外観はもちろんプレーまでそっくりだ。肩をいからせたフィールディング、ランニング・スタイル。バッティングもいたって粘っこく、死球でも喜んで一塁へスタスタ。違うところは国貞選手がクローズドスタンスだが、坪井はスクエアスタンスということだけだ。入団のいきさつも全く同じ。坪井はドラフト会議にも名前があがらず、テストで入団した。キャンプでは相手にされず、足早く名古屋に戻った組に入れられた。ところが、ウエスタン・リーグが始まると頭角を現してきた。「とにかくしつこい。ダニみたいなやつだ」(本多二軍チーフコーチ)といわれるほどボールに食いついて、ニックネームが「ダニー坪井」とつけられた。そして六月に待望の一軍入り。六月二十六日の巨人八回戦で三塁線のゴロを二度拙守して定位置獲得のチャンスを逃したが、ファームではリーディング・ヒッターに輝いた。「一軍のスピードについていけないために自分の特徴を生かせなかった。バッティングでは振り幅が広くなって28打数でたったの4本しかヒットが出なかったし、守りでも、上手な一枝さんがいるので、つい安易になって、もう一歩踏み込みがなかった」坪井は大いに反省していたが、比較的あっさりした性格の中日ナインの中では異色の存在だ。十二月十三日には大岩瑞代さん(23)=愛知県知多郡知多町内海利屋、果樹園経営、精市氏長女=と結婚式をあげる。「女性まで三年かかってくどいたのか」とひやかされているが「とにかく来年はことしの試合数(18)の倍は出ようと思っています。生活がかかってきますし」と控えめながら来年への抱負を語っていた。


本多二軍チーフコーチの話 ニックネームそのものの粘り強い性格をグラウンドで十二分に発揮している。いわゆるゲームに使いやすい性格だ。ウチのプレーヤーはどちらかといえば淡白な性格が多いだけに得がたい存在だ。いろいろのタイプがそろってこそゲーム運びにも楽になる。その意味で坪井は楽しみだ。テストで入団、苦労しているので根性もあるし、一軍のスピードについていけるようになれば目立たないが面白いプレーヤーになるだろう。

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柳田利夫

2023-10-07 19:57:24 | 日記
1962年
熱海伊豆山の納会に出席した柳田が、田宮の運転するオペルで都内上野の根津八重垣町にある青葉荘に帰ってきたのは、午後五時だった。「えっ、巨人に移籍ですって?」洋服を着替えながら、全く意外といった表情を見せた。ムリもない。「新聞はみな田宮さんのことばかりでしょ。だからボクもそのことばかり気にかかっていたんです」という。「秋季練習が始まってすぐ、本堂さんから来年は外野をやってもらうかもしれないといわれたんです。ボクもその気になって生意気なようですが、なんとか外野陣の一角に食い込んでやると意気込んでいたんです」公式戦終盤五試合連続ホーマー(日本タイ)するなど、急ピッチでバッティングのコツを体得した柳田には、それなりの自信があったのだろう。「ボクは大毎がほんとうに好きです。でもボクは十年選手のように拒否権など使えないでしょう。もし堀本との交換が正式に決まれば、ボクはやはり巨人にいくでしょうね?」本人にはまだ正式な通知はない。だが球団ではすでに放出を決定した。柳田はやはり不安である。この柳田には実は阪急がすでに十一月十六日にトレードを申し込んでいる。「阪急から話があったのは、うすうす知っていました。だから阪急だったら別に驚かなかったでしょう。でも巨人からとは…」何度も巨人から…のことばが飛び出してくる。「ボウリングでもやって、少し気を静めてからじっくり考えます」東京スタジアムの地下にあるボウリング場で、一般のボウラーにまじってピンを倒しているうちに平静を取り戻したらしい。「こうなったらジタバタしてもしようがありませんや。もし巨人に移籍が決まったら、全力を尽くしてやるだけです。もちろん五番打者の座をねらいますよ」いつのまにか飛躍して、もう巨人の選手のような口をきくあたり、いかにも一本気な柳田らしかった。

