2、3分後には‥‥明るくなって
やがて赤々と朝陽が昇る、まだ静かだ。
年末年始、都心部は静まりかえる。
けれども、森の静けさとは質のことなる静かさで
うまく一言では表せないのだが、乾いたノイズがまだ残っている
本当の静寂ではない感じだ。
頭痛がするのである。
こんなことではいけないと思うのだが、わたしは森の中に長く居すぎて
もう東京では長居はできないようだ。
人とは生物学的には足ることを知るのは無理なのだ、強欲さは不安の裏返しで
生きる本能なのだからと、ある生物学者が書いていた。
だが、一方の側面だけが肥大し増殖し、この都会に集まっているだけのことだ。
肉体としての人、不安にさいなまされているのはそれなのだから。
では、こころはどこだ?
森へ帰れば、誰だって、そんなに欲しがらない。
遊びにきて一日二日いたくらいでは、都会のリズムがまだ抜けなくて、
物足らなさやせわしなさが勝っているから、シンプルそのものの森では
手持ち無沙汰になる。
やることなくて、かまくら作ったりしちゃうんである。
(所在なさげな客人にかまくらでも作る?とつい言ってはみたが‥)
たまにしか来ない人は、なにかせずにいられない「癖」がでる。
そんなとき意外と脳ははたらいていないってことだ。
予定調和の場以外では、はたらかない脳、NOだね(サブッ)
けれども、三日目くらいから順応してくる。
深呼吸したり、思いつく、自然と。
そして忙しく学習しようとするが、記憶にないことに適応しにくい脳もある。
思い込みが激しいと、なかなか動かない。
やわらかな脳でなければ、森のなかにいても都会にいるのと同じことである。
感じる脳、それがこころを引き出していく。
人の五感は、本来、そのために使うのである。脳も飼いならすべし。
足ることを知るとは、そうむずかしいことではない。
足らなくて追い求め、飽くことなく貪りつづける「業」に比べれば
とても簡単なことだと思うのだが。
正月二日目、自分の身がずいぶん軽くなっていたことに気づいて
だからといって、体重のことではないから、あんこを食べ過ぎたりは
しないのである。
夜に、行方知れずになっていた友人の犬が無事に戻ってきたと知らせがあって
感謝感謝感謝、踊りました!歌いながら。
ご心配おかけしたねずみ師にも、ありがとうございました。
不安から一転して、喜び、生きているということは忙しい。
やがて赤々と朝陽が昇る、まだ静かだ。
年末年始、都心部は静まりかえる。
けれども、森の静けさとは質のことなる静かさで
うまく一言では表せないのだが、乾いたノイズがまだ残っている
本当の静寂ではない感じだ。
頭痛がするのである。
こんなことではいけないと思うのだが、わたしは森の中に長く居すぎて
もう東京では長居はできないようだ。
人とは生物学的には足ることを知るのは無理なのだ、強欲さは不安の裏返しで
生きる本能なのだからと、ある生物学者が書いていた。
だが、一方の側面だけが肥大し増殖し、この都会に集まっているだけのことだ。
肉体としての人、不安にさいなまされているのはそれなのだから。
では、こころはどこだ?
森へ帰れば、誰だって、そんなに欲しがらない。
遊びにきて一日二日いたくらいでは、都会のリズムがまだ抜けなくて、
物足らなさやせわしなさが勝っているから、シンプルそのものの森では
手持ち無沙汰になる。
やることなくて、かまくら作ったりしちゃうんである。
(所在なさげな客人にかまくらでも作る?とつい言ってはみたが‥)
たまにしか来ない人は、なにかせずにいられない「癖」がでる。
そんなとき意外と脳ははたらいていないってことだ。
予定調和の場以外では、はたらかない脳、NOだね(サブッ)
けれども、三日目くらいから順応してくる。
深呼吸したり、思いつく、自然と。
そして忙しく学習しようとするが、記憶にないことに適応しにくい脳もある。
思い込みが激しいと、なかなか動かない。
やわらかな脳でなければ、森のなかにいても都会にいるのと同じことである。
感じる脳、それがこころを引き出していく。
人の五感は、本来、そのために使うのである。脳も飼いならすべし。
足ることを知るとは、そうむずかしいことではない。
足らなくて追い求め、飽くことなく貪りつづける「業」に比べれば
とても簡単なことだと思うのだが。
正月二日目、自分の身がずいぶん軽くなっていたことに気づいて
だからといって、体重のことではないから、あんこを食べ過ぎたりは
しないのである。
夜に、行方知れずになっていた友人の犬が無事に戻ってきたと知らせがあって
感謝感謝感謝、踊りました!歌いながら。
ご心配おかけしたねずみ師にも、ありがとうございました。
不安から一転して、喜び、生きているということは忙しい。