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秋山重雄

2023-10-06 21:59:55 | 日記
1980年
渋いプレーヤーとして鳴らした秋山重雄氏は、倉敷工時代に二度甲子園に出場。立教大学に進学後、2年からレギュラーに定着して、3年で小川享と中軸を打ち、44年に近鉄に入団した。秋山氏の現役時代での一番の思い出は、50年後期に優勝した事で、今でも忘れられないそうである。解説者としての秋山氏は、常に近鉄を思う心で満ちている。退団後、神戸板宿の兄の元でブティック経営を学んでいたが、現在は仕入れから販売戦略まで一人で切り回している。商売熱心であり、各種のセミナーに出席して販売作戦の研究をする毎日である。このセミナーで得たものが心理学。これを野球解説に生かしたいという抱負をもって、プレーをしている選手の人柄・心理状態を分析したうえで、マイクに向っている。お洒落な秋山氏は、お酒に強いほうだが、野球談義に花を咲かせる事もしばしば。本当に野球が好きで好きでたまらないといった好青年である。宴会の席でのお得意の曲は「思い出のサンフランシスコ」。野球一筋の青春を過ごした近鉄時代のコーチ、広田順さんとの送別会で、同氏とデュエットした。これを歌うと、いつもスタッフや女性たちを惹きつける。近鉄が日本一になるように、板宿の氏神様に参拝に行くことがあるという、近鉄を愛する秋山重雄氏なのである。


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田中和男

2023-10-06 21:59:55 | 日記
1961年
田中の四兄弟といえば野球界ではあまりにも有名である。長兄の武智文雄は近鉄のA級十年選手、次兄田中幹雄投手は東洋レーヨン、三兄田中照雄投手も、元近鉄で活躍した現在常磐炭鉱、末弟が今度東映入りした和男一塁手である。四人のうちでも和男一塁手が素質は一番だといわれるから有望だ。田中は岐阜商で投手兼一塁手として働き、村瀬(早大)清沢(慶大)たちとともに甲子園で準優勝、法大でもレギュラーの三番打者として打ちまくった。長兄の武智投手は、「もっとも素質がありながら、もっとも気をもませるヤツ」と批評する。田中は末っ子にありがちな無欲なところがマイナスとなっているからだ。投手として法大に誘われそれを果たせず、打者に転向してまだ一流になれないのがそのためだ。だが、田中はプロ入りに踏み切るに当り、今までに無い強い態度を見せ、長兄の薦める松下電器を断り、プロでやりたいと譲らなかったそうだ。ようやく欲が出てきたようである。水原監督を迎えて東映も気分一新の年で、田中にとっては絶好のチャンスとなろう。

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川端英文

2023-10-06 06:48:07 | 日記
1965年


三日の夕方父親富次さん(46)が合宿の玄関にボンヤリ立っていた。静岡県伊東署の刑事という忙しい仕事柄、めったに寄れないのだが、所用のあいまちょっと長男の顔が見たかった。丸子橋で降りたナインが川端君を見つけるまでに二十分もかかった。合宿と練習場を往復するマイクロバスが満員で歩いて帰ってきたものだった。おみやげのミカン箱を受け取る川端君はまたひと回り大きく、たくましくなっていた。二年間で身長は7㌢伸び、現在179㌢、体重も72㌔にふえた。「でも学校がきらいで、プロ選手への道を歩く決心をした英文の気持ちを大事にしてやりたいですね。まだ十七歳、先のことを心配せず思う通りにやらせてきているんです」と富次さんはいう。午後七時半起床。練習が終わればすぐ川向こうの東京高校(大田区鵜ノ木町)定時制へ。合宿にもどるのは午後十時近い。「授業を受けていてもねむいし、キャンプで休んでいる間に、どんどん進んでいてわからなくなっていることも多いんです。こんど三年ですが、あと二年間も耐えられるかな」と今の苦しさを語る。テスト生として紹介した荒川コーチがほめる通り、バッティングはシャープで、足も速い。希望ポジションも外野だった。だがバッティング練習を思うようにさせてもらう時間はない。この日もわずかな時間フリー・バッティングに混じったが、約一ヶ月ぶりのことだった。テスト生の後輩佐藤優君(15)と幼いグチをもらすこともあった。しかし、この川端君に最近、正式契約の話が持ち上がってきた。まだしばらく先になるかもしれないが、学校を休んでも練習したい気持ちはまた強くなった。球団から約二万円のおこづかいは出るし、女学生の声援も多い。キャンプから帰ってきたら千通もファンレターがたまっていた。だが川端君は「ばからしい」といい捨てるだけ。練習台から選手への道に十七歳の負けん気を注いでいる。

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